ウー・ソオ

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ウー・ソオ(ラテン文字転写:U Saw, ウーソーとも、1900年 - 1948年5月8日)は、ビルマ(現ミャンマー)の政治家

任期1940年 1942年
出生1900年3月16日
イギリス領ビルマの旗 イギリス領ビルマ バゴー地方域ターヤーワディ県オウッポー
死去 (1958-05-08) 1958年5月8日(58歳没)
ラングーン
政党愛国党
概要 任期, 出生 ...
ウー・ソオ
စော


イギリス領ビルマの旗 イギリス領ビルマ
第3代 植民地政府首相
任期 1940年 1942年

出生 1900年3月16日
イギリス領ビルマの旗 イギリス領ビルマ バゴー地方域ターヤーワディ県オウッポー
死去 (1958-05-08) 1958年5月8日(58歳没)
ラングーン
政党 愛国党
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ビルマ人は一般的に姓を持たない。ウーは男性敬称であり、ウ・タントウー・ヌらも同様である。

生涯

生い立ち

1900年3月16日、バゴー地方域ターヤーワディ県オウッポーの裕福な地主の家に生まれる。しかし、学業は不振で、中学卒業に当たる7年生の修了試験に落第。その後、父の支援でコルカタの予備校に通い、イギリスの高校入学資格を得ようとしたが、これにも失敗してミャンマーに帰国した。帰国後、ナショナリズム新聞として名声が高かったミャンマー字新聞『トゥーリヤ』紙の編集者となり、実家の資力を利用して株式を取得して編集副主幹に昇進。1938年2月には筆頭株主となり、『トゥーリヤ』を彼の御用新聞に変質させた[1]

1928年、両頭制下の立法参事会(植民地議会)議員選挙に、ビルマ人団体総評議会英語版(GCBA)系候補者として立候補し、当選。1930年から1931年にかけてエーヤワディーデルタ地帯で発生したサヤー・サンの乱の際には、一貫して叛徒の農民側に立ち、サヤー・サンが「ビルマ王」を戴冠した際に名乗った「トゥパンナカ・ガロン・ヤーザー」に因んで、「ガロン・ウー・ソオ」と名乗るようになった。「ガロン」とは伝説上の神鳥(ガルータ)のことである。1932年の立法参事会議員選挙には落選したが、補選で再び当選を果たした[2]

日本訪問

1935年5月から8月まで、ウー・ソオはかねてより憧れていた日本を訪問し、神戸、大阪、京都、名古屋、富士、東京、横浜、鎌倉を回った。帰国後、『日本案内」を出版し、ミャンマー各地で講演を行った。同書の中で、日本の経済力、工業力、効率の良い社会を称賛し、日本が伝統文化を大切にしていることや、アジアへの連帯思考を持っていることを好意的に描き、自身で撮影した写真もふんだんに掲載している。また、この訪日をきっかけに、ウー・ソオは駐ヤンゴン領事・金子豊治と親交を結ぶようになった。金子は当地で諜報・工作活動に従事しており、ウー・ソオの『トゥーリヤ』や『ミャンマー・アリン」などの新聞に親日的な記事を掲載したり、ミャンマー国内の日貨排斥運動の取り締まりを要請していた。見返りにウー・ソオに資金提供していたとされる。ウー・ソオは日中戦争における日本の蛮行に嫌気が差して、日本から距離を置くようになったとされているが、イギリス当局からは反英的人物と見なされていた[3]

英領ビルマ首相

1935年に制定されたビルマ統治法英語版にもとづく1936年の下院議員選挙にも、ヘンザダ北選挙区から当選を果たし、GCBA系5政党が選挙対策で組んだ五派連合に所属し、次第に政治家として頭角を現していった[2]。当時、GCBA系政治家はインド人富裕層の献金を政治資金としており、ミャンマーの人々が強く望んでいたインド系ビルマ人の経済活動や移民流入を規制することに消極的にならざるをえなかった。しかし、ウー・ソオは自己資金を当てにできたので、議会で堂々とインド人批判を繰り広げることができ、それによってミャンマー人有権者の広範な支持を得たのである。また、ウー・ソオはガロンタッという私兵団を組織して最高司令官を自称し[注釈 1]、1938年には五派連合から独立して、愛国党(ミョウチッ党)という政党を結成した[4]

1938年頃、大規模な反インド暴動、タキン党が扇動したビルマ中部のチャウ英語版イェナンジャウン英語版で油田労働者たちによるストライキ(1300年革命[注釈 2])、ヤンゴンで農業改革を要求する農民デモ、アウンチョー(Aung Kyaw)というヤンゴン大学の学生がイギリス騎馬警察に撲殺された学生デモ、僧侶を含む14人が射殺され、19人が負傷したマンダレーのデモなどが頻発した。ウー・ソオはこれをバー・モウ首相を失脚させるチャンスと捉え、タキン党と一緒になってバー・モウ批判を展開、1939年2月16日、首尾よく内閣不信任案を可決させることに成功し、バー・モウを辞任に追い込んだ。そしてその後、ウー・プビルマ語版内閣が成立すると、以前、「ビルマ統治法に反対しているので入閣することはない」と明言していたのにもかかわらず、ウー・ソオは農林大臣に就任し、さらに、治安維持法であるビルマ防衛法を適用して、タキン党とバー・モウの連合自由ブロックを弾圧した。さらに、1940年9月、ウー・プ内閣に対して内閣不信任案が提出されると、ウー・ソオは閣僚だったのにもかかわらず、これに賛成し、内閣を総辞職を追い込んだ。そして、ビルマ総督アーチボルド・コックレイン英語版によって後継の首相に任命された。首相になったウー・ソオは、農民の負債軽減、教育・公衆衛生分野への予算配分拡大などの課題に取り組み、イギリスから求められた国防費の負担増も、コックレインの後任レジナルド・ドーマン=スミス英語版に直談判して、6000万ルピーから4000万ルピーに減額させた[5]

