塙凹内名刀之巻
1917年公開の日本の短篇アニメーション映画
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要

天然色活動写真株式会社(天活)が1916年(大正5年)に北澤楽天の弟子・下川凹天を、日活向島撮影所が1917年(大正6年)1月に[4]洋画家の北山清太郎を、同年、小林商会が下川凹天とおなじく楽天の弟子・幸内純一と前川千帆を雇い入れ、それぞれアニメーション映画の研究を開始。「日本初」を賭けた競争となった。
1917年1月、天活が下川の『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』を東京・浅草公園六区のキネマ倶楽部で公開、これが日本初のアニメーション映画となった[5]。同年5月20日、日活が北山の『猿蟹合戦』を同じく六区のオペラ館で公開、ついで6月30日に小林商会が幸内による本作を同じく六区の帝国館で公開した。本作の弁士は当時売れっ子の染井三郎(日本初の活動写真常設館である浅草電気館の活動弁士)が担当している[6]。
劇中のキャラクターは漫画調のデフォルメが為された頭身で描かれているほか、星マークなど漫符の活用も早くから見受けられ、侍の人間臭い一喜一憂の悲喜劇がユーモアと皮肉たっぷりに描写されている。『活動之世界』1917年9月号には、本作の映画評が「凸坊新画帖 試し斬」の題で掲載され、「出色の出来栄で、天活日活のものに比して一段の手際である」と評価された[7]。なお、これは文献に残る最古のアニメ評といわれている[6]。
本作は下川・北山による先行のアニメ作品と比して高評価を得たものの、製作会社の小林商会は公開から翌々月に健闘むなしく倒産する。なお、本作の玩具映画が『なまくら刀』の題で流通したのは、本作の権利が小林商会の倒産後に売却されたからではないかという説もある[8]。
アニメーション研究家の渡辺泰は、国産アニメ創始者の下川凹天、北山清太郎、幸内純一の3人について次のように評した[9]。
ただ“絵がかける”ということで手がけた人たちばかりだ。そして映画そのものの知識も、漫画映画の製作法もまったく知らずに飛び込んでいる。創始者とはなにごとにおいても、そういうものかも知れぬが、その勇気にはただ恐れ入る。だが、この人たちの胸に共通してあったものといえば、初めてのものに挑戦する誇りのようなものではなかったろうか。
「発見」の経緯
かつてフィルムコレクターの杉本五郎が本作の35mmフィルムを所蔵していたことが確認されているが、不審火によって1971年に焼失した[10]。その後、長らくフィルムが現存しないといわれていたが、2007年(平成19年)夏に映像文化史家の松本夏樹が大阪の骨董市で北山清太郎の『浦島太郎』のフィルムと共に売られているのを発見、玩具用の映写機ごと買い取った[11]。その後デジタル復元され、2008年(平成20年)4月24日から東京国立近代美術館フィルムセンターで開催された「発掘された映画たち2008」で上映された。2011年(平成23年)2月からは、東京国立近代美術館フィルムセンター展示室の常設展「日本映画の歴史」において、ビデオモニターで映像を見ることができる。このバージョンの上映時間は2分・16fps・35mm・無声・染色[12]。
その後、2014年(平成26年)になって東京国立近代美術館フィルムセンターに2008年に寄贈された「南湖院コレクション」の中に、本作の前半部分に相当するフィルムが含まれていたことが分かり、2008年に発見されたバージョンは、実はダイジェスト版で本作の後半部分のみの収録であったことが判明する[13]。これを受け、東京国立近代美術館フィルムセンターによって、2つのフィルムの欠落部分を相互に補完させる形で改めてデジタルリマスタリングが行われ、2014年に「デジタル復元・最長版」として、真の「完全版」が復元された[13]。「デジタル復元・最長版」の上映時間は4分・16fps・35mm・無声・染色。
さらに2017年(平成29年)には映画史研究家の本地陽彦が新たな場面を含む35フィート11コマの未発見フィルムを発見[14]。このフィルムには侍を打ち負かしたあんま師があざけるような表情を浮かべたり、侍が飛脚を切ろうとして木陰に隠れたりする場面などが収められていた[14]。同センターは「デジタル復元・最長版」に新たな場面を加えた約5分の「新最長版」を作成し、同センターの上映企画「発掘された映画たち2018」で上映された[14][15]。