二・二八事件
台湾で発生した民衆による暴動と、それを武力弾圧した事件
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二・二八事件(ににはちじけん)とは、1947年(民国36年)2月28日に、中華民国台湾省台北市で発生し、その後台湾全土へ波及した民衆による抗議蜂起と、それに対する当局による武力弾圧事件である。
1947年2月27日、台北市で一人の取締官がタバコを売っていた台湾人の女を取り調べている時、群衆の中の誰かが発砲して見物人を殺し、円環闇煙草取り締まり事件が起きた。翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。蔣介石は、本人の日記で二・二八事件の後に事情の経緯を知り、陳儀の二・二八事件に対する処理が不適切だと判断して陳儀を非難した[1]。
背景

1945年に日本の敗戦により第二次世界大戦が終結すると、カイロ宣言に基づき連合国軍の委託を受けて、蔣介石主席率いる中華民国国民政府が、日本の統治下にあった台湾を接収した(台湾光復)[2]。同年9月に台湾省行政長官公署が発足し、陳儀長官が日本の降伏を受諾した[2]。
台湾住民は当初「台湾光復」を歓迎したが[2]、国民党政権は、市民に賄賂を要求するなど腐敗しきっていたほか[3]、日本語の使用禁止や台湾の自治延期といった政策、ハイパーインフレや疫病の波及などにより、台湾住民は失望や怒りを募らせていった[4]

日本統治時代の台湾の経済は、日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった[5]。台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、中国上海市の国際市場で競売にかけられるに到り、物資不足に陥った台湾では、相対的に物価は高騰、インフレーションによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。
経済は混乱し、さらに日本の統治を体験した台湾人にとって、役人の著しい汚職、治安関係者などの横暴などは受け入れがたく、人々の不満は高まっていった。当時の台湾人はこれらの状況を「犬去りて、豚来たる」(狗去豬來、(「どう猛でうるさい犬(日本)が去り、貪り食うだけの豚(国民党)がやって来た」という皮肉)と呼んで揶揄した[3]
経緯
戦後の台湾では、日本統治時代の専売制度を引き継ぎ酒・タバコ・砂糖・塩等は全て政府によって専売された。しかし、中国本土ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。
1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた女性(林江邁、40歳、2人の子持ち寡婦)を、官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名と警察官4名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収した。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾本省人が集まった。すると取締官は今度は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人である陳文渓に被弾・死亡させてしまい、逃亡した。
この事件をきっかけとし、民衆の政府への怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に大挙して押しかけたが、庁舎を守備する衛兵は屋上から機関銃で銃弾を浴びせかけ、多くの市民が死傷した[6][7]。
激怒した台湾人民衆は政府の諸施設を襲撃し、外省人の商店を焼いた[6]。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せない人々もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、台湾本省人たちは共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ、立ち上がれ 」と全島に呼びかけた[8]。
3月1日からは各主要都市で民衆が蜂起して官庁や警察を占拠し、外省人を殴打した[6]。台南では台南飛行場が占拠され、旧日本軍の飛行機で東京に飛んでマッカーサー元帥に陳情してGHQの占領下に組み入れてもらおうとする者もいた(機体の部品が欠損していたため果たせず)[8]。高雄では要塞司令の彭孟緝がこれに対し武力掃討を行い、多くの死者を出している[7]。
3月4日には台湾人による秩序維持と食糧確保のための全島処理委員会が成立。事態の収拾に向けて、知識人や地方名士からなる二・二八事件処理委員会も台湾各地に組織され、台北の同委員会は3月7日に貪官汚吏の一掃・省自治の実施・政府各機関への台湾人の登用などの改革を陳儀に要求した[6][7]。
陳儀は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では中国本土の国民政府に密かに援軍を要請していた[4]。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っている。
