クン・サ
タイ・ミャンマー国境地帯の麻薬王、武装組織モン・タイ軍の指導者
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生涯
生い立ち

出生
1934年2月17日、シャン州モンヤイ郡区ロイ・マウ(Loi Maw)地区バン・パ・ポン(Bang Pa Pöng)村に生まれた。幼名はサイ・サ(Sai Sa)[1]。
父親のクン・アイ(Khun Ai)は、ロイ・マウのミョーサ(myosa、首長)であるクン・イー・サイ(Khun Yi Sai)の息子で、かつてタイ系王国であったタリフ(Talifu、現在は中国雲南省の一部)から移住してきた家系だった。一方、母親のナン・セン・ジュム(Nang Seng Jum)は、ロイ・マウ生まれのタアン系シャン族だった。3歳の時に父親が亡くなり、母親は、ロイ・マウ近郊のモン・タウム(Mong Tawm)地区の郡長と再婚するが、その2年後に亡くなった[1]。
このような出自で、クン・サがシャン族を自称していたのにもかかわらず、後年クン・サと取引していた中国人ビジネスマンやマフィアの間では、彼は中国名の張奇夫で知られ、シャン族ではなく雲南系中国人だと考えられていた。実際、クン・サは中国語、シャン語を含む複数の言語に堪能だったとされるが、この地域では多言語使用は特に珍しいことではない。ただし、その出自ゆえに、シャン民族運動の指導者としての正統性がしばしば疑問視されることがあった。クン・サが組織したシャン連合軍(SUA)やモン・タイ軍(MTA)で、シャン族ではなく、中国系が厚遇されたこともその疑念に拍車をかけた。ただ、クン・サはその点を指摘されると、以下のように反論したと伝えられる[2]。
私が中国人、つまり外国人ではないかと、人種について疑問を持つ人がいる。しかし本当だ。私はシャンの土地の人間である。私の父はロイ・マウの指導者で、名前はクン・アイである。母の名前はナン・セン・ジュムであり、私はロイ・マウのワン・ノン・ジャンで生まれた。近くに来て、私を本当に見たいなら、そばに来ればよい! — クン・サ
成長
当初、サイ・サは継父に引き取られたが、その後、父方の祖父母の下で養育された。祖父のクン・イー・サイは、サイ・サに中国語の読み書き、茶の栽培や馬・ラバの飼育といった実践的な技能を授けたが、第二次世界大戦のために正規の教育はほとんど受けていないとされる[1]。一方、ジャーナリストのバーティル・リントナーは、後年クン・サにインタビューした際、彼の部下が彼宛の手紙を読み上げ、彼の言葉を口述筆記するのを目撃しており、文盲説を唱えている[3]。
1951年、国共内戦に破れシャン州に雪崩れこんできた中国国民党(泰緬孤軍、KMT)の兵士たちが、ロイ・マウに現れ、クン・イー・サイが所有するラバを徴発した。怒ったクン・サは仲間たちと一緒に件のKMT部隊を襲撃して30丁の銃を奪った。しかし、KMT部隊はクン・イー・サイを誘拐して銃の返還を要求してきたので、クン・サは銃を返還して祖父を救出し、都市部に逃れた。この経験により、クン・サは生涯KMTを憎悪していたとも伝えられる[4]。
その後、クン・サは行商人として独立。この頃のクン・サは中国名の張奇夫の名で呼ばれていた。クン・サ/張奇夫は、祖父から受け継いだ人脈や商才を活かして勢力を拡大し、やがて反社会主義連合軍(Anti-Socialist United Army:ASUA)という民兵団を組織した。また、時にはコーカンの支配者の家系にある楊金秀(オリーブ・ヤン)の民兵団の使い走りのようなこともしていたと伝えられる[4][5]。
カクウェイェー(KKY)司令官
ロイ・マウ・カクウェイェー
