クォン・デ
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
順化[2]において、感化郷公阮福英濡の子として生まれた。初名は阮福 民(ベトナム語:Nguyễn Phúc Dân / 阮福民)。英睿太子(嘉隆帝の長男)の玄孫[2]、感化郡公阮福麗鐘の孫にあたる。父の死後、同慶帝から畿外侯に封じられた。当時の大南は、フランスのインドシナ総督府の支配下で疲弊していた。成泰16年(1904年)、大南の独立を志した彊㭽は、潘佩珠らと共に抗仏組織である越南維新会を設立してその会長の座に就いた[3]。成泰17年(1905年)に潘佩珠は独立への助力を請うために日本へ密航し[3]、翌成泰18年(1906年)、彊㭽も秘密裏に一度帰国した潘佩珠と共に日本へ上陸した[4]。訪日後の彊㭽は東京振武学校と早稲田大学で学んだ。
維新元年(1909年)に日仏協約が成立する[5]と、犬養毅から激励を受けた後、維新3年(1909年)10月30日に追われる形で門司港から上海に渡り、清やドイツ、イギリスなどで活動した後、維新9年(1915年)に再び訪日して[6]犬養や柏原文太郎、松井石根らの庇護を受け、亡命外国人支援で知られる新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の元に身を寄せた[7]。玄洋社などの支援を得て林徳雄や南一雄という偽名で活動した後、保大15年(1940年)の日本軍による仏印進駐に協力した[8]。

大戦中の戦災で住居を失ったため、慶応大学教授橋本増吉宅の二階を借り、家政婦の安藤ちゑとその甥の成行と3人で暮らしはじめた。後にGHQに帰国を直訴し、1950年(昭和25年)7月、訪日時に用いた中国人名でバンコク行の船に乗ったが、フランス大使館から連絡を受けたタイ政府が上陸を拒否したため帰国は叶わなかった[9]。

1951年(昭和26年)4月6日、東京の日本医大病院で肝臓癌により客死。69歳没。遺骨の一部はクォン・デを支えていたカオダイ教指導者のファン・コン・タックによって1954年にタイニン省に渡り、遺骨の大部分が1957年1月12日にフエに戻り、長男のチャン・リエットの手により最終的にフエ市トゥイアン社(現在のアンタイ坊)グータイ邑の墓地に埋葬された。残りは東京の雑司ヶ谷霊園にある陳東風(東遊運動の同志)の墓に合葬されている。
