チントウ
空手道の型
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歴史
アナン(チントウ)という中国の水夫の船が沖縄の海岸に漂着し、漂流した海岸の地元の住民の作物などを盗んでいた。そこで琉球国王は空手家で国王の御側守役であった松村宗棍をチントウを捕まえる為に送った。そこで松村はチントウから技を学んだという伝説がある。
しかし、松村宗棍はナイファンチ、公相君、五十四歩のみを伝授したといわれ、チントウは伝えていない。
喜屋武朝徳が伝えたチントウは斜め一直線に演武する。これは泊の親泊興寛から習った形であり、現在の斜め一直線や横一直線のチントウはこの系統に属する。
喜屋武朝徳は「チントウ」の型を得意とし、「昭和13年頃沖縄の那覇公会堂での演武では有名な武士は顔を見せたが出場はせず、代わりに門下生を出して型を使わしたが、喜屋武師範だけは60歳を過ぎているのに単独で出場して堂々と技を使いまくった。当時の60歳という年令は今の人では想像がつかぬ程老衰していたものだ、しかし喜屋武師範は若人同様フラフラすることなく隆々たる姿で演武したものであった。ただ終って降壇の時、些かよろめいたが実に感心させられた」[1]。 また昭和14年6月18日の沖縄武徳殿開殿式における記念演武会には、元、総理大臣で大日本武徳会会長である陸軍大将、林銑十郎以下関係者を招き柔道、剣道、空手道の演武が行われた際、空手道の単独型演武では年齢順に行われたため、22名中最高齢の喜屋武朝徳が最後に「チントウ」の型を演武している[2]。 喜屋武朝徳は終戦1年前、読谷村飛行場建設慰問演武会で75歳にして「チントウ」の型を披露して、奉仕労働に駆り出されていた老若男女に感銘を与えたという。翌年の終戦の年の1945年(昭和20年)9月20日、その生涯を終えた [3]。
喜屋武朝徳の道統である少林寺流空手道錬心舘初代宗家、保勇の「鎮東」[4][5]は國際松濤館初代館長の金澤弘和が松濤館別伝の「岩鶴小」[6][7][8]として導入し、海外ではよく演武されている。
糸洲安恒が改編したチントウは縦一直線の演武線であり、親泊のチントウを改編したものと考えられている。本土には摩文仁賢和によって伝えられた。船越義珍は摩文仁からチントウを習い日本風に岩鶴と改称している。岩鶴の名は現在も松濤館流の型として継承されている。岩鶴に改称した理由として戦時中の反中国の感情を回避するためと考えられている。