1960年1月16日、国軍東部戦略司令部(シャン州担当)のマウンシュエ大佐(Colonel Maung Shwe)が、通商上の特権と支援を与える代わりに、シャン州に根城を張ったKMTおよびビルマ共産党(CPB)と戦うという契約をクン・サに持ちかけ、クン・サはこれを承諾したる[6]。
1963年、ネ・ウィンはシャン州の武装勢力を弱体化させることを目的として、カクウェイェー(KKY)という制度を導入した。これは反乱軍と戦うことの見返りにシャン州内の政府が管理するすべての道路と町をアヘン輸送のために使用する権利が与えるというもので、麻薬取引でKKYが経済的に自立しつつ、反政府武装勢力と戦うことを政府は期待しており、兵力不足と財政難を解決する一石二鳥の策のはずだった[7](cf.黄金の三角地帯#カクウェイェー(KKY)と麻薬)。
1964年6月15日にクン・サもロイ・マウのKKY司令官となり、タンヤンに本拠地を置いた[6]。ビルマ連邦革命評議会の経済国有化の方針と廃貨令に怒り、シャン族の他の武装勢力に呼びかけて一旦軍政に反旗を翻したが、件の武装勢力に裏切りに遭い、すぐにKKYに戻った[8]。
クン・サは、自分たちが集めたアヘンや他のアヘン商人のアヘンをラバに積んで泰緬国境まで運び(彼ら自身はケシの栽培はしない)、そこで純金の延べ棒と交換した。またその金でタイの商品や日用品を購入して持ち帰り、高い値段で売ってまた利益を上げた。さらにタイやラオスのブラックマーケットで高性能兵器を入手し、国軍よりも優れた軍備を身に着けていたとされる[7]。
中国国民党との対決
前述したように、クン・サには反KMT感情があったとされるが、彼の右腕はKMTを離脱した満州人の張蘇泉(別名:サオ・パラン〈雷将軍〉)や北京生まれの梁中英(別名:レン・スーン)で[7]、SUAの会合では中国語が使用され[9]、SUAの兵士たちには台湾で軍事訓練を受けさせていた[注釈 1]。また、アヘン密売においてもKMYと協力関係にあった[10]。
しかし1967年2月、クン・サは、国民党に対して現在のワ州に通過する際に、通行税を徴収すると宣言した。さらに同年6月、当時としては記録的な量と金額である16トン・50万米ドル相当のアヘンを、KMT支配地域を避けてラオスのバーンクワン(Baan Kwan)でヘロイン精製所を経営していたラオス王国国軍司令官・オウアン・ラティコーン将軍の元へ輸送することを試みた。アヘンを運ぶキャラバンはラバ数百頭、兵士800人に及んだと伝えられる[11][12]。
この明らかな挑発行為に怒ったKMT第3軍および第5軍は、7月24日にバーンクワンに到達。ラオス当局が仲介した交渉が決裂した後の7月29日、両者の間で戦闘が勃発した。翌日、ラオス空軍が戦場の両軍に対して空爆。空爆は2日間続き、ロイ・マウKKYは82人の戦死者を出し、大量のアヘンを放置したままミャンマーへ敗走した。一方、KMTも70人の戦死者を出し、ミャンマーへ敗走した。これによりラティコーン将軍は大量のアヘンを労せずして手に入れ(1967年阿片戦争)、逆にアヘンを失ったクン・サは大きな経済的打撃を被り、翌年までに約2,000人の兵士の離脱したが、その悪名は高まった[12][11]。
逮捕
1969年9月、シャン州軍(SSA)の代表2名がタンヤンに赴してクン・サと接触し、SSA側に寝返るように説得した。クン・サもタイ当局との強いコネクションがあるSSAとの同盟に興味を示したが、会合の内容が国軍に漏れ、10月29日、クン・サはタチレクへの出張から戻る途中、タウンジー近郊のヘーホー空港で逮捕された。彼はマンダレーの刑務所に投獄され、SSAとの接触により大逆罪の罪で起訴された[13]。
