He 178 (航空機)
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概要
前史
イギリス空軍の下士官フランク・ホイットル(Frank Whittle)が1929年に出願した遠心式ターボジェットエンジンに関する特許は、機密扱いされず専門誌などで広く紹介されたため、各国の空軍や技術者が注目し一部では後追いが始まった。
その中の1人が、ゲッティンゲン大学工学部の大学院生ハンス・フォン・オハイン(Hans Joachim Pabst von Ohain)で、ホイットルとは異なりラジアルタービンを用いる別形式を発案して特許出願し、友人のマックス・ハーン(Max Hahn)が経営する自動車整備工場の一角で、1934年から自費でジェットエンジンの試作に着手した。
博士課程修了後も継続的な開発を望んだオハインは、1936年に試作ジェットをエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)に見せたところ、即座に同社に招かれて本格的な開発が始まった。翌1937年、板金職人の手作りで気体水素を用いる初号機Heinkel Strahltriebwerk 1(HeS 1)の試運転を開始したが、これはホイットルの試作初号機W.U.(Whittle Unit)の運転開始とほぼ同時だった。
オハインの開発環境はホイットルに比べて恵まれており、軸流・遠心混成構造で軽油燃料による実用型HeS 3を搭載すべき実験機He 178の製作も、ハインケル社の自己資金で開始された。HeS 3がHe 118に吊下され飛行試験を重ねる中、同社のジークフリート・ギュンター(Siegfried Günter)が設計を担当したHe 178は、金属モノコック製胴体に木製の肩翼式直線テーパー主翼を持つ簡素な小型機で、機首にピトー型エアインテークを置くストレート配置とし、尾輪式降着装置は本来引込式であったにもかかわらず、非常時を想定し殆どの場合下げ位置で固定して運用されることになった。
世界初の偉業
He 112を改造した世界初のロケット推進機He 176に遅れること2ヶ月、数回のバウンド飛行に続き、1939年8月27日に同社テストパイロットのエーリッヒ・ワルシッツ(Erich Warsitz)の手でHe 178は初飛行した。これはホイットルらによるグロスター E.28/39の初飛行より1年半も早かったが、HeS 3bは低出力かつ耐久性にも欠け、速度は計画値を下回る325kt(600 km/h)に留まり、滞空時間も10分に制限されるなど、レシプロ機に対して明確な優位性を示せず、試作2号機(He 178 V2)に至っては推力不足で離陸もできずに終わった。
同年11月1日、エルンスト・ウーデット(Ernst Udet)、エアハルト・ミルヒ(Erhard Milch)らドイツ航空省(Reichsluftfahrtministerium, RLM)及びナチ高官の前でHe 176、He 178の展示飛行が催され、その場で戦闘機He 280の開発契約が結ばれたものの積極的な援助は得られなかった。
だが、ホイットルら競合者の動きを察知し、高速ジェット機の将来性に確信を抱いていた技官ヘルムート・シェルプ (Helmut Schelp) やハンス・アドルフ・マウフ (Hans Adolph Mauch) らは、ハインケルに He 280 計画を促す一方、航空機エンジン製造各社にもターボジェットエンジンの開発を非公式に打診した。この発注仕様109 が、後に軸流式のBMW 003(109/003)、Jumo 004(109/004)として具現化する。
試験を終えたHe 178はHe 176と共にドイツ空軍博物館(Luftwaffenmuseum)に展示されていたが、1943年のベルリン大空襲で焼失した。試作機のみだったにもかかわらず大々的に対外宣伝されたHe 100とは異なり、He 178の存在はプロパガンダされなかったため、機密情報に接することのできた各国軍の上層部や一部の技術者を除き、他国に戦後まで知られることはなかった。現在はレプリカが初飛行の地ロストック・ラーゲ空港(Flughafen Rostock-Laage)と、スミソニアン航空宇宙博物館に置かれている。
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ハインケル He 178 (カテゴリ)に関するメディアがあります。- ドイツ博物館による解説
- He 178 初飛行時の映像(mov)
- http://www.firstjetpilot.com (ワルシッツ外伝)