国民政府主席蔣介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし[注釈 1]、3月8日に中国本土から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。路上や屋内で蜂起した学生や一般市民の集団殺戮が行われたのをはじめ、裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。台湾籍の旧日本軍所属の元兵士や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、中華民国政権軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。[要出典]しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が中華民国政権軍の支配下に収まった。
嘉義市の議員で民衆側に立った陳澄波が市中引き回しのうえで嘉義駅前で銃殺されたのをはじめ[7]、この事件によって多くの台湾人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。漢人本省人の地方指導者らの政治勢力はここでいったん壊滅したとも言われている。犠牲者数については800人〜10万人まで様々な説があり[10]、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、今も政府・民間双方の間で行なわれている。1992年(民国81年)、中華民国行政院は、事件の犠牲者数を1万8千〜2万8千人とする推計を公表している[11]。
事件当時地区ごとに度々発令された戒厳令は台湾省政府の成立をもって一旦は解除された。しかしその後、1949年(民国38年)5月19日に改めて発令された戒厳令は38年後[12] の1987年(民国76年)まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑される根源となった。この事件については語ることも禁じられていた[13]。また、内外の批判によって中華民国政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。
犠牲者一覧
犠牲者(一部)
| 氏名 | 写真 | 説明 |
|---|---|---|
| 莊木火 | 瑞芳小学校校長。台湾の教員免許試験に合格。瑞芳市場で銃殺刑に処せられた。 | |
| 楊元丁 | 抗日活動家、初代基隆市議会議員、市議会副議長を務めた。「基隆自営商人協会」を設立、「瑞芳農民協会」を組織し、ブルーカラー層への支援に積極的に取り組んだ。二・二八事件の際、基隆で米不足が発生し、基隆へ向かう米輸送車が通行不能となった。楊元定副議長は交渉に赴いたが、兵士に銃撃され、川に蹴り落とされた。女優伊能静の母方の祖父である。 | |
| 陳澄波 | 台湾の著名な画家。嘉義市議員、台湾総督府国語学校卒業、東京美術学校大学院卒業、日本画家・石川欽一郎の高弟[14]。帝国美術展に台湾人として初めて入選。上海新華美術学院西洋画科教授、上海昌明美術学院教授、学院長を歴任。1931年には「当代十二傑代表画家」に選ばれ、作品はシカゴ万国博覧会に出品された。二・二八事件の際、和平使節として水上飛行場で国民党軍を慰問したが、逮捕され、太い鉄線で縛られ、裁判も経ずに嘉義駅前で処刑された。 | |
| 陳炘 | 台北師範学校を卒業後、米国アイオワ州グリネル大学で学び、ニューヨークのコロンビア大学で経済学博士号を取得。日本統治時代に台湾人の経営として最初の金融機関「大東信託」を設立。戦後「大公企業会社」を設立。二・二八事件で警察に連行され、殺害された。信託会社の資産は没収された。 | |
| 陳能通 | キリスト教徒の家庭に生まれ、京都帝国大学物理学科を卒業。台南の長栄高等学校と淡水高等学校の校長を務めた。二・二八事件後、午前5時に校長寮に押し入った兵士に連れ去られ、行方不明となった。馬偕博士の息子であるジョージ・ウィリアム・マッケイは、命がけで台湾警備総司令部参謀長の柯元芬を訪ね、陳能通を救出しようと試みたが、叶わなかった。 | |
| 陳屋 | 抗日活動家、台北市議会議員。日本統治時代は労働運動に熱心に取り組み「台北店員会」を組織した。二・二八事件発生時には、台湾駐屯軍軍事法務室に出向き、専売局のタバコ密輸担当官による捜査を調査し、犯人が拘束されているかどうかを確認した。その後、国民党軍による掃討作戦で殺害された。 | |
| 黃朝生 | 台北市議会議員。台湾総督府医学校(現・台湾大学医学院)卒。在学中は、先輩である蔣渭水が経営する大安医院の上階に下宿していた。開業から数年後、台北市議会議員に選出された。妻の陳招治(台北市立女子中学校校長)と共に、外省籍教師たちが親戚や友人宅に身を隠していたのを手助けした。当初は治安維持活動に従事し、後に「二・二八事件処理委員会」の代表として南京で中央政府に事件の真相解明を求める請願活動を行った。出発直前、陳儀と柯遠芬が率いる部隊に殺害され、遺体は行方不明となっている。 | |
| 黃媽典 | 台湾総督府医学校(現・台湾大学医学院)卒業。日本統治時代には朴子街町長(現・鎮長)、台湾総督府評議会員、嘉義客運経営、台南県商工会議所会長などを歴任。二・二八事件当時は台南県議を務め、新営区で銃殺刑に処された。 | |