残ったロイ・マウKKYはSSAと合同部隊を結成し、1971年1月4日ラーショーでに行われた独立記念日の式典に参加していた国軍幹部への手榴弾攻撃、ラーショー・シポー間の軍用列車への待ち伏せ攻撃、ラーショー・チャウッメー間の橋の破壊、チャウッメーの大隊司令部を含む国軍前哨基地への攻撃などを行い、SSAはナムサンとてセンウィを制圧。600人以上の国軍兵士が死傷したとされる。しかし、その後、ロイ・マウKKYは統制不能に陥り、活動停止状態となった[14]。
獄中でクン・サは、老子の兵法と三国志演義を読み耽り、「政治には生涯の友もなければ、生涯の敵もいない。それは利益と損失に応じて変わる。優れたリーダーはあらゆる変化をうまく利用できなければならない」という人生哲学を学んだと伝えられる[15]。しかし、リントナーの言うとおり、彼が文盲であれば、この話は信憑性に疑念が残る。リントナーは「クン・サは基本的に田舎者で、農民であり、組織人の頭脳はなかった」と述べている[16]。一方で、歴史、哲学、政治に関して幅広い知識を持ち、議論を好んだという逸話も残っている[17]。
1973年4月16日、チャーリー・ ウィン(張素光〈Zhang Suquang〉)という元国民党軍の部下が、ロイ・マウKKYの兵士とともにタウンジーでソ連人の女性医師2名を誘拐し、クン・サの釈放と身代金を要求した[注釈 2]。国軍は1個師団を投入して人質の奪還を試みたが、失敗。結局、1974年8月に2人の女医は解放され、同年9月9日、クン・サはマンダレーの刑務所から釈放された。仲介したのは後にタイ首相となったタイ王国軍のクリエンサック・チョマナン将軍で、以後もクン・サとチョマナンは親交を保ち、1981年、首相を辞任したチョマナンが野党党首として立候補した際には、クン・サは選挙費用として5万米ドルを寄付した[19]。
「麻薬王」へ
釈放後、クン・サはしばらくヤンゴンで政府の監視下に置かれていたが、1976年初頭にジャングルの部下の元に戻り[注釈 3]、タイのチェンライの北西バン・ヒン・テク[注釈 4]に新しい本拠地を築き、自軍をシャン連合軍(SUA)に再編した。当時、タイ共産党(CPT)と戦っていたタイ政府も、CPTとの間の緩衝材としてクン・サの存在を黙認した[21]。
また、リントナーによれば、サイ・サ/張奇夫がクン・サと名乗り始めたのはこの頃とされる。自軍に「シャン」の名前を戴いたのと同様、地元社会との良好な関係を維持するために名前をシャン風に変えたのだという。ちなみに、「クン」は、ロイ・マウのミョーサであった祖父の地位に由来する称号で、シャン語では王族に対する敬称として用いられる。一方、「サイ」は、シャン族の若者に対する一般的な呼称である[6]。
1973年に初代麻薬王とも呼ばれたロー・シンハンが政府に逮捕され権力の空白区が生じたことにより、クン・サは黄金の三角地帯の麻薬取引を一手に握った。SUAは2万人の兵力を誇り、輸送に労力がかかるアヘン取引を止め、香港から化学者を呼んでヘロインの精製に乗り出し、バン・ヒン・テクの山岳地帯にはヘロイン精製所が軒を並べた[22][注釈 5]。また、街中には、コンクリート製2階建ての商家、広大な市場、映画館、売春宿、兵舎、中国寺院、シャン族の仏塔が建ち並び、活況を呈していた。一方、シャン民族教育に熱心だったシャン連合革命軍(SURA)支配地域で使用されていたシャン語カリキュラムを導入した小学校も設立した[23]。
また、クン・サはチャン・チャンタクルン(Chan Changtrakul)というタイ名を名乗り、チェンマイにZhanghiaという翡翠貿易会社を設立し、クン・サ救出に功績があったチャーリー・ ウィンに与えた[23]。