英領ウガンダ幽閉

そのウー・ソオが首相を目指した理由は、他のGCBA系政治家と同じくミャンマーの独立で、それを英首相ウィンストン・チャーチルに直談判すべく、1941年10月10日に訪英。しかし、チャーチル以下関係者の反応は鈍く、次にアメリカに渡って大統領のフランクリン・ルーズヴェルトに協力を要請したが、ルーズベルトは対英関係の悪化を懸念して断り、カナダも同様だった。次にウー・ソオはオーストラリアとニュージーランド両政府に働きかけようと、飛行艇でシンガポールに向かったが、途中、給油のためハワイに立ち寄った。そして、ウー・ソオを乗せた飛行艇がホノルルに着いた同年12月7日午後、日本海軍の機動部隊が真珠湾を攻撃した[6]

それを目撃したウー・ソオは、急遽、サンフランシスコ経由でニューヨークから中立国であったポルトガルの首都リスボンへ向かい、12月29日に到着。そして、リスボン日本公使館へ駆け込み、対日協力と日本の支援にもとづく「自由ビルマ独政府」の樹立を申し出た。真珠湾攻撃を目撃し、日本軍がミャンマーを含む東南アジア全体を侵略すれば、親英的な自分の地位が危なくなると判断した末の大胆な行為だった。しかし、日本公使館が東京の外務省へ送った暗号電文が、米国海軍によりすべて解読され、ウー・ソオの行動がイギリスに発覚。激怒したイギリスは、1942年1月12日、飛行機でミャンマーへ帰国する途中だったウー・ソオをパレスティナのティベリアで拘束。イギリスは国家反逆罪でウー・ソオを起訴しようとしたが、その場合、証拠として日本の暗号電文の解読能力を開示せねばならず、戦争遂行に影響を与えかねないと判断して、ウー・ソオを首相から解任した後、同年4月、秘密裏に英領ウガンダへ送られ、ボンボという小さな町の一軒家に幽閉された[6]

帰国

1946年、ウー・ソオは対日協力者の罪状を問わないイギリスの方針によって解放され、同年1月29日、4年4か月ぶりにミャンマーに帰国した。しかし、戦後のミャンマーでは抗日蜂起に成功したアウンサン反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の面々が台頭しており、バー・モウやウー・ソオなど戦前政治家の出番はなかった。アウンサン/AFPFLとの対応に苦慮したドーマン=スミスは当初ウー・ソオを重用したが、ウー・ソオが彼に虚実ないまぜの情報を提供したので、かえってドーマン=スミスはイギリス本国の信用を失い、解任される一因となった。後任のビルマ総督ヒューバート・ランス英語版は、ウー・ソオを行政参事会の1人に起用したが、その行政参事会もアウンサン/AFPFL主導だった。1947年1月、アトリー内閣と独立交渉する行政参事会代表団の一員として、ウー・ソオも訪英したが、そこで締結されたアウンサン=アトリー協定に、「ミャンマーの早期独立を保証していない」という理由で、タキン・バセインとともに署名を拒否。帰国後、行政参事会を辞任した。同年4月に実施された制憲議会選挙英語版には愛国党を率いて出馬したが、結局、ボイコットした[7]

アウンサン暗殺

裁判中のウー・ソオ。

1947年7月19日の午前中、アウンサンら行政参事会のメンバー、高等文官、守衛の9人が、会議中だったビルマ政庁にジープで乗り込んだ4人の男に、ライフルを乱射されて殺害された。

事件の5時間後、ウー・ソオは容疑者の1人として逮捕され、自宅から大量の兵器と弾薬が発見された。ウー・ソオの部下で事件当日現場の下見を行ったバニュンが犯行を自供したことから、ウー・ソオが主犯と断定され[8]、同年10月から裁判にかけられた。裁判で、ウー・ソオは、自宅で発見された兵器はAFPFLまたはアウンサンの私兵組織・人民義勇軍(PVO)の兵士によって仕掛けられたものと主張したが[9]、認められず、同年12月30日、独立の5日前に他の8人の被告とともに死刑の宣告を受けた。そのうち3人はのちに終身刑に減刑されたが、ウー・ソオと他の4人は5月8日に絞首刑に処せられた。死刑執行は午前5時33分だったが、その直前、ウー・ソオは仏壇の前で祈りを捧げ、「判事や刑務所長に恨みはない」と述べたのだという[10]

処刑されるウー・ソオ。

事件の真相についてはいまだ不明な点が多い。暗殺事件の数か月前、ウー・ソオは車で帰宅途中に銃撃に遭い、目を負傷したが、その際、ジャーナリストの・ウー・タウン英語版に「私は敬虔な仏教徒として常に自分の敵を許している...しかし目を怪我した時は突き刺すような痛みだった。あいつらだけは許せない。あまりの痛さで許せなくなったよ」と述べた。アウンサンもウー・ソオを見舞ったが、彼は銃撃をアウンサンとAFPFLの仕業だと信じて疑っていなかったのだという[11][12]。また、この銃撃はネ・ウィンがPVO兵士に扮装させた部下たちにやらせ、ウー・ソオの怒りの矛先がアウンサンに行くように仕向けたとする主張もある[13]

脚注

参考文献

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