ザールシュテット

ドイツ、ニーダーザクセン州ヒルデスハイム郡の市 From Wikipedia, the free encyclopedia

ザールシュテットドイツ語: Sarstedt, [ˈzaːɐ̯ʃtɛt] ( 音声ファイル)[2]ラテン語: Kertzstadensis[3]低地ドイツ語: Sassti’e)は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ヒルデスハイム郡に属す市である。この小都市は、同州南東部のイネルステ川ドイツ語版英語版沿いに位置する。ヒルデスハイム郡の中級中心で、人口は約2万人である。

概要 紋章, 地図 (郡の位置) ...
紋章 地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州:ニーダーザクセン州
郡:ヒルデスハイム郡
緯度経度:北緯52度14分22秒 東経09度51分38秒
標高:海抜 64 m
面積:43 km2
人口:

19,405人(2024年12月31日現在) [1]

人口密度:451 人/km2
郵便番号:31157
市外局番:05066
ナンバープレート:HI, ALF
自治体コード:

03 2 54 028

行政庁舎の住所:Steinstraße 22
31157 Sarstedt
ウェブサイト:www.sarstedt.de
首長:ハイケ・ブレネッケ (Heike Brennecke)
郡内の位置
地図
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地理

ザールシュテットは、ヒルデスハイムの北西約 13 km、ハノーファーの南東約 21 km に位置する。ザールシュテットは、1885年から1946年まではヒルデスハイム郡唯一の、それ以降は郡内最北の市である。中心地区の西をイネルステ川が流れている。町の南でブルーフグラーベン川が合流し、そこから北に 2 km 下流のルーテ地区でライネ川に注いでいる。ライネ山地がザールシュテット=ゼーンダー丘陵により終端となり、最終的に北ドイツ低地に移行する地点にあたる。町内の最高地点は海抜 115 m のモールベルクである。ザールシュテットは、東はアルガーミッセン、南東はハルズム、南はギーゼンおよびノルトシュテンメン(以上いずれもヒルデスハイム郡)、北西はパッテンゼン、北はラーツェン(ともにハノーファー広域連合)と境を接している。

市の構成

1974年の地域再編以降、ザールシュテット市には中核市区に加えて6つのオルトシャフト(地区)がある。各地区にはそれぞれ地区長が存在する。

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地区名人口(人)
ザールシュテット(中核市区)16,208
ギフテン742
ゲドリンゲン591
ハイゼーデ1,133
ホテルン608
ルーテ306
シュリークム643
合計20,231
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人口は、2025年5月1日現在の数値である[4]

歴史

地名

ザールシュテットは変化に富んだ地名の変遷を示しており、ヤーコプ・グリムもこれに注目している。ザールシュテットの地名のヴァリアントには以下のものがある: Zerstede(1221年)、Schirstede(1225–1247年)、Tzerstede(1302年)、Cerstede(1367年)、Tzerstede(1434年)、Cerstidde(1474年)。

先史時代、古代

現在のザールシュテット地域は、1億3000万年前から1億3400万年前まで海に覆われていた。モーアベルクの粘土層からは、ナノプランクトン[5]ロブスターに似た甲殻類 (Hoploparia dentata)[6]海綿 (Achilleum morchella) が発見されている[7]。これらの海綿を含むプレナー石灰岩白亜紀前期に形成された。

現在のザールシュテット地域にネアンデルタール人がいたことは、3つの頭蓋骨断片を含む骨の発見によって証明されている[8]。これらの発見物の精確な年代測定はこれまで成功していないが、他の化石石器からこのネアンデルタール人の時代は、約10万年前からそれほど遡らないと推定されている[9]

ザールシュテットおよびその周辺地域における現生人類(ホモ・サピエンス)による最初の持続的な集落は約7000年前のものが証明されている。新石器時代については、ザールシュテットでも、近隣のバルンテン(ノルトシュテンメン町内)、ヤインゼン(パッテンゼン市内)、アルガーミッセンでも線帯文土器文化考古学的証拠が発見されている[10]