アメリカの麻薬取締局(DEA)によれば、クン・サが黄金の三角地帯の覇権を握っていた1974年から1994年までの20年間、ニューヨークで流通していたヘロインのうち、黄金の三角地帯で生産されたものの割合は5%から80%に増加し、クン・サがその取引の45%を占めていたとされる。クン・サの下で精製されたヘロインは純度90%の最高級品だったのだという[24]。1977年、クン・サは『バンコク・ワールド』のインタビューに答えて、自らを「黄金の三角地帯の王」と称した[16]。
しかし、同時に、クン・サは1970年初頭からアメリカが麻薬対策に本格的に乗り出し、タイ当局が同調する姿勢を見せていた情勢変化を察知し、同年、支配地域内のアヘンおよびヘロインをアメリカ政府が毎年1700万米ドルで買い取り、麻薬撲滅を推進する案を提案した。当時、アメリカ政府が麻薬撲滅のために使う予算は毎年十数億米ドルに上っており、それに比べれば明らかに安価だったが、アメリカ政府はこの提案を拒否した[25][24]。
1980年半ば、アメリカ人記者から受けたインタビューで、「麻薬はヒューマニズムと相容れないのではないのか?」という質問に対して、クン・サは次のように答えている[26]。
それはあなたたち西洋人の当然の報いというものでしょう。少しでも歴史を知っているのなら、当然わかっているはずです。100年、200年前に我々にアヘンの種を押し付けて、アジアの土地に植え付けさせたのは一体誰なのか。そして数百年もの間ほしいままにアヘン貿易を行って、麻薬をいたるところに売りつけて、アヘン戦争を引き起こすことも厭わなかったのは一体どこの誰なんです?すべてあなたがた西洋人です。西洋人が数百年もの間我々アジア人の土地からどれだけの利益を上げ、どれだけの汚れた金を巻き上げ、我々の兄弟たちをどれだけ毒してきたことか。あなたたちは今発展した社会に住んでいる。お金もある。文明社会の恩恵を受けた生活をしている。だから今度は逆に麻薬を禁じようとしているんです。なんだって数百年前にアヘン貿易を禁止しなかったんですか?アヘン貿易で汚れた金をどうして我々に返そうとしないんですか?金を返して我々を貧困から抜け出させようとしないんですか?我々の貧しさや立ち遅れた社会は西洋人が作り出したものではないとでも言うんですか?これが公平で平等な社会でしょうか?我々新しいアヘン戦争を行うのです。ケシの実をあなたがたに返すんです。今こそ西洋人が苦い果実を味わう番が来た……神様は公平です。中東には石油、西洋には武器、アメリカには豊かな海をお与えなさった。我々金三角にはへロインがあります。
モン・タイ軍結成
1980年代に入り、CPTが弱体化すると、緩衝材としてのクン・サの存在意義も低下した。1981年7月、タイ当局はクン・サの首に5万バーツ(2,000米ドル)の賞金をかけたと発表し、翌月、50万バーツ(2万米ドル)に引き上げ、その旨を告知するビラをバン・ヒン・テク周辺に空中投下した。そのビラには「1982年9月30日まで有効」と書かれていた。同年10月、泰緬国境の町・メーサイから39人の暗殺部隊がバン・ヒン・テクに侵入した。SUAはこれを返り討ちにして部隊を全滅させたが、件の部隊の兵士の遺体は、タイ王国軍指揮下の準軍組織であるタイ独立軍(TIA)の軍服を着ていた[27]。1982年1月21日[注釈 6]、今度はターク県の国境警備隊であるパクトンチャイのレンジャー部隊から構成された約1,000人の部隊が、バン・ヒン・テクを襲撃。件の部隊は飛行機やヘリコプターの支援を受け、数日間の激闘の末、クン・サおよびSUAはシャン州へ撤退した[28]。