| 黃阿統 | 新竹芎林郷出身の客家人。台北第二師範学校を卒業し、淡水中学校の訓導主任を務めた。二・二八事件発生時のある朝、彼は殺害された生徒たちの対応のため学校を訪れたが、校内に侵入した武装兵士に校長と共に連行され、行方不明となった。 | |
| 簡錦文 | 台湾総督府博愛会医務衛生技術員養成所を卒業し、基隆要塞司令部で軍医として勤務した。二・二八事件後、基隆要塞司令部に勤務を開始したものの、行方不明となる。その後、台湾警備総司令部は彼の家族に、彼が暴動扇動罪で有罪判決を受け処刑されたことを知らせた。当時わずか23歳であった。死から1年後、家族は埋葬地に居合わせた人々の協力を得て、彼の遺体を発見した。 | |
| 廖進平 | 台湾総督府農業試験場卒業、台中葫蘆墩区役所書記、台中州、豊原郡 (台湾)神岡庄協議会員、広福貿易会社総経理、南方電気工業会社監査役、日本統治時代の台湾民衆党創立メンバー、社会運動家、蒋渭水大葬列総指揮者などを歴任。二・二八事件発生時、台北市八里区で憲兵に逮捕され行方不明となった。 | |
| 顧尚泰 | 西洋医学教育を受けた医師。二・二八事件の際、友人である漢方医の李持芳と印刷工場の技術者の王濟寧と共に、虎尾鎮和平路東市場で処刑された。1975年に地元の人々が彼らのために廟を建て、1977年に3人はそこに祀られ、虎尾三姓公廟と名付けられた。 | |
| 許朝宗 | 芸人許效舜の祖父であり、八堵駅副駅長。二・二八事件の際、列車の運行遅延を避けるため、親戚や友人の忠告を無視して出勤を主張した。その後、彼と8人の同僚は澳底砲台台長史国華の部下に連行され、行方不明となった。 | |
| 許錫謙 | 花蓮出身。花蓮の大富豪・許柳枝の子であり、著名な作家・楊照の外祖父にあたる。三民主義青年団花蓮分団で宣伝幹事を務め、同団の7名の幹事の一人でもあった。
二・二八事件勃発後は「青年大同盟」の総指揮を務め、続いて二・二八事件処理委員会花蓮分会の設立後は同会の重要幹部となった。 その後、台北へ避難していたが、当時の官選花蓮県長・張文成および憲兵隊長の説得を受け、叔父を通じて帰郷を促され、「身の安全は保証する」とされたため帰途についた。しかし、花蓮へ戻る途中、南方澳付近で待ち伏せしていた軍・憲兵関係者によって射殺された。頭部および肘に被弾し、後頭部は破壊され、死状は極めて凄惨であった。 | |
| 徐春卿 | 台北市松山区出身。台北市参議員。台湾総督府国語学校(現・台北教育大学)卒業。羅東公立学校順安分教場および錫口(現・台北市松山区)公立学校に勤務し、公立学校の訓導および教員として13年間務めた。
国民政府の台湾進駐後は、徐春卿は行政長官公署の諮議および接収された日本資産を処理する「日産処理委員会」の委員に任命された。1946年、台北市参議員に当選。在任中は不正の告発に積極的で、陳儀政権の汚職・腐敗を批判し、浙江系財閥による在台日本資産の安価な買い占めに公然と反対したため、官僚や財閥の反感を買った。 二・二八事件発生後は、「二・二八事件処理委員会」交通組組長に推挙され、鉄道による兵員輸送の禁止や、水源地を監視して住民を保護することを提案した。友人から一時的な避難を勧められたが、自身は後ろめたい行いはしていないとして現地に留まり、社会秩序の維持に努めた。しかし、私服の特務員2名に外出を促され、そのまま行方不明となった。 | |
| 高環 | 三界・六股の地方名士である高永和の娘。基隆虐殺の被害者で、妊娠中であった。3月10日、夫の呉蓋一とともに金山駅において、戒厳司令官・史宏熹少将配下の部隊による「清郷」行動の最中に路上で射殺された。死亡後、身に着けていた金飾りなどの貴重品はすべて略奪された。二人の遺体は車の後部に縛り付けられ、民生路公園入口付近まで引きずられた後、逆さの状態で海浜に埋められた[15]。 | |
| 郭章垣 | 日本の慶應義塾大学医学部卒業、宜蘭省立医院の院長。二・二八事件の際、軍人によって自宅の窓を破られ、扉をこじ開けられて連行された。その後、宜蘭の頭城媽祖廟前で射殺された遺体として発見された。郭の死後、妻は次の文言が記された書簡を発見したとされる。「生きて祖国を離れ、死して祖国に帰る。生死は天命であり、思いも悔いもない」。 | |
| 郭守義 | 名医として知られる郭太平の子。日本の昭和医科大学を卒業し、基隆市博愛医院の院長を務めた。二・二八事件の際、自宅において軍人に患者の診察を求められることを口実に誘い出され、連行された後、左胸を銃撃され死亡した。 | |
| 李仁貴 | 台北市参議員。「御成軒」を経営し、台北商工協会理事、台北電気広福産業股份有限公司董事長(会長)、台湾省政治建設協会の会員を務めた。二・二八事件発生の約1か月前には、介寿館の改築のために300万元を寄付している。二・二八事件の際、自宅で私服警官3名に不当に逮捕され、殺害された。 | |
| 李瑞漢 | 日本の東京にある中央大学法学部を卒業し、高等文官司法科試験に合格。台北市議員、台北市弁護士会会長を務めた。二・二八事件の際、憲兵第四団団長張慕陶が、台湾省行政長官陳儀による会議への招集を名目として、李瑞漢兄弟を参議員の林連宗とともに連行し、そのまま帰らなかった。 | |
| 李瑞峰 | 弁護士として活動しており、兄の李瑞漢とともに中央大学を卒業した。二・二八事件の際、兄および参議員の林連宗とともに、私服警官4人と憲兵1人に連行された後、行方不明となった。 | |