中世

772年から802年までの間、現在のザールシュテットにあたる地域は、カール大帝率いるフランク軍ザクセン軍との戦いの場となっていた。8世紀の古ザクセン騎兵と馬の墓が、ハイゼーデ地区の「ハイデンキルヒホーフ」農地で発見された[11]

ザールシュテットは、中世ミンデン司教区とヒルデスハイム司教区とを結ぶ交易路であった「ヘルヴェーク・フォア・デム・ザントフォルデ」沿いに位置していた。この集落はおおそらく9世紀から10世紀にかけて市場町となり、イネルステ川の渡渉地に面していた。ザールシュテットの集落中心部は「アルテン・ドルフ」地区(1279年 Altendorp)付近で、ヒルデスハイム聖堂参事会が所有する土地として発展したと考えられる[12]

ザールシュテット地域の最も古い文献は993年のものである。教会の村であり、したがって宣教活動の中心としてのザールシュテット (Kertzstadensis) は、1075年5月に、より古い宣教拠点であったエールツェとの比較で高く評価されている[13]

1200年からザールシュテットは、おそらく聖ニコライ教会の近くにあった教会と司教の城との間で発展していった。ビショフスブルクまたはレートブルク(後にフォン・アルテン家が所有するリートブルクあるいはリットブルクとも呼ばれた)は、司教のヒルデスハイム地方を西のヴェルフ家から護り、ザールシュテット近郊のルーテ川とイネルステ川の渡渉地を護る役割を有していた。司教の宮殿は、ヒルデスハイム司教ジークフリート1世の治世の最後の年にあたる1221年に初めて文献に記録されている。ブラウンシュヴァイク公アルブレヒト1256年に城を征服したが、ヒルデスハイム司教オットー1世ドイツ語版治世下の1279年頃に焼失した。1283年12月10日の条約には「司教が建設するザールシュテット城」について記述されている[14][15]。ザールシュテットの城と町は、1485年に司教とヒルデスハイム市との戦いに巻き込まれ、再び破壊された。

司教ジークフリート2世ドイツ語版英語版(1279年 - 1310年)の領邦拡大の際に、ザールデュテットは1296年頃に「市」となった。古い村あるいは集落の「ヴェネルデとヘルペルデ」が編入され、都市権が施行されたのである[16]。おそらく12/13世紀以降のザールシュテットの物質的繁栄に伴い、都市防衛施設の強化建設工事も行われた。特に市壁、土塁、濠、さらに2つの市門「オスタートーア」(東の門)と「ホルツトーア」(西のイネルステ端の前の門)がその例である[16]

ザールシュテットを「市」として記録した最初の文献は、1339年1月31日の文書であり、ブラウンシュヴァイクゴスラーヒルデスハイムといった他の街と並んで挙げられている。1250年には教区司祭 (ラテン語: plebanus) がいたことが証明されており、1258年の文書にはザールシュテットの市民の名前が記述されている。ザールシュテットは、1319年から civita(都市)と記述されており、1327年には首席司教代理ドイツ語版の所在地となり、1428年に最初の市の印章が作成された[15]。この街は何度も破壊され、苦労して復興しなければならなかった。最初は1283年、グローセ・フェーデ後の1485年ヒルデスハイマー・シュティフツフェーデドイツ語版英語版1521年、その後も1556年1580年1716年[17]1798年[18]といった具合であった。

近世と宗教改革

ヒルデスハイム司教年代記には、ザールシュテットでは1412年から1580年までの間に街の発展を妨げた5回の略奪を伴う焼き討ちや自然火災があったことを記されている。