シャン州へ撤退したSUAは、ラフ族やパオ族の反乱軍、そしてSSAを駆逐して、泰緬国境沿いの町ホーモンに新しい拠点を築いた。1984年3月7日には、国軍東部司令部司令官エイサン(Aye San)准将と会談し、「SUAが少数民族武装勢力およびCPBと戦う代わりに、政府がSUAがその領土でアヘンの生産・取引をすることを認める」というKKYに酷似した協定を結び、すぐにホーモンは「新しいバン・ヒン・テク」と呼ばれるような発展を遂げた[29]。
ホーモンの2万人の住民は、果樹や花に囲まれた家に住み、街中には学校や病院、ホテル、売春宿、ディスコ、公園などの施設が整い、海外通話も可能だった。新設の文化博物館には地元の工芸品や歴史資料が展示され、水力発電所が建設中だった。また宝石センターを訪れる外国人ビジネスマン向けに18ホールのゴルフコースも整備されていた[30]。クン・サは最良のアヘン栽培地域を支配していわけではなかったが、泰緬国境沿いのヘロインの加工と販売を支配し、CPBが崩壊して中緬国境が開かれるまでは、シャン州北部で栽培されたアヘンは、主にクン・サの支配地域に運ばれ、海外市場向けにヘロインに加工されていた[31]。

ただ、国軍はこの協定の存在を頑なに否定し、同年5月19日、エイサンは各国の外交官や国際機関の職員が集まったタウンジーでの会合で、5月7日から10日にかけてクン・サの拠点を攻撃してで国軍兵士9人が死亡したと主張した。しかし後日、外国の諜報機関が調査したところ、そのような事実はなかったことが判明した[32]。また1987年3月3日、国営紙の『ネイション』が、「クン・サの基地の爆撃にF-5Eジェット機が使用された可能性がある」と報じ、タイ王国軍もクン・サに対する作戦は「成功」したと宣言したが、実際は戦闘は発生しておらず、ミャンマーとタイ当局が、アメリカの麻薬撲滅資金を維持するために、クン・サと共謀して戦闘を偽装しただけだった。見返りとして、クン・サはホーモンからタイ北東部メーホンソンまでの道路を建設する許可を得た[33]。
1985年3月3日、SUAは、SURAの一派であるモーヘン(Moh Heng、別名カウン・ソン〈Kawn Söng〉)の率いるタイ革命評議会(Tai Revolutionary Council)を吸収する形で合併した。当初彼らはシャン州軍(Shan State Army:SSA)と名乗っていたが、1987年からはモン・タイ軍(MTA)と名乗るようになった[34]。
これにより、クン・サはCPBと提携している組織以外のシャン州の武装勢力を統合した形となり、シャン州全土のアヘン取引を掌握、麻薬の生産・取引市場を安定化させた[35]。その結果、1983年に350トンだったミャンマーのアヘン生産量は、1988年には1,280 トンまで増加したとされる[注釈 7][37]。
しかし、MTAはSUA派とSURA派との派閥争いが激しく、時にクン・サはその地位を脅かしそうなSURA派の人物を処刑したと伝えられる[38]。
国軍への降伏
衰退
1990年代に入ると、ヘロインの流通ルートがタイ・ルートから、クン・サの領土を通過しない中国ルートに移り、クン・サの勢力にも陰りが見えてきた(cf.ミャンマーにおけるアヘン生産#ヘロインの流通ルート)。1990年3月15日、クン・サは麻薬密売の容疑でニューヨーク連邦大陪審によって起訴された。また、1989年にCPBが崩壊すると、その分派の1つであるワ州連合軍(UWSA)との間で、麻薬利権をめぐり戦闘が勃発。1993年にはMTAの利権強化のために2件の虐殺事件を引き起こした。1つはホーモン近郊のパンタウィー(Pangtawee)村で、国民党軍関係者にアヘンを売っていた村人たちを虐殺した事件。もう1つは3月2日、モンサッ近郊の町で、宝石の採掘禁止の命令に従わなった村人123人を射殺した事件である[39]。