| 李丹修 | 基隆八堵駅駅長。二・二八事件の際、駅の副駅長、総務、運転担当、改札係など計8名とともに、軍人により軍用トラックに連行されたのち行方不明となった。 | |
| 林旭屏 | 東京帝国大学法学部を卒業し、日本の高等文官試験に合格。台湾籍の煙草・酒専売局煙草課長を務めた。二・二八事件の際、外省籍の職員がすべて職場を離れる中、通常どおりバスで出勤したが、軍人に呼び出されて連れ出され、殺害された。遺体は台北市南港橋の下で発見された。 | |
| 林連宗 | 台湾省制憲国民大会代表、台湾省参議員、台湾弁護士会会長を務めた。日本の中央大学を卒業し、行政科及び司法科の二重高等試験合格した。二・二八事件処理委員会委員でもあった。台湾省参議会において、台湾の警察行政、教育、司法制度の欠陥を繰り返し指摘し、地方監察委員会の設置や、汚職・腐敗及び独占的支配を防ぐため独占経済を担う貿易局の廃止を提案した。これにより政府の不興を買い、二・二八事件のさなか、憲兵に連行された後、行方不明となった。 | |
| 林桂端 | 台中神岡出身、日本の早稲田大学法学部卒業、弁護士。王添灯の弁護人を務めたことから、二・二八事件の際、憲兵隊長は、王添灯が弁護士の林桂端と相談があるという口実で、武装した憲兵4人を率いて林桂端を自宅から連れ去り、その後行方不明になった。 | |
| 林茂生 | 東京大学文学士、アメリカコロンビア大学哲学博士、台湾史上初の哲学博士(1929年取得)および米国留学博士である。長栄中学校教務主任、台南師範学校兼任、台北高等商業学校 (現・台湾大学管理学院)教授、台南高等工業学校(現・成功大学)教授、台南商業専門学校で教鞭を執る。終戦後、台湾大学の引継ぎを支援し、『台湾民報』を創刊、多くの外省籍の友人を得た。台湾文芸社理事を務め、同じく江西出身の理事とは親交が深かった。二・二八事件の際、武装した8名に台湾大学校長が話があるとして連れ去られ、そのまま行方不明となった。 | |
| 阮朝日 | 台湾総督府国語学校(現 台北教育大学)、福島高等商業学校卒業。阮家一族の家族企業の董事長を務め、林辺庄協議会議員、《台湾新生報》総経理(社長)を歴任した。二・二八事件の際、自宅において中山服を着用した5人の人物により強制的に連行され、その後、行方不明となった。娘の阮美姝は、1960年、日本で音楽を学ぶ傍ら、父の死因を調べ始め、現在も二・二八事件の調査研究を精力的に行っている。阮美姝は2002年3月23日、屏東に 阮朝日228記念館 を設立したが、同記念館は2006年6月30日に運営を終了した。収蔵されていた文物は4つに分けられ、台北の台湾神学院、台南の真理大学麻豆分校、阮美姝二二八記念室、ならびに施国政氏(阮朝日二二八記念館執行長)によってそれぞれ保存されている。 | |
| 施江南 | 京都帝国大学医学博士。杜聰明に次ぐ、台湾史上2人目の医学博士であり、京都帝国大学医学部内科を専攻した。日本統治時代には台北州議員を務め、皇民奉公会中央本部参事、台湾奉公医師団本部理事として招かれた。戦後は「台北市医師会」副会長、「台湾省科学振興会」主席を歴任した。二・二八事件当時、マラリアを患い病床に伏し、台北市の四方医院で療養していたが、5、6名の軍人と2名の私服警官が病院の扉2枚を破って侵入し、連行された後、行方不明となった。 | |
| 宋斐如 | 台南の仁徳区出身。台北高等学校、北京大学経済学部卒業。行政長官公署で唯一の第一級機関副長官(教育処副処長)を務めた台湾籍高級官僚。《人民導報》の創設者でもある。二・二八事件の際、自宅にて強制的に逮捕され、その後行方不明となった。 | |
| 湯德章 | 弁護士資格取得、高等文官司法試験合格。二・二八事件発生後、3月6日に「二二八事件処理委員会台南市分会」が設立され、湯は治安組長に推挙された。3月11日、20~30名の憲兵・警察官が自宅に押し入り、逮捕された。3月12日、国軍の厳しい拷問により、湯徳章は一晩中吊るし上げられ、肋骨は銃床で打ち砕かれ[16]、指を挟まれて腫れ上がった[17]。拷問後、両手を後ろ手に縛られ、氏名を書いた木札を背に付けられたうえ、トラックに縛り付けられて台南市街を引き回された[16]。3月13日、反乱罪で民生緑園に連行され公開銃殺刑に処された。処刑の場においても湯は落ち着いた様子を保ち、周囲の市民に微笑みかけたとされる[16]。処刑の際、数人の兵士に何度も蹴られ、跪くよう強要されたが、兵士に向かって罵声を浴びせ、頑なに跪くことを拒んだ。兵士は湯徳章の足を蹴ると、すぐに発砲した[18][19]。弾丸は鼻梁と額を貫通し、鮮血と脳漿が地面に飛び散った。湯の目は怒りに見開かれたまま、しばらく傲然と立ち尽くし、しばらくしてようやく倒れたとされる[16]。両目は依然として見開かれたままで、その死状は悲惨を極めた[20]。湯徳章は長年市民から尊敬され崇敬されていたため[16][21]、現場に集まった群衆は彼に対する不当な扱いに悲しみと怒りを覚え、その場で涙を流し、泣き叫ぶ者も少なくなかった[22][16]。 唐徳章が処刑された後、国民軍は家族に遺体の引き取りを許可せず、公園に放置することを強制した。度重なる嘆願の後、ようやく遺体に毛布をかけることを許されたものの、移動させることは許されなかった。遺体は3日間地面に放置されたまま[16]、湯徳章の妻は遺体の傍らで涙を流した[23]。 | |