  • 1412年1月29日: 多くの死者を出した壊滅的な火災。
  • 1485年9月23日: グローセ・フェーデ。火災弾によってほぼ完全に消失した。
  • 1522年: ヒルデスハイマー・シュティフツフェーデ。ブラウンシュヴァイク軍とハノーファー軍の兵士が略奪を行い、多くの家が焼かれた。
  • 1556年: 収穫の後、ミヒャエル祭後の最初の水曜日に街全体が焼失した。
  • 1580年9月8日: 司教年代記は以下のように報告している。「ザールシュテットは5回も完全に焼け落ち、教会とフリーゼン農場、バルナー農場だけが残った。1716年に再びザールシュテットの街ほぼ全域を灰にした大火災についてはここでは触れないことにする。」

14世紀半ばに、ザールシュテットで初めてユダヤ教信者の存在が記録されている。

1645年に出版されたマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたザールシュテット。イネルステ川とライネ川との合流地点付近から見た構図で描かれている。

1519年からのヒルデスハイマー・シュティフツフェーデで、ザールシュテットはまたしても炎に包まれた。その後、ザールシュテットはヴェルフ家の支配下に入り、アムト・コルディンゲンに編入された。

宗教改革は、1542年から1543年の替わり目頃にザールシュテットに到来した。

三十年戦争の巻、様々な戦闘行為がザールシュテット近郊で行われた。1634年7月9日、包囲されたヒルデスハイム救出のために参集したカトリック=皇帝軍は、ザールシュテット近郊の「ヒュルパースベルゲ」(現在の「キップフート」)で包囲軍と遭遇し、壊滅的な打撃を受けた。

16世紀の終わり頃(1593年)のザールシュテットには、131人の市民(これに加えて9人の被保護者(農民など)と3つの荘園農場があった)がいた[15]

1653年から1815年までこの集落は再びヒルデスハイム司教区の一部となり、その後司教区とともにハノーファー王国に編入された。

1906年のザールシュテットの絵はがき

近代

フランス占領時代(1807年から1813年)、ザールシュテットはヴェストファーレン王国の一部でオーカー県(首邑はブラウンシュヴァイク)に属した[15]

ザールシュテットは、1815年から1866年までハノーファー王国に、1866年からはプロイセン王国ハノーファー州ドイツ語版英語版に属した。1850年頃にザールシュテットはヒルデスハイム侯領ドイツ語版英語版のルーテ行政管区の都市となった[15][19][20]。ザールシュテットは1852年に「ティトゥラーシュタット」(直訳: 名目上の都市)の地位を得て、行政上の独立を獲得した[15]。裁判権は、1859年にやっとアムト・ルーテからヒルデスハイム区裁判所に移管された。この頃からザールシュテットとその周辺では亜麻リネン製造の材料)が栽培され始めた。亜麻は中世から19世紀まで、イラクサ羊毛とならぶ数少ない繊維材料の一つであった。1890年、ザールシュテットの人口は 2,768人で、このうち561人がカトリック、34人がユダヤ教信者であった[21]

19世紀の大半を通じてザールシュテットは、農業と小規模業者の町であった。上述の通り1852年に名目上の都市となり、1929年にはプロイセンの自治体法に基づき、正式な「シュタット」(都市)の地位を得た。

ザールシュテットは19世紀半ばにはすでに、ハノーファー南部鉄道1853年に開業したハノーファー - アルフェルト区間の停車駅を有していた[22]。鉄道の開通に伴い、石けん工場と照明工場が設立された。司教の製粉所は商人エルンスト・マルツフェルトに引き継がれた。1844年に開設された鍵工房が、1870年代の暖房および調理用加熱機器工場の基となった。後のフォスヴェルクAGである。19世紀前半にザールシュテットに2つのマッチ工場が設立された。19世紀のザールシュテットにはレンガ工場が6つあった。