1991年にクン・サの片腕として長らくMTA内のシャン族をまとめていたモーヘンが亡くなった後は、クン・サの求心力は低下の一途を辿っていき、1994年には数百人のシャン族の代表者が出席した「議会」を招集し「シャン連邦共和国」の樹立を宣言、自らその大統領に就任した[40]。しかし同年11月、タイ当局とDEAの共同作戦により、タイ国内のクン・サの拠点に一斉捜査が入り、クン・サをマンダレーの刑務所から救出したチャーリー・ウィンを含む幹部10人が逮捕され、詳細な帳簿を含むMTAの内部文書が押収された。これにより、クン・サの麻薬供給網は機能不全に陥り、組織の財政に混乱が生じた。この状況を打開するために、クン・サはメタンフェタミンを混ぜたヘロインを大量生産し始めた[41]。
降伏
しかし1995年7月7日、MTAの不満分子約2,500人がMTAを離脱して、シャン州民族軍(SSNA)を結成するに及び万事休す[注釈 8][43]。1996年1月5日、ついにクン・サは政府に降伏した[41]。キンニュンによると、1995年頃からクン・サの使者が国軍と接触し始め、使者が持参したカセットテープには、「私も年を取った。政府と協働したい。平和に暮らしたい。麻薬王という汚名も返上したい」というクン・サのメッセージが録音されていたのだという[44]。一方、これに不満なヨートスックらSURA派の将校たちが、シャン州軍 (南)を結成した[3]。
ホーモンで行われた降伏式典には多数の国軍将校が列席し、その様子はのちに国営テレビで放送された。MTAはゴングと長太鼓の合奏、カトー舞踊団、シャンの伝統衣装を着た子供たちによる花束贈呈などシャン式で彼らを歓迎。会場に設けられた木製の武器ラックには、突撃銃、機関銃、ロケットランチャー、SAM-7地対空ミサイルなどが並べられた。同年4月までに、1万4千人の兵士、8,300種類以上の兵器、200万発以上の弾丸、4,700種類以上の地雷がビルマ政府に引き渡されたとされる[45][46]。
クン・サは国軍将校たちと固い握手を交わした後、兵士たちに次のように語った[46]。
われわれは涙を流しながら共に進まなければならない。今後2年間、耐え忍ばなければならない。反乱の後、私は涙が乾くまで泣き続けた。まるで心臓をえぐり取られたように苦しかった。痛むたびに涙が流れた。 — クン・サ
MTAの支配地域には国軍が進出し、クン・サが降伏した直後、8つの郡区にある1400の村の約30万人の住民に対し、MTAに加担した罪により5日以内に移住するよう命じ、その多くがタイへ避難した。その後、MTAと戦った功績を認められたUWSAにその領土権が認められ、1999年から2006年にかけて、シャン州北部のワ地域からシャン州南部の旧MTA支配地域へ5万人~10万人の農民が移住させられたとされる[47]。
クン・サの降伏は、シャン族の人々を大いに失望させた。加えて、かねてよりその出自から疑問視されていたクン・サのシャン民族主義は、その正統性をいっそう揺るがすこととなった。即ち、クン・サの関心はむしろビジネスにあり、そのためにシャン民族主義を利用していたのではないかという疑念を生じさせたのである[48]。
この点、シャン研究家のジェーン・M・ファーガソン(Jane M.Ferguson)は、「軍隊は政治的大義のためにも、また交易ネットワークを守るためにも戦っていた。クン・サは民族主義者であり軍閥でもあり、シャン族でもあり中国系でもあった」「民族性が政治的でも経済的でもないことがあるだろうか?」と、二元的な理解に疑義を呈している[49]。
晩年
