ゴルガーン
イランの都市
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ゴルガーン(Gorgān/Gurgān/Gurgan、ペルシア語: گرگان; [fa])とは、イランのゴレスターン州ゴレスターン郡中央地区の都市であり、州都および郡、地区の中央都市に定められている。旧称はアスタラーバード(Astarābād/Asterabad/Esterābād、ペルシア語: استرآباد; [fa])[1]。首都テヘランから北東に約309km離れた地点に位置する[2]。2016年当時の人口は350,676人、111,099世帯[3]。
17世紀末にゴルガーンはトゥルクマーンのガージャール族の本拠地となり、この町に拠点を置いたアーガー・モハンマド・シャーはガージャール朝を創始した。ゴレスターン州が成立する前はマーザンダラーン州に属していたため、経済・文化の両面でマーザンダラーンの影響を受けている[2]。
「ゴルガーン」という地名は本項目で記述する都市以外にゴレスターン州一帯を指す地域の名称としても用いられるほか[4]、近隣に同名の都市である「シャフレ・ゴルガーン(Šahr-e Gorgān)」が存在した[5]。
歴史
ゴルガーン近郊にはトゥラン・テペやシャー・テペなどの新石器時代と銅器時代の考古遺跡がいくつか存在する。トゥラン・テペ、シャー・テペのほか、ヤリム・テペとサンギ・チャハマックが新石器時代の重要な遺跡として挙げられる。近隣のシャールードの平原には同様の遺跡が多く存在し、ゴルガーン平原では50以上の遺跡が確認されている[6]。
ゴルガーン(アスタラーバード)はヒルカニアと呼ばれる歴史的地域に含まれ、町の郊外にはヒルカニア最大の都市であるザドラカルタの遺跡が存在する[7]。 ザドラカルタという名称は「黄色い町」を意味し、町の郊外に自生していた多くのオレンジやレモンなどの果樹に由来する[7]。ゴルガーンのイスラーム化前の歴史は不明瞭であるが、町の郊外にあるザドラカルタがゴルガーンの前身だと推測されている[8]。ヒルカニアはアケメネス朝、セレウコス朝、パルティアの支配を経てサーサーン朝の統治下に置かれ、サーサーン朝期の碑文や印章には「ゴルガーン」という地名が現れる[7]。
716年にゴルガーン(ヒルカニア)地方はウマイヤ朝によって征服され、シャフレ・ゴルガーンと同時期にアスタラーバードが建設されたと推定されている[8]。ウマイヤ朝に征服された後もゴルガーン地方にはイランの伝統的な文化とゾロアスター教信仰が根強く残り、イスラム化は緩やかに進んでいったと考えられている[8]。イスラム時代初期のアスタラーバードはゴルガーン地方の主要都市の一つに数えられていたものの、シャフレ・ゴルガーンの陰に隠れた存在だった[8]。10世紀を通してサッファール朝、アラヴィー朝、サーマーン朝といったイランの諸王朝とダイラムの部族勢力がゴルガーン地方の支配を巡って争い、10世紀末にブワイフ朝がアスタラーバードなどのゴルガーン地方の各都市を獲得するが、ブワイフ朝とズィヤール朝の戦闘によって町は破壊された[8]。
12世紀のアスタラーバードはカスピ海沿岸に勢力を張るバーヴァンド朝の支配下に置かれ、1159年に市内でシーア派とスンナ派の衝突が発生した。1210年にグルジア王国のMkhargrdzeli兄弟(en)が指揮する軍隊がアスタラーバードを攻撃し、町は略奪に晒された[9][10]。さらに13世紀初頭のモンゴル帝国のイラン遠征によってゴルガーン地方は大きな被害を受け、地理学者のムスタウフィーは廃墟となった廃墟となったシャフレ・ゴルガーンの様子を書き残している[5]。
従来はシャフレ・ゴルガーンがゴルガーン地方の中心都市であったが、モンゴル帝国のイラン進出以降、アスタラーバードがゴルガーン地方の中心都市となり、地域の東部でトゥルクマーン諸部族の移住が進んでいく[8]。サファヴィー朝の創始者イスマーイール1世はアスタラーバードに知事を置いてゴルガーン地方の支配を確立しようと試みたが、タフマースブ1世の治世にアスタラーバードはシャイバーニー朝のウバイドゥッラーの攻撃をたびたび受け、戦争のたびにアスタラーバードの支配者が変わり、地域の経済は大きな打撃を受けた[11]。また、タフマースブ1世はゴルガーン地方に流入したトゥルクマーンの反乱にも対処しなければならず、ゴルガーン地方の安定を図るアッバース1世はトゥルクマーンの中からゴルガーン総督を任命するとともに、トゥルクマーン諸部族のガージャール族をゴルガーン地方に移住させた[11]。ブワイフ朝以来の諸勢力の攻撃によって町は荒廃するが、サファヴィー朝期に復興が進み[2]、ガージャール族はサイイドが多く住むアスタラーバードをダーロルモウメニーンと呼ぶようになった[8]。アッバース1世の時代のアスタラーバードは繁栄と平和を享受していたが、彼の後継者の時代にトゥルクマーンの反乱が再発し、彼らは反乱の対処に苦慮した[11]。
1723年にロシア帝国はカスピ海沿岸部のサファヴィー朝の領土に派兵し、1734年までアスタラーバードはロシア軍の圧力を受ける[11]。18世紀初頭のサファヴィー朝末期の混乱で宮廷はアスタラーバードの知事に支援を要請し、サファヴィー朝に代わってイランに支配を確立したナーディル・シャーはカスピ海沿岸部に駐屯するロシア軍を追放し、アスタラーバードと周辺で起きたトゥルクマーンの反乱を鎮圧した[11]。ガージャール族の指導者であるムハンマド・ハサン・ハーンはナーディル・シャーが任命した知事を拒絶し、ナーディル・シャー死後にザンド朝のカリーム・ハーンと争った[11]。ムハンマド・ハサン・ハーンの死後、彼の子であるアーガー・モハンマド・シャーはザンド朝などの敵対勢力を破ってガージャール朝を創始し、彼の軍事活動においてアスタラーバードは重要な拠点となっていた[11]。
ガージャール朝期もアスタラーバードには中央から派遣された総督が赴任するが、総督の圧政のためにトゥルクマーンの反乱が頻発する[11]。また、ロシアのカスピ海沿岸部に対する干渉はガージャール朝期も続き、1845年/46年にロシアの領事館がアスタラーバードに設置され、反乱が断続的に起きながらもアスタラーバードは経済的に繁栄した[11]。20世紀初頭のイラン立憲革命ではアスタラーバードも政府と立憲派の闘争の場となり、第一次世界大戦期にアスタラーバードの経済は大きな打撃を受け、ロシア軍とオスマン帝国の支援を受けたトゥルクマーンの戦闘が発生する[11]。
1925年のパフラヴィー朝の成立後、ゴルガーン地方のトゥルクマーンはの武装解除が実施され、長らく続いていた反乱や部族間の抗争が収拾する[11]。1937年に[2]アスタラーバードは過去の地域名とかつて存在した都市の名称であるゴルガーンに改称された[8]。