ザールシュテットの人口推移

19世紀半ばから第一次世界大戦までの間にザールシュテットの住民は4倍になった(約1500人から5700人)[23]第二次世界大戦後にはさらに倍増した。こうした人口流入は、工業化とそれに伴う経済的隆盛に関連していた。プロイセンの州に属す小都市であったにもかかわらず、ザールシュテットは鉄道網に組み込まれたことによって、早くから工業的発展をなしとげた。

フォスヴェルクAGの南側に、1898年に「公益共同体建築協会」によって民間利用のための住宅地が整備された。デーンベルクでは1938年に20軒の戸建て住宅が建設され、1950年代に約1200戸の新たな住居がこれに追加された。さらに1960年代から1970年代には、それまで農地だった場所にも住宅地が造られた。

20世紀の初め、ヒルデスハイム郡ザールシュテット市はドイツ国のプロイセン王国に属していた。当時の資料には、電信局、製糖工場、調理用かまど工場、マッチ工場、鉄鋳物工場、5つの蒸気式レンガ工場、2つの蒸気式製粉所が記載されている。

20世紀初めからは、カリ鉱業もザールシュテット周辺地域の経済活動において重要な役割を担っており、肥料の製造に用いるカリ塩ドイツ語版英語版が採掘されていた。ザールシュテットに位置する2つのカリ鉱山「グリュックアウフ=ザールシュテット」と「ジークフリート=ギーゼン」は、鉱山接続鉄道を有していた。両鉱山は、1904年/1906年以降雇用に貢献したが、ともに1987年に閉山された。

市町村合併

1974年3月1日、ニーダーザクセン州の地域再編に伴い、ギフテン、ゲドリンゲン、ハイゼーデ、ホテルン、ルーテ、シュリークム(シュリークムのみシュプリンゲン郡)がこの街に合併した[24]

住民

聖ニコライ教会

宗教

聖ニコライ教会の後期ゴシック様式の建物は、宗教改革まではヒルデスハイム司教区ドイツ語版英語版のザールシュテット首席司教代理ドイツ語版の教会であった。1457年に完成し、11世紀に建設された先代のロマネスク教会に置き替えられた。名前の由来は、商人の守護聖人聖ニコラウスである。この教会と街は1543年にルター派の教会戒律を受け容れた。

ローマ=カトリックの聖霊教会は、1912/13年にネオロマネスク様式で建設され、1961年まではルーテの教会区に属していた。ザールシュテットのカトリック信者は、18世紀半ばからはヴァイッヒシェ・ホーフの私的礼拝堂を礼拝に利用していた[15]。2002年にポストモダンのデザイン要素を採り入れた大規模な内装の改修が行われた。

ザールシュテットで2つめのルター派教会として、1963年から1965年にギーベルデュチーク地区の聖パウルス教会がバシリカ様式で建設された。やや前方に配置された教会塔ドイツ語版英語版は、受胎告知天使を頂上に戴いており、高さは 37 m である。街の中心部の北東にはザールシュテットで最も新しい福音主義ルター派教会のパウル=ゲルハルト教会がある。

新使徒教会ドイツ語版英語版は、ザールシュテットの南郊外(イン・デア・ポイレン21番地)にある。この共同体は、ハノーファー南西教会管区に属す。

ブレーク通りにはモスクがある。

行政

ザールシュテット市庁舎

議会

ザールシュテットの市議会は、32議席からなる[25]。これは人口15,001人から20,000人の自治体の議員定数である[26]。議員は5年ごとに直接選挙で選出される。これら議員の他に専任市長が市議会で投票権を有している。

首長

ザールシュテット市の専任市長は、ハイケ・ブレネッケ (SPD) である。彼女は2021年9月12日の選挙で 62.08 % の支持票を獲得して市長に選出された。この選挙の投票率は、56.68 % であった[27]