その後、クン・サは、4人の愛人(全員、シャン州ケントゥン出身の10代の少女)と一緒にヤンゴンに移り住み、政府の監視下で、グッドシャンブラザーズ・インターナショナル(The Good Shan Brothers International Ltd)という企業を設立した。会社登記によると、この会社の事業内容は輸出、輸入、総合貿易、建設であり、1997年のインタビューでは、クン・サは不動産、ヤンゴンのホテル事業、ヤンゴンからマンダレーまでの新しい高速道路に投資していると述べている[50][51]。
2007年10月26日、クン・サはヤンゴンで亡くなった。享年73。死因は不明だが、高血圧、心臓病、糖尿病を患っていたとされる[52]。葬儀はかつてのタイの本拠地・バン・ヒン・テクで行われたが、彼の遺族は逮捕を恐れ参列しなかった[50]。遺体は死後4日後、火葬に付され、ヤンゴンの北オッカラパ郡区にあるイェーウェー(Yay Way)墓地に埋葬された[53]。生前より、墓荒らしを恐れて、シャン州に埋葬されることを希望していなかったと伝えられる[54]。
家族
シャン民族教育
クン・サは無学な一般兵士のためのシャン民族教育に熱心だった。ただ、SUAおよびMTAの兵士の大半は純粋なシャン族ではなく、混血であったとされる[56]。
前述したように、MTAの前身であるSUAがタイのバン・ヒン・デクを本拠地としていた際、シャン民族教育に熱心だったSURA支配地域で使用されていたシャン語カリキュラムを導入した小学校を設立した[23]。
SUAとSURAが合併してMTAとなった後もシャン民族教育は継続され、ニュースやシャン文化を発信するためのシャン語の雑誌やクン・サの演説集も発行された。そのためにクン・サは、作家でシャン州独立軍(Shan State Independence Army:SSIA)議長だったルン・クン・マハ(Lung Khun Maha)を雇用し、当時は高価だったライノタイプ印刷機を購入した[57]。
演説集の中で、クン・サは次のように述べている[57]。
今、ビルマ族たちは国境地帯の開発について語っている。だが、それはシャン族のために行うものではない。彼らは、われわれシャン族をさらに貧しくさせるだろう。貧しいわれわれを、愚かな水牛のように扱っているのだ。まだこれに気づいていないシャン族もいる。すでに彼らの奴隷になってしまった者もいる。われわれは長い間、自分たちが愚かだったために、彼らの奴隷になってきた。われわれには自分たちの土地がある。領土がある。家がある。宮殿がある。領主がいる。誰かが来てわれわれを支配する必要はない。
今は民主主義の時代だ。私は今、シャン族に理解してほしい。知らない者はビルマ族に依存するだろう...他の者は中国人に依存するだろう。しかし、われわれには誰の助けも必要ない。われわれは自分たち自身に依存できるのだ — クン・サ
われわれはすでに貧しい人々のために学校を開いた。兵士の中には、読み書きの技能を持たない農民もいる。彼らにはその技能が必要だ。われわれは彼らにその技能を教え、知識を与えなければならない。だから学校を開いたのだ。シャンの偉大な師たちは我々に教科書を提供してくれた。われわれはそれを、この国家におけるわれわれの政治活動に役立つようにしなければならない。もしシャンが独立を達成したとしても、教師がいなければ、われわれは疲弊し、完全な国家を持つことはできない。歴史がそれを教えている。
サオ・モン・カウンは教育を受けた偉大な作家であり、何世代ものシャン族を教育してきた書物を書いてきた。われわれは外国人に対して、われわれの歴史と知識を教えなければならない。
サヤ・トゥンウー(ビルマ族教師)が偉大な教師であったのと同じように、われわれの偉大な教師の一人はサオ・モン・カウンである。政治に参加するのであれば、政治を学ばなければならない。よく学べば、良い結果が得られる。 — クン・サ