| 凃光明 | 高雄市役所、日産清査室主任。高雄市長の黄仲図や高雄市議会議長の彭清靠と共に寿山要塞司令部へ赴き彭孟緝との交渉を試みた。彭明敏によれば、針金で縛られ、ペンチで締め上げられ、痛みに耐えかねて悲鳴を上げるまで拷問を受けた。一晩の拷問の後、銃殺された[24]。 | |
| 王添灯 | 台湾省参議員、日本統治時代の実業家。戦後は三民主義青年団台北分団主任、『人民導報』社長を務めた。行政長官公署の腐敗や公務員の汚職を強く批判し、政府の不興を買った。二・二八事件の際、王添灯は自宅で私服の人物に連れ去られ、その後行方不明となった。蘇新によれば、王添灯は国軍憲兵第四団団長の張慕陶による取調べ中に、ガソリンをかけられて焼き殺されたという。[25]。 | |
| 王育霖 | 東京帝国大学法学部卒業、司法官高等試験合格。日本統治時代には弁護士として活躍し、台湾初の検察官を務めた。戦後は新竹地方検察庁検事を務めた。真っ直ぐな性格で権力を恐れない人物だった。彼の弟である王育德は、二二八事件の際、王育霖が自宅で私服の人物に連れ去られ、その後行方不明になったと指摘しています。 | |
| 吳金鍊 | 台北師範学校、東京の青山学院大学文学部卒業。『台湾新生報』の日本語版編集長を務めた。日本統治時代には、『台湾新民報』の台南支局長、宜蘭支局長を務め、本社の社会部と政治部にも勤務した。二・二八事件の際、各地で発生した事件の状況を連日大きく報道したことから政府の不興を買い、新聞社内で強制的に連行された後、行方不明となった。 | |
| 吳鴻麒 | 中壢区出身客家人。台北地方法院判事、台湾高等法院判事を歴任した。台湾総督府国語学校師範部(現・台北教育大学)、龍潭公学校・中壢公学校に教鞭を執る。日本大学法科司法科卒業、高等文官試験合格、弁護士として開業。二・二八事件の際、台湾高等法院で私服警官に柯遠芬との面会を理由に強制連行される。四、五日後、南港坑道口で拷問を受け、顔を銃床で殴られ、頭を撃たれて死亡しているのが発見された。かつて軍民間の紛争で判決を下したことで、軍将校の恨みを買っていた。[注釈 3]。呉氏は性格が率直で、司法会の闇を頻繁に批判し、同僚に忠告していたため、恨みを買う可能性があった。特に王姓の検察官は嫌疑が濃厚で、呉夫人は呉氏の遺体に残された名刺に、爪で押された鮮明な「王」の文字があったと述べ、王氏が関与したことをほのめかしている[26]。国防最高委員会委員の劉文島は4月7日、呉鴻麒が(員林事件の担当により)台北市警察局長・陳松堅の逆鱗に触れ、連行された末に殺害されたと主張した[27]。これに対し、監察院は2001年および2002年に台湾高等法院を訪れ、吳鴻麒が1946年から1947年にかけて担当した事件に関する資料を調査しましたが、「員林事件」に関する記録は見つかりませんでした[28]:113。 | |
| 蕭朝金 | 日本統治時代の牧師、三民主義青年団岡山地区の責任者。二・二八事件の際、蕭朝錦は反政府行動を制止しようと努め、逮捕された青年たちの釈放を交渉したが、それでも冤罪を着せられ逮捕された。逮捕後、彼は激しい拷問に耐えたが跪くことを拒んだ。鼻、耳、性器を切断された後、銃殺された。 | |
| 張七郎 | 台湾省国民議会代表、花蓮県議会議長、医師。台湾総督府医学院を卒業後、基隆病院、台北馬偕記念病院に勤務した。第二次世界大戦後、張七郎は国民政府を迎えるために花蓮に壮大な門を建て、3人の息子に早く台湾に戻ってきて働くよう要請した。二・二八事件の際、長男の張宗仁医師は兵士に「兵士が嘔吐と下痢を起こしており治療が必要だ」と騙されて家から連れ出された。その後、張七郎と三男の張果仁医師は兵士に無理やり連れ去られ、3人とも後ろ縄で縛られ、鳳林郊外の墓地で銃殺刑に処された。[29]。次男の張依仁は東部警備区司令部が設立した労働訓導班で3ヶ月後に釈放されました。彼は、逮捕された際、妻が彼が長春を離れる時に病院に申請して取得した軍医証をポケットに入れていたと述べましたが、彼自身はそのことを覚えていないと言っています[30]、後にブラジルに亡命した[31]。1947年6月6日には公文があり、『張縣長から独立団に報告があり、張氏父子三人を独立団第五連隊長の董志成が鳳林鎮郊外の番社で密裁した』と記されています。これが花蓮県県長張文成の指示によるものと考えられています。許雪姬は、ただ文書の内容だけで情報が政府の行動にどのように影響したかを判断することはできないと指摘しています[32]:115,117。別の1947年4月1日付けの公文が花蓮県政府に送られ、内容は憲兵隊の王隊長が報告したもので、『制憲国民大会代表の鄭品聰が張七郎に共産党の疑いがあると指摘し、その理由は彼と共に南京で制憲活動を行った際、張の行動が怪しいと感じたため』とされています。張若彤は密告者として鄭品聰が信頼できると考えています。この公文は張七郎の死亡前数日以内に発行されたものであり、許雪姬が引用した公文は死亡後数ヶ月経ったもので、また、県長には軍隊を指揮する権限はなく、戒厳時期には戒厳司令が県政府に指示を出していたとされています[32]:117。 | |