紋章

図柄: 金地赤地に左右二分割。それに被せて絡まった葉柄を持つクローバーの葉。

解説: ヒルデスハイム司教ジークフリート2世ドイツ語版英語版が1296年にザールシュテットを市に昇格させた時、最初の印章を与えた。それはイネルステ川を象徴する波帯の上に3つの塔を持つ城砦をデザインしたものであった。低い中央の塔の上には15世紀から十字架の杖と本を持った聖人が描かれるようになった。オットー・フップドイツ語版英語版は、この聖人を聖アントニウスであると記している。紋章は17世紀から古い印章とは独立して発展し、当時から現在の形で描かれている。左右二分割された紋章はヒルデスハイム司教領の紋章、クローバーの葉はおそらくかつての街の徴に由来する[28]

姉妹都市

文化と見どころ

文学作品におけるザールシュテット

  • ニーダーザクセンの作家ヴィルヘルム・ラーベは、1876年の小説「デア・イネルステ」の中で、イネルステ川南岸、すなわちザールシュテットの上流寄りの風景を愛情込めて描写している。
  • ギュンター・グラスによるダンツィヒ三部作の最終編「犬の年ドイツ語版英語版」には、カリ工場と関連してザールシュテットが5回登場する。雑誌「デア・シュピーゲル」によれば、グラスは「ファンタジーの鉱業所」のために「ヒルデスハイムとザーシュテットとの間」のリアルな描写を行い、「採掘作業を技術的に精確に」記述したと語っている。グラスは、アメリカの捕虜収容所から解放された後1947年にザールシュテッテン南近郊ギーゼンのグロース=ギーゼンカリ鉱山(ジークフリート工場)で少年労働の坑夫として働いた。作品のために記憶を新たにすべく、グラスは1962年に姉妹鉱山を訪れた[29][30]
マルツフェルト・ミューレ(水車・水力発電所)

演劇と博物館

イネルステ川沿いに建つマルツフェルト・ミューレ(直訳: マルツフェルト水車)は1302年に初めて記録されている。この水車は1965年に役割を終え、それ以後は水力発電所として利用されている。ここで得られた電力は、公共の電力網に供給されている、さらにこの発電所内には水車博物館があり、予約することで見学できる[31][32]。「ハウス・アム・ユンケルンホーフ」にはザールシュテット文化センターが入居しており、音楽、文学、舞台芸術や造形芸術、市および地域の歴史に関する展示がなされている。さらに同じ建物に郷土博物館があり、歴史的な薬局やロープ工場が常設展示として見学できる。さらに特別展示も行われる[33]

聖霊教会

建築

度重なる都市火災(最後は1798年)により、市内には歴史建築がわずかしか遺されていない[34]

  • ティー広場近くにあるデドリンゲン記念碑は、戦没者を記念している。
  • かつてユダヤ人が経営するオフィスであったシュタイン通り13番地の木組み建築のブロンズ製プレートは、ザールシュテットに住んでいた家族を記念している。現在ここには市の交流センターが入居している。
  • 高さ 32 m の鐘楼を持つカトリックの聖霊教会は、1913年に建設された。
  • 高さ 41 m の鐘楼を持つ福音主義の聖ニコライ教会は、1457年にゴシック様式の石造建築として現在の姿で建設された[35]
  • イネルステ川沿いに14世紀からあるマルツフェルト水車および水力発電所は、現在保護文化財に指定されている。穀物製粉所は1965年に閉鎖され、水力は発電施設に利用されている。建物内には現在、水車博物館がある[36]
  • ザールシュテットの見習い職人のための職業学校は1866年に日曜学校として設立された。1861年に建設された建物は、イネルステ橋の近く、シュタイン通り8番地にある。
  • 現在もオリジナルの姿で建っている市庁舎は、1798年に焼失した先代の建物の基礎壁上に1799年に建設された。この建物の印象的な特徴は、両側に伸びる外階段である。市庁舎前の広場には、フランスの姉妹都市にちなんでオーブヴォワ=ガイヨン広場と名付けられている。
  • 1787年のラーツアポテーケは、ザールシュテットで最も古い薬局である。この建物は、1847年から1853年まで郵便局として、1874年から1881年まで戸籍役場として活用されていた。

