たて座
現代の88星座の1つ
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特徴

北東をわし座、北から西をへび座の尾部、南から南東をいて座に囲まれている[8]。20時正中は11月下旬頃[3][4]で、北半球では夏から秋にかけての星座とされる[9]が、晩冬から初冬にかけての長い期間観ることができる[8]。赤緯−3°.8 を北端、−15°.9 を南端に、天の赤道のすぐ南に位置しているため、人類が居住しているほぼ全ての地域から星座の全体を観ることができる[8]。88星座中84位という非常に狭い領域しか持っておらず[4]、最も明るく見える α星でも3.83 等[10]と暗く目立たない星座だが、天の川銀河の中心方向の近く、天の川が濃く明るく見える[9]。領域内にはM 11とM 26というメシエカタログに登録された2つの散開星団が位置している[5]。
由来と歴史
たて座は、ポーランドの天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが、1684年8月刊行の学術誌『ライプツィヒ学術論叢 (Acta Eruditorum)』に「ソビエスキの盾」という意味の Scutum Sobiescianum として星図とその説明を掲載したことに始まる[7]。この「ソビエスキ」は、時のポーランド王ヤン3世ソビエスキ (ポーランド語: Jan III Sobieski) のことである[7]。ヤン3世は、前年の1683年に起きたオスマン帝国による第二次ウィーン包囲の際、「フサリア」と呼ばれる騎兵を率いてウィーン包囲中のオスマン軍を強襲し、これを潰走させるという戦史に残る武勲を立てたばかりで、Scutum Sobiescianum はその栄誉を称えたものとされる[11]。また、1679年にヘヴェリウスが観測施設を焼失した際、その再建をヤン3世が支援してくれたことへの個人的な恩義も動機になったと見られる[7]。ヘヴェリウスは、『ライプツィヒ学術論叢』に載せた説明文の中で、1678年にエドモンド・ハリーが考案した星座 Robur Carolinum(チャールズの樫の木)を引き合いに出し、ヤン3世の威光と自身の正当性を強調した[7][12]。また、彼の死後の1690年に出版された『Prodromus Astronomiae』では、彼が考案した他の星座よりも多くの紙幅を割いてヤン3世の偉業とそれを讃えて星座とする意義を説明している[13]。
『ライプツィヒ学術論叢』の誌上で Scutum Sobiescianumは、ゴットフリート・キルヒがザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世を顕彰するために考案した Gladii Electorales Saxonici(ザクセン選帝侯の双剣)と並べて掲載された[12]。ともに封建領主の威徳を称えるために考案された2つの星座であったが、Scutum Sobiescianum が名前を変えながらも「たて座 (Scutum)」として88星座の1つとして生き存えているのに対して、キルヒの Gladii Electorales Saxonici はこれを採用する者もなく廃れてしまった[14]。ヘヴェリウスの Scutum Sobiescianum も後世の天文学者たち全てに受け入れられた訳ではなく、この多分に政治的な動機で設けられた星座を忌避する動きも見られた。たとえば、イギリスの初代王室天文官となったジョン・フラムスティードが編纂し、死後の1725年に出版された星表『大英恒星目録 (Catalogus Britannicus)』や1729年に出版された星図『天球図譜 (Atlas Coelestis)』では、ヘヴェリウス考案の他の星座が掲載される一方で、Scutum Sobiescianum の存在は完全に無視された[7][15][16]。しかし、ジャン・ニコラ・フォルタンらが1776年にフランスで刊行した『天球図譜』の改訂版では l'Ecu de Sobieski として復活している[17][注 1]。また、1801年にドイツの天文学者ヨハン・ボーデが刊行した星図『ウラノグラフィア (Uranographia)』では Scutum Sobiesii の名称で[7]、1822年にイギリスの教育者アレクサンダー・ジェイミソンが出版した『A Celestial Atlas』[注 2]では Scutum Sobieski という名称で[19][18]それぞれ描かれており、18世紀から19世紀にかけて星座の1つとして受容されていたことがうかがえる。
しかし、イギリスの天文学者フランシス・ベイリーは、彼が世を去った翌年の1845年に刊行された星表『British Association Catalogue』で現在使われている星座とほぼ同じ87の星座をリストアップしながら、Scutum Sobiescianum を除外していた[20]。このベイリーの姿勢は、後年アメリカの天文学者ベンジャミン・グールドから「天文学者たちによってあまねく採用されているヘヴェリウスのScutumを抑圧することに一体どんな利益があるのかわからない」と批判されている[21]。結局、1879年にグールドが刊行した著書『Uranographia Argentina』で、星座名を Scutum と短縮した上で採用され、バイエル符号風のギリシア文字の符号をαからηまで付された[22]ことにより、Scutum の星座としての地位が確たるものとなった[7]。
1922年5月にローマで開催されたIAUの設立総会で現行の88星座が定められた際にそのうちの1つとして選定され、星座名は Scutum、略称は Sct と正式に定められた[23][24]。新しい星座のため星座にまつわる神話や伝承はない[7]。
- 『ライプツィヒ学術論叢』(1684年)に掲載された Scutum Sobiescianum と Gladii Electorales Saxonici。