| 潘木枝 | 日本の東京医学専門学校を卒業し、東京の長谷川内科医院で3年間研修、嘉義市東区で市議会議員選挙に立候補し最高得票で当選した(次点は台湾初の女性博士許世賢、 二・二八事件発生時、許世賢と娘の張博雅は陽明山へ避難した)。選挙期間中も病院で患者の診療を続けた。潘木枝医師は嘉義駐留の国民政府軍に無償で診療を提供し、医療費を支払えない貧しい人々も無料で治療し、多くの嘉義市民の命を救った。その中には蕭萬長も含まれ、嘉義市長の孫志俊は潘木枝を「再生の父母(命の恩人)」と呼ぶなど、嘉義市民から広く愛された。二・二八事件発生時、嘉義市処理委員会の代表として水上空港で国軍との和平交渉に臨んだが、逮捕された。国軍による拷問で爪に鉄釘を打ち込まれ、全身を縛られた状態で嘉義駅前に連行され銃殺処刑された。潘は激痛で叫び続け、顎が外れるほどだった。遺体は数日間路上に晒され、遺族による引き取りも許されなかった。息子である潘英哲が父を救出しようとしたが、国民党軍に頭部を撃たれ、15歳の若さで亡くなった。 | |
| 盧園 | 日本の上田繊維専門学校繊維化学科卒業、淡水中学化学科教師、三芝北新荘田心仔出身。婚約式の朝、陳能通校長の長女の哀願を聞き、校長を救出に出たところ、銃を持った二人の兵士に撃たれた。陸路が封鎖されていたため、北投の外科病院に搬送され応急処置を受けた後、淡水河をサンパン船で双連の馬偕病院へ搬送されたが、死亡が確認された。 | |
| 盧鈵欽 | 医師、嘉義市参議員。二・二八事件の際、義兄の林文樹参議員は潘木枝、陳澄波、柯麟、邱鴛鴦、劉伝来ら複数の参議員と共に空港へ和平交渉の代表として赴いたが逮捕された。盧鈵欽の長姉は荷物を準備し、逮捕を避けるよう彼に逃亡を促したが、盧鈵欽は「参議員として自ら出向いて解決しなければ」と自らの行為に過ちはないと主張した。国軍第21師団が嘉義市に進駐すると、市街地はさらに恐怖に包まれ、虐殺、略奪、強姦などの事件が相次いだ。市民は被害を恐れて市外へ避難した[33]。盧鈵欽は議会の同僚数名を救出しようと立ち向かったが、その場で憲兵隊に拘束され、後に嘉義駅前で銃殺された[34]。台北二二八紀念館には、盧鈵欽が銃弾を受けた血まみれの服1着と「妻との別れの手紙」1通が現在も保存されている。 | |
| 葉秋木 | 屏東市参議会議員、副議長。二・二八事件処理委員会屏東支部副支部長に選出された。屏東市のオピニオンリーダーとして活躍し、臨時市長に選出された。軍に逮捕された後、耳と性器を切り落とされ、街中を引き回された後、屏東市三角公園で銃殺刑に処された。 |
生存者と目撃者
| 氏名 | 説明 |
|---|---|
| 蔣渭川 | 日本統治時代の民族運動指導者蔣渭水の実弟[35][36]。台湾貿易商同盟会会長、台北市商会理事長、省商工会議所常務理事。3月10日、警察が家宅捜索に入った際、間一髪で難を逃れた[37]。しかし、彼女の娘である蔣巧雲は首を撃たれ、11日後に17歳で亡くなった。彼女は台北第二女子中学の2年生だった[38]。息子の蒋松平は銃弾を受けて胸に重傷を負い、妻は銃床で殴打され地面に倒れた。その後、蔣渭川は逃亡生活を送っていたが、丘念台が政府に身柄を保証したことで釈放された[39]。 |
| 彭清靠 | 医師、第一期高雄市参議会議長。二・二八事件発生当時、高雄市二二八事件処理委員会は市政府で会議を開き、高雄要塞司令彭孟緝に対し、兵士による高雄市民への発砲と処理委員会への脅迫を停止するよう要求することを決定。高雄市長黄仲図と議長彭清靠ら7名を高雄要塞司令部へ派遣し、彭孟緝との交渉に臨ませた。彭清靠ら代表団が司令部営地に足を踏み入れるや否や、即座に逮捕され、縄で縛られて首の後ろで結ばれた。その間、兵士たちは絶え間なく銃剣を胸に向け続け、一行はただ死を待つしかなかった。翌日、彭は突然釈放されて帰宅したが、その後二日間何も食べられず、精神は粉々に砕け、完全に幻滅した。この後、彭清靠は中国の政治に関与することも、中国の公共問題に気を配ることも一切なくなった。 |
| 張秀哲 | 本名は張月澄。魯迅が最も親しくした台湾人学生で、台北出身。二・二八事件当時、長官公署が経営する台湾紡織公司の副総経理を務め、戦後唐山から渡ってきた多くの友人を自邸に匿い、安全を守った。国政府軍が台湾に到着後、特務に自宅から連行され、警備総司令部情報処の地下牢に拘禁された(冤罪で投獄された経験のある元中央研究院副院長張光直は、この場所を「人間地獄」と称した)。家族はあらゆる政界・財界のコネを駆使し、巨額の資金を投じて救出を図った。台湾行政長官陳儀が自ら釈放命令を下し、警総参謀長柯遠芬が自ら牢獄に赴いて、ようやく彼は処刑を免れた。その一人息子張超英は著書『宮前町九十番地』で、父を「まるで別人になった…… 永遠に無表情」「釈放後は廃人のようで、笑うことさえできなくなった」「彼の夢も希望も完全に打ち砕かれた」「残りの人生は孤独な書斎で過ごし、外界とも家族とも口を利かず、自己閉塞の日々を送った」と記している。張超英は、親友たちが皆、この世から消え去ってしまったことが原因だと推測している。この骨身に刻まれるような打撃は、彼にとってまさに耐え難いものであり、台湾出身のエリートたちが一夜にして被害に遭った衝撃を経験した後、彼はそれ以来、意気消沈し、志を失ってしまった。 |
| 洪炎秋 | 魯迅、周作人、許壽裳に学んだ台湾人学生で、彰化の鹿港出身者および台南出身の宋斐如と同時期に北京大学へ留学した。二・二八事件当時は台湾省立台中師範学校校長を務めていた。二・二八事件後、「暴動を扇動し、国家転覆を企てた」との罪で国民政府当局により解職・捜査されたが、恩師である許壽裳の強い擁護により釈放された。 |
| 莊垂勝 | 洪炎秋の彰化鹿港の同郷。二・二八事件当時、台湾省立台中図書館館長を務め、台中市二二八事件時局処理委員会主任委員に推挙された。事件後、国政当局により「暴動扇動・陰謀叛国」の罪で罷免・調査処分を受けたが、洪炎秋と許寿裳の緊密な師弟関係により殺害を免れた。 |