緑地とレジャー地

イネルステバート・ザールシュテットは、屋内レジャープールである。5月から9月までの夏季には屋外プールもオープンする[37]。ハイゼーデ地区のギフテン湖およびバーデ湖は保養地として活用されている。

経済と社会資本

2024年6月30日現在のザールシュテットの雇用率は、65.2 % であった[38]。これはニーダーザクセン州の平均 77 % よりもかなり低い。

主な企業

  • ケルヴィオン PHE(旧 GEAエコフレックスGmbH): プレート熱交換器製造業者
  • アヴァコン・ナトゥール GmbH: アヴァコンの子会社の地域供給企業であり、E.ON AG の子会社でもある。
  • ヘルムケ: 電気モーター製造業者
  • ヴィーデマン: 建築技術の大手販売業者
  • ヘルベルト・カンネギーサー GmbH: 工業用洗濯機製造業者、サイクル式洗濯機の製造。
  • スムルフィット・カッパ・ヴァルパッペ・ザールシュテット製造所(旧ジーガー・ヴァルパッペ): 段ボール製造工場
  • ノーートブックスビリガー.de: オンライン通販会社

この他、ザールシュテット周辺には数多くの風力発電施設がある[39]

メディア

  • ザールシュテッター・ツァイトゥング(1888年10月13日頃から1941年6月1日)ドイツ国宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの命令により廃刊。
  • ザールシュテッター・アンツァイガー(1994年廃刊)
  • クレーブラット.de: 1982年から刊行されている、ザールシュテット地域、ヒルデスハイム北部地域、ハノーファー南部地域向け地方紙。
ザールシュテット市立図書館

公共機関・施設

  • イネルステバート: ザールシュテット市の屋内レジャープール[37]
  • ザールシュテット市立図書館[40]
  • ザールシュテット郷土博物館[33]
  • 青年センター「クレックス」[41]
  • ザールシュテット市立文書館[42]
  • ボランティアエージェンシー「シュポンタン」: 福音主義ルター派教会クライスの近隣支援団体と協働している。
  • GEO60は、ザールシュテットのルーテ地区にある重力波を検出する観測施設である。これは5つの検出器で構成される国際的なLIGO施設の一部である。

教育

  • アルベルト=シュヴァイツァー=シューレ: 基礎課程学校および学習補助の特別学校
  • カスタニエンホーフ基礎課程学校
  • レーゲンボーゲンシューレ: 基礎課程学校
  • ギムナジウム・ザールシュテット
  • シラー=オーバーシューレ・ザールシュテット: 2つのキャンパスを持つ。
  • AOKニーダーザクセンの教育会議センター
ザールシュテット駅

交通

公共近郊交通、鉄道、道路、バス交通

ザールシュテット住民のマリア・パーペンブルクは、1925年に、自動車(T型フォード)や馬車を用いて、この街で最初の馬車・乗り合い乗用車の会社を設立した。第二次世界大戦の開戦により自動車は戦争目的に供出された。その後、現在のキントリング家は1967年からこの馬車運行会社を引き継ぎ、タクシー会社としてザールシュテット市内で営業している。

ザールシュテット駅は、ハノーファー南部鉄道ハノーファー - ゲッティンゲン間に位置している。レールテ - ノルトシュテンメン線を使い、オーバーハルツ地方ドイツ語版英語版を経由してハレ (ザーレ)に接続している。ハノーファーSバーンハノーファー中央駅に通じている。1990年から電化されたシュタットバーンあるいは地域間道路交通が直接ハノーファーとの間を結んでいる。この路線は1958年からヒルデスハイムへは通じておらず、折り返しループの終点となる。

