アエノコト
石川県奥能登地方で行われる農耕儀礼
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アエノコトあるいはあえのことは、石川県奥能登地方の珠洲市、輪島市、鳳珠郡能登町、同郡穴水町で古くから行われている農耕儀礼[2]。毎年12月と翌年2月に行われ、奥能登の各農家がそれぞれに田の神を祀って一年間の収穫に感謝し次年度の豊作を祈願する[3]。「アエノコト」とは「アエ=饗」[4](もてなし)の「コト=神事」を意味する[3]。
「奥能登のあえのこと」の名称で、1977年(昭和52年)に重要無形民俗文化財に指定された。2009年(平成21年)には、古くからの稲作文化と結びついた日本人の生活を典型的に示し、また奥能登の農民のアイデンティティである儀礼として、ユネスコの無形文化遺産に登録された[1]。また2011年(平成23年)には、アエノコトを含む「能登の里山里海」が国際連合食糧農業機関より世界農業遺産に認定された[5]。
内容
アエノコトの儀礼は地域や家によって内容に差がみられるが、一般的にはおおよそ以下のとおりである。
12月5日、農家では床の間に夫婦である田の神を表すため種もみの俵を2つ据え付け、それぞれに栗の木の枝を削った箸と二股大根とを前に置いて祭壇を作る。そのあと、家の主人は紋付袴や裃の正装で家の苗代田に向かい、田に鍬を3回入れて、神を依り代である榊に移し家まで案内する[6]。夜の場合は提灯を持って田の神を迎える。田の神は目が不自由だと信じられているため、主人は滑りやすい場所や段差があるたびに榊に宿った田の神に声をかけ、注意を促しながら歩く[3][7]。
家族全員が迎える中、主人は田の神をまず家の囲炉裏端で休息させ、風呂に入れる。ここでも主人は田の神に声をかけて湯加減を聞き、また背中を流すような所作をすることもある[8]。その後祭壇に招き、山盛りの白米または小豆飯、汁物、煮物、刺身、尾頭付きのハチメの膳に甘酒の椀、おはぎの重箱と野菜などの収穫物を捧げ[8]、一年の収穫を感謝する。このとき主人は、目が見えない田の神に対し料理の内容を一つ一つ丁寧に説明し、その後神が食したと見たところで、お下がりとしてこれらの捧げ物を家族で食べる[6]。神に供する料理には一品ごとに縁起を担いだ謂れがあり[6]、たとえば箸に栗の木を使うのは栗の木が実を多くつけることにちなんで豊作を願うもの、二股大根は形が女性の体に似ていることから男の神に対する心遣いとして[7]、また蒸したものは「虫」を連想し[9]、焼いたものは田が焼ける、すなわち不作につながる[8]ことから、蒸して作る赤飯ではなく小豆飯にしたり、魚も焼かずに生のままで出す、などである。
神はそのまま家で年を越すとされ、翌年の2月9日、再び主人が風呂と膳でもてなした後で元の田へ送り出し[10]、新たな年の豊作を祈願する。
神が一般の社会に降臨する形式の祭礼で、秋田県のなまはげや、アエノコトと同じく奥能登に伝わるあまめはぎと同じ来訪神の行事である[11]が、ここでは神が目に見えない形で表されていることと、あたかも神が実際にそこにいるように主人が一人芝居を演じることが特徴である[3]。
本来は家ごとに行うものであるので、内容は家によって細部が異なり、正装ではなく普段着で神の送り迎えをする場合もあったり、神が年を越す場所も床の間だったり神棚であったりという違いもある[10]。また田の神は夫婦ではなくひとりとされている地域もある[7]。浄土真宗よりも禅宗や真言宗の家のほうが厳格であり、浄土真宗の家では早くから内容が簡略化されていたと推定されている[10]。
歴史

アエノコトがいつごろから行われてきたのかははっきり分かっていないが、能登半島のある豪農宅に寛政8年(1796年)の日付が入ったアエノコト用の膳椀が残されていた[8]ことから、少なくとも200年以上の歴史があると考えられている[3]。アエノコトに類似した農耕儀礼は、かつては世界中でみられたが、現代に至るまで継承されている例は稀である[12]。
奥能登地方は海と山に挟まれた地形で広い平地が少なく、稲作は山あいに切り開かれた棚田で細々と行われてきた[3]。冷害や病害虫に悩まされることもあり、困難が伴うものであったことから、人間がコントロールできない自然への畏敬の念がこの儀礼の根底にあると、能登町内でアエノコトを継承する男性は推測している[5]。
アエノコトが本格的に研究されるようになったのは、1934年(昭和9年)に民俗学者の柳田國男の主導で行われた学術調査が最初である[13]。当時、奥能登の各集落ではこの儀礼を「田の神様」と呼ぶのが一般的で[7]、「アエノコト」と呼んでいたのはわずか1例しかなかったが、その1例が総称として選ばれたのは、稲霊信仰の根源は天皇も民衆も同一と考えていた柳田が新嘗祭とこの儀礼の共通性を唱え、その後1952年(昭和27年)- 1953年の九学会連合による調査によって柳田の解釈が定説化するに至ったことが影響している[13]。しかし、その後柳田の解釈に対して懐疑的な研究も出てきている[12]。
継承問題
太平洋戦争後、農業の機械化や生活様式・価値観の変化に伴い、アエノコトの内容を簡略化したり実施そのものを止めたりする家が急速に増加した[10]。アエノコトを継承する農家らが参加する「奥能登のあえのこと保存会」は、1979年の時点で255人の会員がいた[14]が、高齢化や過疎、離農などで[5]2015年には11人にまで減少[14]、2024年には会員数自体が不明という状況にまでなった[5]。穴水町では、2024年時点で町内でアエノコトを続けているのは1人のみになっている[15]。
2024年の能登半島地震の際には、奥能登の家屋や田圃が多く被災した影響で、アエノコトを続けてきた農家の中にはやむなく実施を中止、延期あるいは簡略化して行った例もあった[15][16][17]。
このようにアエノコトは存続が危ぶまれているものの、もともと各家庭で個人的に行われてきた行事であり、産業に結びつくものではないため、自治体による支援が難しいという側面もある[5]。
一方、無形文化遺産登録を機にアエノコトの継承や復活の機運が高まり、地域活性化や観光振興を目的に集落単位で保存会を結成し、家ごとに行われてきたアエノコトを集落一体で実施するようになった例[13]や、保存伝承のため観光客向けに解説付きで実演しているところも出てきている[6]。