アウンサンは1947年にシャン州を訪れ、「ビルマが1チャットを得れば、シャンも1チャットを得る」(ဗမာတကျပ်ရှမ်းတကျပ်)と言った。あの合意はどうなったのか?隠されたのか?破棄されたのか?誰にもわからない...われわれは40年以上にわたり、他国の支配下にある困難な状況に置かれてきた。 — クン・サ
逸話
- いつも普段着で、偉ぶったところがなく、教育のある人間を尊重し、希望者は教師として採用したとされる。家もトタン屋根の二間という質素なもので、彼の部屋には竹のベッドと机しかなかったと伝えられる[55]。
- 一方で、独裁者のように振る舞っていたという元SUAまたはMTA兵士の証言も残っている[57]。
クン・サは最悪の独裁者だった。彼はとても賢かった。われわれシャン族は、KMTが金持ちになるのを見ながら、税金を払い、国軍が村に来て苦しめられるのを見て疲れていた。クン・サとMTAは我々にとってシャン民族国家そのものだった。 だが、彼が権力を持つほど、彼はひどくなった。もし彼があなたの顔を気に入らなければ、殺すこともできた。彼はビルマ族よりもひどい独裁者になった。誰かが不満を言えば、その人も切り捨てられた。もちろん、彼が将軍たちに降伏したことには失望したが、そもそも彼は言われていたほどシャンの村人たちのことを気にかけてはいなかった。
降伏の後、皆は非常に失望した。シャン族はクン・サのゲームの駒にすぎなかった。彼が麻薬ビジネスを行うために渡る橋にすぎなかった。クン・サは独裁者のように軍を支配した。彼の気分次第で昇進することもできた。彼は有能な高位兵士たちを殺害したと思う。
- クン・サ自身は麻薬をやらなかった。SUA内でも麻薬を3回やったら死刑になったとされる[58]。
- 地元の人々には非常に尊敬されており、彼らは子供をこぞってクン・サの軍隊に入れたがり、クン・サの軍隊は当時としてはかなり良い給与を支払われていたとされる[59]。一方で、SUAまたはMTAに対する税金を払えなかった家族は、息子を入隊させたり、脱走した場合、その兵士の兄弟姉妹を代わりに兵士として差し出すよう要求されたとも、厳しいケースでは、脱走兵の家族を脅迫したり、場合によっては殺害することもあったと伝えられる。また、このような徴集兵は、高校や大学教育を受けた他のシャン族兵士に比べて昇進しにくかったとも指摘されている[49]。
- 初代麻薬王と呼ばれたロー・シンハンとは同年代だが、クン・サはケントゥン近くのサンヤン山と谷で、ロー・シンハンのアヘンを運ぶ隊商を襲撃して、約12トンのアヘンを強奪したことがある。これによってクン・サの名声は大いに高まった[60]。
- 概してミャンマーの民主派に冷たかった。8888民主化運動の際、クン・サの元にも都市部から反体制派の学生が逃れてきたが、クン・サは彼らを受け入れなかった。「騒乱は支配者の頑固さだけでなく、われわれの天然資源を奪い取ろうと焦っている外勢、特に西側諸国の扇動によっても起きた。貧しい学生や僧侶たちは、自分たちが誰のために死んだのか分からないまま死んだ」「私は騒乱で眠れず食欲も失い、反政府デモ参加者へのアメリカからの兵器輸入を恐れていた。そして9月18日のクーデターが起こった。私は大いにほっとし、再び食事と睡眠をとることができた」と述べている[61]。またアウンサンスーチーに対しても「私には軍隊があるから自由だ。哀れなアウンサンスーチーを見てください。彼女には軍隊がないので自宅軟禁されている」と辛辣だった[62]。
- 007の映画の大ファンだったが、飽きた後はビデオテープを取り寄せて、日本の大相撲を楽しんでいたのだという[63]。
- 2007年のアメリカ映画『アメリカン・ギャングスター』では、マレーシア人俳優・リック・ヤンがクン・サを演じた。