さらに見る 路線番号, 行程 ...
路線番号行程運行間隔運行会社
S 4ヒルデスハイム中央駅ドイツ語版英語版 - エンメルケ - バルンテン - ザールシュテット - レーテン (ライネ) - ハノーファー・メッセ/ラーツェンドイツ語版英語版 - ハノーファー・ビスマルクシュトラーセ - ハノーファー中央駅 - ハノーファー=ノルトシュタット - ハノーファー=レーデブルク - ファノーファー=ヴィンホルスト - ランゲンハーゲン・ミッテ - ランゲンハーゲン・プフェルデマルクト - ランゲンハーゲン=カルテンヴァイデ - ビッセンドルフ - メレンドルフ - ベネミューレン
2022年6月の時刻表に基づく
60分トランスデフ・ハノーファー
1ランゲンハーゲン - ベルリナー・プラッツ - ビュトナーシュトラーセ - ニーダーザクセンリング - ハノーファー地下鉄中央駅 - クレプケ - エギディエントーアプラッツ - アルテンベーケナー・ダム - パイナーシュトラーセ - ボトマーシュトラーセ - ラーツェン/アイヒシュトラーセ - ラーツェン/ツェントルム - ラーツェン - レーテン/パッテンザー・シュトラーセ - グライディンゲン - ハイゼーデ - ザールシュテット20分(平日)
30分(日祝日)
ÜSTRA
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多くのバスが、ヒルデスハイム、エールツェノルトシュテンメン、レーテンへ運行している。最も重要なバス会社はヒルデスハイム地域交通 GmbH である。

道路

ザールシュテットは連邦道6号線ドイツ語版英語版沿いに位置している。道路交通や鉄道交通によりザールシュテット市では騒音公害が発生している。

超短波全方向式無線標識施設

航空施設

キップフート丘陵に航空ナビゲーションのための超短波全方向式無線標識 (VOR) 施設がある。ここからハノーファー空港への計器着陸が始まる。一時的に着陸が不可能な場合には、ここで待機飛行を行う。

人物

出身者

ゆかりの人物

関連図書

  • Heiner Jürgens; Hans Lütgens; Arnold Nöldeke; Joachim Freiherr v. Welck (1938). “Sarstedt”. Die Kunstdenkmale des Landkreises Hildesheim. Hannover. pp. 176–189
  • Chronik der Stadt Sarstedt 1853 bis 1949. Sarstedt(発行年不明、1950年頃)
  • Hans Wehling (1973). Sarstedt – Geschichte einer kleinen Stadt. Sarstedt: Verlag Kreis-Anzeiger
  • Jürgen Jacobi, ed (1987). 200 Jahre Rats-Apotheke zu Sarstedt. Kleine Geschichte einer Kleinstadt-Apotheke. Sarstedt
  • Friedrich Dietrich, ed (2001). Sarstedt. Geschichte unserer Stadt. Sarstedt
  • Andreas Voß (2002), Feldbahnmuseum Hildesheim, ed., “Dachsteinwerk Otto Gott, Sarstedt”, Feldbahn kreuzt!issue=9: pp. 32–39
  • Jürgen Rund (2007). “Städtische Siedlungen”. In Carl-Hans Hauptmeyer, Jürgen Rund, Gerhard Streich. Blatt Hannover (Hannover und Hannover-Nord). Historisch-Landeskundliche Exkursionskarte von Niedersachsen. Bielefeld: Verlag für Regionalgeschichte. pp. 96–135
  • Sarstedt unterm Hakenkreuz. Hildesheim: Gebrüder Gerstenberg. (2008). ISBN 978-3-8067-8726-9
  • Sarstedter Geschichtskreis, Stadt Sarstedt, ed (2014). Sarstedt und Umgebung auf alten Ansichtskarten. Sarstedt. ISBN 978-3-00-045557-5
  • Jürgen Heise, ed (2008). Sarstedt aus der Vogelperspektive. Sarstedt. ISBN 978-3-00-026247-0

脚注

外部リンク

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