| 張深切 | 魯迅の台湾の教え子で、南投草屯出身。二・二八事件当時、台湾省立台中師範学校の教務主任を務めていた。事件後、「暴動扇動・陰謀叛国」の罪名を着せられ、半年潜伏した。洪炎秋と許壽裳の緊密な師弟関係、および魯迅と許壽裳の兄弟のような友情により、殺害を免れた。 |
| 杜聰明 | 台北淡水区出身、日本の京都帝国大学医学博士。台湾初の医学博士であり、台湾史上初の博士でもある。台大医学院初代院長、台大医学院附属病院院長、台大代理校長、高雄医学院創立者兼初代院長。二・二八事件の際、台湾省参政員連誼会は3月5日に台湾大学医学部で定例会を開催し、杜聡明が議長を務め、中央に対して惨案の発生原因や経過を電報で報告し、対策の実施を求めることを議決しました。5月11日、杜聡明は台湾省政府委員に任命されました。 |
| 蔡丁贊 | 台湾の医学者、医学博士、台南出身、台南市営蔡耳鼻咽喉科病院院長。二・二八事件当時、台南市参議会議員を務め、後に逮捕されたが、殺害は免れた。 |
| 朱點人 | 台北万華区出身、日本統治時代の台湾で著名な作家であり、日本語と中国語で執筆活動を行っていた。国民党政府への不満と二・二八事件を契機に、思想が徐々に左傾化した。後に共産党に入党し、白色テロ時代に国民党の工作員に捕らえられ、殺害された。 |
| 呂赫若 | 本名は呂石堆。台湾の作家で台中出身。日本語と中国語で執筆した。「二・二八事件」後、左傾化して台北県石碇郷鹿窟に逃れたが、毒蛇に噛まれて死亡。鹿窟記念碑に記された白色テロの犠牲者である。 |
| 鍾理和 | 台湾の著名な作家。高雄市美濃の客家人。2月28日当日、台大病院内科病棟に肺結核による喀血の治療で入院しており、行政長官公署の衛兵が市民に向けて発砲する銃声を直接耳にした。また、搬送されてきた遺体の銃創の傷状や228当日に発生した状況を記録し、薬袋の裏面に鉛筆で3枚の日記を書き記した。『原郷人・二二八記事』に収録されている。 |
| 鍾浩東 | 高雄・美濃出身の客家人。作家・鍾理和の異母弟。二・二八事件当時、基隆中学校の校長を務めていた。作家藍波洲の小説『篷車之歌』は鍾浩東をモデルとしており、侯孝賢監督はこれを基に映画『好男好女』を制作した。その後、中国共産党員となり、白色テロ期に国民党工作員に逮捕され殺害された。 |
| 蕭道應 | 屏東県佳冬郷出身の客家人。台北帝国大学医学部卒業。抗日活動家。二・二八事件当時、台湾大学法医学科教授兼学科長を務めていた。二・二八事件発生時、蕭道應は国民政府に深い失望を覚え、後に中国共産党に勧誘された。白色テロ期には国民党工作員に逮捕され、思想転向を強要された。 |
| 林木杞 | 『基隆雨港二二八』の表紙に描かれている人物であり、国軍によって鉄線で手足を貫かれた状態で連行・処刑されたことを証言した生存者。戦後は基隆市警察局第二分局の工友(雑務職)を務めた。二・二八事件の最中、理由なく3名の刑事により警察総局へ連行され拷問を受け、その後さらに国軍に引き渡されて軍営で拷問を受けた。この一団は林木杞を含む計81名で、軍用トラックにより基隆元町派出所裏の海湾(現在の基隆文化センター駐車場)へ運ばれ、銃殺された。
林木杞は当時、9人を鉄線で一列につないだうちの最後尾(9人目)に縛られており、前の8人が次々に射殺されて海中に落下した際、その引きによって自らも海へ引き込まれた。弾丸は頭上をかすめただけで命中せず、落水後に鉄線を解いて辛うじて生還した。 台北二二八紀念館では、国軍が受難者の手足を鉄線で貫き、数珠つなぎにして銃殺した様子を描いた大型絵画が常設展示されている。 |
| 王桂榮 | 事件当時、台北二中(現在の台北市立成功高級中学)の学生であり、台美基金会と台湾人公共事務会]創設者。二・二八事件当時、林江邁と共に延平北路と南京東路の交差点近くにある天馬茶房と「黒美人」の牌楼前で露天商として外国製タバコを販売しており、専売局の取締官による煙草摘発の現場を目撃した[40]。 |
| ジョージ・H・カー | アメリカの外交官。第二次世界大戦前から台湾に居住していた。米国外交官補(外交サービス幹事)および副領事として在任中に事件を目撃し、その体験を後に『裏切られた台湾(原題:Formosa Betrayed)』として著した。 |
| アラン・J・シャックルトン | ニュージーランド国籍の国連駐台職員。事件を目撃し、後にこの経験を『フォルモサの呼び声』に記した[41]。 |
その後
事件後、関係者の多くは処刑されるか身を隠すか、あるいは国外逃亡を企てた。
後に中華民国総統を務めた李登輝は留学経験者という知識分子であったため処刑を恐れて知人宅に潜伏し、ほとぼりの冷めるのを待った。外国人初の直木賞受賞作家であり実業家の邱永漢は学生運動のリーダーであったが、当局の眼を掻い潜って出航。香港を経由して日本に逃亡した。亡命者の中には反国民党を掲げたものもあったが、当時は東西冷戦の時代であり、反中華民国・国民党=親共産党と見なされて、日米ではその主張は理解されなかった。
中華民国政府は事件後、戒厳令を38年の間施行した[42]。戒厳令下の台湾では政治活動や言論の自由は厳しく制限され、白色テロと呼ばれる人権抑圧が行われた[43]。
事件は本省人と外省人の間に社会的な分断(省籍矛盾)をもたらし[4]、事件について、長年語ることのできないタブーとなっていた[44][45]。さらに、この事件は台湾住民の意識形成にも大きな影響を与え、独立運動の原点とされる事件となった[46]。