- ヨハネス・ヘヴェリウスの『Firmamentum Sobiescianum』(1690年)に描かれた Scutum Sobiescianum。
- アレクサンダー・ジェイミソンのジェミーソン星図(1822年)に描かれたScutum Sobieski。
中国

ドイツ人宣教師イグナーツ・ケーグラー(戴進賢)らが編纂し、清朝乾隆帝治世の1752年に完成・奏進された星表『欽定儀象考成』では、たて座の星々は二十八宿の北方玄武七宿の第一宿「斗宿」に配された[25][26]。たて座のα・δ・ε・β・ηの5星が、わし座の4星とともに天子のかぶる冠を表す星官「天弁」を成すとされた[25][26]。
呼称と方言
学名
世界で共通して使用されるラテン語の学名は Scutum、属格は Scuti、略称は Sct と定められている[23][24]。Scutum に対応する日本語の学術用語としての星座名は「たて」と正式に定められている[27]。現代の中国では、盾牌座[28][29]と呼ばれている。
日本語名の変遷
明治初期の1874年(明治7年)に文部省より出版された関藤成緒の天文書『星学捷径』では、「クリピュース、ソビースキ」という読みと「「ソビースキ」氏ノ楯」という説明で紹介された[30]。しかし、1879年(明治12年)にノーマン・ロッキャーの著書『Elements of Astronomy』を訳して刊行された『洛氏天文学』では上巻・下巻のいずれでも星座として扱われなかった[31][32]。これらから30年ほど時代を下った明治後期には「楯」という訳語が充てられて星座として復活していたことが、1910年(明治43年)2月刊行の日本天文学会の会報『天文月報』第2巻11号に掲載された「星座名」という記事でうかがい知ることができる[33]。この訳名は、1925年(大正14年)に初版が刊行された『理科年表』にも「楯(たて)」として引き継がれた[34]。戦後の1952年(昭和27年)7月に日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」[35]とした際に、Scutum の日本語の学名は「たて」と定められ[36]、これ以降は「たて」という学名が継続して用いられている。
天文同好会[注 3]の山本一清らは、既にIAUが学名を Scutum と定めた後の1931年(昭和6年)3月に刊行した『天文年鑑』第4号で、星座名を Scutum Sobiescianum、訳名を「ソビエスキの楯」と紹介し[38]、以降の号でもこの星座名と訳名を継続して用いていた[39]。
主な天体
4等星より明るい星はないが、変光星やメシエカタログにリストアップされた2つの散開星団はアマチュア天文家の観測対象とされている。
恒星
2025年12月現在、国際天文学連合恒星名称ワーキンググループ(IAU WGSN) が認証した固有名を持つ恒星は1つもない[40]。
- α星
- 太陽系から約184 光年の距離にある、見かけの明るさ 3.83 等、スペクトル型 K3III の赤色巨星で、4等星[10]。たて座で最も明るく見える。
- β星
- 太陽系から約672 光年の距離にある、見かけの明るさ 4.22 等、スペクトル型 G4IIa の巨星で、4等星[41]。たて座で2番目に明るく見える。
- δ星
- 太陽系から約201 光年の距離にある、4.60 等から4.79 等の範囲で明るさを変える脈動変光星[42]。「たて座δ型変光星」のプロトタイプとされる[43]。
- R星
- 太陽系から約1290 光年の距離にある、146.5日の周期で 4.2 等から 8.6 等の範囲で変光するおうし座RV型の脈動変光星[44]。変光周期のほぼ全期間を双眼鏡で追うことができる。アメリカ変光星観測者協会 (AAVSO) の「観測しやすい星」のリストにも挙げられている[45]。
- UY星
- 太陽系から約6310 光年の距離にある、見かけの明るさ 11.20 等、スペクトル型 M4Iae の赤色超巨星で、11等星[46]。変光星としては脈動変光星の分類の1つ「半規則型変光星」のSRC型に分類されており、平均740 日の周期で11.20 等から13.30 等の範囲でその明るさを変える[47]。2013年の研究では、既知の恒星の中で最大の直径を持つとされた[48]が、2018年に公表されたガイア計画の第2回データリリースをベースとした2019年の研究では否定されている[49]。
星団・星雲・銀河
18世紀フランスの天文学者シャルル・メシエが編纂した『メシエカタログ』には2つの散開星団が挙げられている[5]。一方、パトリック・ムーアがアマチュア天文家の観測対象に相応しい星団・星雲・銀河を選んだ「コールドウェルカタログ」には1つの天体も選ばれていない[50]。
- M11 (NGC 6705)
- 太陽系から約6800 光年の距離にある散開星団[51]。1681年にドイツの天文学者ゴットフリート・キルヒが発見した[52]。19世紀イギリスの天文学者ウィリアム・ヘンリー・スミスが、コンパクトに星が集まった様子を野鴨が群れをなして飛ぶ姿に喩えたことから「野鴨星団[53](英: Wild Duck Cluster[52][51])」という通称で知られる。またフランス語では星座名にちなんだ「Amas de l'Ecu de Sobieski(ソビエスキの盾星団)」とも呼ばれている[51]。約2億2000万年前に形成されたと推定されている[54]。
- M26 (NGC 6694)
- 太陽系から約6270 光年の距離にある散開星団[55]。1764年にシャルル・メシエが発見した[56]。
- NGC 6712
- 太陽系から約2万4070 光年の距離にある球状星団[57]。1749年7月9日にギヨーム・ル・ジャンティが発見した[58]。M 11から南南東に約2°.4 の位置に見える、比較的集中度の低い球状星団[59]。天の川銀河の中心とバルジ付近の高密度領域に頻繁に深く入り込む軌道で天の川銀河の周囲を公転しているため、星団形成時に存在していた小さく軽い星のほとんどが星団から失われてしまっていると考えられている[60]。