ヌード
衣服を脱いだ人体を主な主題とした芸術作品
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概要

『アレオパゴス会議の前でのフリュネ(Phryné devant l'Areopage)』(1861年)
ヌード(芸術)は、裸体を題材として「ヌード写真」「ヌードシーン」などのように、絵画・彫刻・写真・映画といった創作物で使用される。ヌード写真は、医学のテキストや科学的記事など、真面目な媒体で使用されることもある[1]。

分類は複数あり、 芸術分野では、ヌード(観賞用の裸体)、ネイキッド(むき出しの裸体)、フレッシュ(肉の塊としての裸体)などの分類がある[2]。芸術で扱われるヌードには性器の描写も体の一部として行われるが、女性の場合、陰裂や小陰唇を省略した股間、男性の場合、陰茎が描かれても、亀頭が露出した露茎の描写は避けられることが多い。
歴史

古代から裸婦は豊かさと芳醇の象徴と見られる傾向にあった[3]。中世から19世紀のある時期まで、絵画におけるヌードは、神話に題材を取った女神の裸体などの宗教的な絵画表現の場合に限定して認められていた。
その後ヌードはモダニズムの考えによって変化していった。 古代ギリシアの実在の女性とされる「フリュネ」は後の画家や彫刻家の創造力を刺激し、多くの作品をもたらした。またフリュネは1953年の映画『Frine cortigiana d'Oriente』にも登場している。理想化された裸体は、エゴン・シーレ[4]の作品のように、個人的な観点で描かれた女性に置き換えられた。パブロ・ピカソ、ムンク、マティス、モディリアニ、ルソーらの画家、ガストン・ラシェーズ、アリスティド・マイヨールらの彫刻家は新しい裸婦像を創造した。
- 西洋の彫刻
- クロイソス・クーロス
- The Marathon Boy (4世紀) 、ブロンズ
- アジアで
- 性的な彫刻、インド (1050年)
- 踊るクリシュナ (14世紀)
- 鏡を見る女性 (1775) 作者不詳、インド
- 預言者より、ハリール・ジブラーン (1923年)
理想化された裸体は、エゴン・シーレ[4]の作品のように、個人的な観点で描かれた女性に置き換えられた。パブロ・ピカソ、ムンク、マティス、モディリアニ、ルソーらの画家、ガストン・ラシェーズ、アリスティド・マイヨールらの彫刻家は新しい裸婦像を創造した。
シルヴィア・スレイ[5]は、1970年代に女性だけでなく、男性もヌード・モデルとして起用した。76年の「田園の合奏」では、裸体女性と裸体男性の両方が描かれている。ルシアン・フロイドは、「スクール・オブ・ロンドン」として知られるようになったフランシス・ベーコンを含む少数の画家の一人であった。1970年代に比喩的な美術の仕事をしたが、それは非現実的かつ抽象的だった。しかし、彼の画家人生の後半には、作品において肥満モデルを扱い、ポストモダン時代の象徴となり、理想化の痕跡のない人体を描いた。
日本のヌードの歴史
明治から第二次世界大戦前までは、日本で公共の場で女性が肌を露出させることはタブーとされてきた。
1910年(明治43年)に製作されたサッポロビールのポスターは、女性の肌の露出度は低いものの日本最初のヌードポスター[6]の一つとされた。1922年(大正11年)には壽屋が女性(松島栄美子)が両肩をあらわにした姿の赤玉ポートワインのポスターを制作して話題となった。松島は社会的な非難を浴びたが、商品の知名度を高めることに大きく貢献した。また、ポスターの芸術性は高く評価され、後年、ドイツの世界ポスター展で1位を獲得した[7]。
関東大震災後の浅草では、国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。当時のストリップは、必ずしも全裸になるものではなかったが、次第に風紀の乱れが著しくなったため、1930年(昭和5年)、警視庁は通称「エロ取締規則」を発出。舞台上で着用するズロースの長さや色、肌の露出の程度や照明の当て方などの演出が厳しく制限された[8]。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)に芸術作品として活人画の興業が行われた。その後、GHQの規制が緩むと、より大衆娯楽的要素が強いストリップが隆盛した。
裸体をモチーフとした彫刻や銅像は公に設置されることは少なかったが、戦後の1951年(昭和26年)、東京の三宅坂に初めて女性の裸婦像(平和の群像)が設置された。以降、第二次世界大戦以前に金属供出で減少した銅像を埋める存在として、女性の裸体像が増加していった。このため男性の裸体像よりも女性の裸体像が多い状況が生み出された[9]。しかし21世紀の日本では、裸婦像を公共の場から撤去する動きも見られている[10]。