しかし時が経つにつれ、これを話題にすることができる状況も生まれてくる。当初、政府は台湾人に高等教育を与えると反乱の元になる、と考えていたが、経済建設を進めるに当たって専門家の必要性が明白となり、方針を転換して大学の建設を認めた。
戒厳令解除後の1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画で、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した[44]。
李登輝体制下で事件の再調査が行われ、1992年に長大な調査報告書「二二八事件研究報告」が作成された[46]。
同年の1992年、史上初の『二・二八メモリアルコンサート』が、台湾の西洋オペラの父、自由と民主の戦士の音楽家としても知られる曾道雄(指揮)らによって実現された。曲目はモーツァルト作曲『レクイエム』とブラームス作曲『運命の歌』。当時『二・二八事件』はタブー視されていた用語でありコンサートを開催すること自体、前代未聞であった。これら音楽家の決意を評価した李登輝総統は、このコンサートに参加し謝罪スピーチまで行った。国民党内での自身の政治的基盤が未だ完全に確立していない事を承知の上、政治的リスクを負ってまで参加した李総統の勇気に文芸界と犠牲者家族から高い評価と敬意が向けられた。
1995年2月には台北新公園(現・二二八和平公園)に「二・二八事件記念碑」が建てられ、李自らが除幕式において、現職総統としては初めて公式な謝罪の意を表明した[46][6]。同公園内の台北二二八紀念館や台北市内の二二八国家記念館で、事件の資料が展示されている。台北二二八紀念館は蜂起が起きた後、台湾全土に向けて決起の呼びかけが発信されたラジオ局建物であったところである[13]。
2006年には、二・二八事件の最大の責任者は蔣介石だとする研究結果が発表された[47]。
外国人犠牲者への対応
二・二八事件が発生した当時、基隆市の社寮島(現・和平島)に約30人の琉球人漁民が残ったが、中国語が分からなかったため処刑された。2011年に訪台した沖縄県議員・當間盛夫らの要請により、「琉球漁民銅像記念碑」が設立された[48][49][50][51]。
2016年2月17日、台北高等行政法院は外国人犠牲者へ初めて賠償を認める判決を下し、二二八事件記念基金会(中華民国政府から委託を受け事件処理を行う基金)に対して犠牲になった与論島出身の日本人遺族の一人に600万新台湾ドル(約2050万円)の支払いを命じた[52]。また、これ以外にも日本人1人を含む外国人2人が犠牲者として認定を受けた。一方、事件前に与那国島から台湾へ渡ってそのまま失踪した2人は2017年7月と2018年3月に外国人犠牲者の認定申請が却下された[53]。
事件の評価
事件直後の報告書では、当局は二・二八事件を「日本の武士道の毒に染まった台湾人による蜂起」、「島内の共産分子に扇動された台湾人によって策動された反政府蜂起」と位置付けた[46]。
中華人民共和国政府は二・二八事件を「二・二八起義」と呼び、中国人民の反帝・反封建・反官僚資本主義運動の一部とみなし、事件に対して支持的な態度を示すだけでなく、台湾地区への統一戦線宣伝の策略としても利用した[54]。1977年2月28日、中国郵政は「台湾省人民二・二八起義 三十周年」記念切手を発行した[55]
2017年2月8日、中華人民共和国国務院台湾事務弁公室は二・二八事件70周年記念行事の開催を発表し、事件に対する中国政府としての「定性」を示した。国務院台湾事務弁公室は、二・二八事件を「中国人民解放闘争の一部」であり、「台湾共産党と中国共産党が主導した武装闘争」と位置づけ、謝雪紅の台湾民主連軍や張志忠の台湾自治連軍をその歴史的例として挙げた。また、「台湾独立勢力」が長年にわたり二・二八事件を利用して省籍対立をあおり、台湾社会を分断してきたと痛烈に批判し、中国共産党は二・二八事件に関与した共産党スパイの台湾での武装蜂起リストを公開すると発表した[56][57]
中華民国の促進転型正義委員会は、中国共産党の名簿にある多数のスパイを無罪と判断し、さらに賠償したことで世論から非難を受けた[58]
関連作品
映画
- 『悲情城市』 侯孝賢監督、1989年台湾作品。主な出演者:李天祿(リー・ティエンルー)、陳松勇(チェン・ソンユン)、高捷(カオ・ジエ)、梁朝偉(トニー・レオン)、辛樹芬(シン・シューフェン)
- 『好男好女』 侯孝賢監督、1995年台湾・日本合作作品。主な出演者:伊能静、林強(リン・チャン)、高捷(カオ・ジエ)
- 『天馬茶房』 林正盛監督、1999年台湾作品。主な出演者:林強(リン・チャン)、蕭淑慎(シァウ・シュウシェン)、龍紹華(ロン・シァウファー)、陳淑芳(チェン・シュウファン)
- 『傷痕228』 鄭文堂監督、セミ・ドキュメンタリー(一部再現ドラマ)、2005年台湾作品。
- 『台湾人生』 酒井充子監督。日本統治時代と戒厳令を乗り越えて、今を生きる人々の声に耳を傾けたドキュメンタリー。2009年日本作品。
- Taiwan 228 Massacre 60 Years On: 1947-2007 (紀念康阿裕) - 二・二八事件で蔣介石の中国国民党の軍隊から拷問を受けた康阿裕の証言。
小説
- 甘耀明『鬼殺し』 - 2009年刊。太平洋戦争中から戦後にかけての台湾が舞台で二・二八事件も描かれる。