アリー・ハーメネイー
1989年から2026年までのイランの最高指導者 (1939-2026)
From Wikipedia, the free encyclopedia
アーヤトッラー・セイイェド・アリー・ホセイニー・ハーメネイー(ペルシア語: علی حسینی خامنهای, ラテン文字転写: Āyatollāh Seyyed `Alī Ḥoseynī Khāmene'ī, ペルシア語発音: [ɔːjætoˈlːɔːh seˈjːed ʔæˈliː hosejˈniː xɒːmeneˈʔiː],
発音、1939年4月19日 - 2026年2月28日)は、イランの政治家、イスラム法学者。最高指導者(第2代)、大統領(第3代)。日本ではハメネイ師[1]と表記されることが多い。
| アリー・ハーメネイー سید علی خامنهای | |
| 任期 | 1989年6月4日 – 2026年2月28日 (1989年8月6日までは最高指導者代行) |
|---|---|
| 大統領 | 一覧参照
|
| 任期 | 1981年10月9日 – 1989年8月16日 |
| 最高指導者 | ルーホッラー・ホメイニー |
| 首相 | ミールホセイン・ムーサヴィー |
| 任期 | 1988年2月7日 – 1989年6月4日 |
| 最高指導者 | ルーホッラー・ホメイニー |
| 任期 | 1983年8月15日 – 1989年6月4日 |
| 選挙区 | テヘラン州 |
| 任期 | 1980年5月28日 – 1981年10月13日 |
| 選挙区 | テヘラン・レイ・シェミーラーナート地区 |
| 出生 | 1939年4月19日 |
| 死去 | 2026年2月28日(86歳没) |
| 政党 | (闘う法学者協会→) (闘う法学者協会/イスラーム共和党→) (闘う法学者協会→) 無所属 |
| 出身校 | ゴム神学校 ナジャフ神学校 ホラーサーン神学校 |
| 配偶者 | マンスーレ・ホジャステ・バーゲルザーデ (1964年 - 2026年死別) |
| 子女 | モジタバを含む6人 |
| 宗教 | イスラム教シーア派十二イマーム派 |
| 署名 | ![]() |
1979年のイラン革命後、イスラーム革命評議会議員、国防次官、イスラム革命防衛隊司令官、第3代大統領、最高国防会議議長を歴任。最高指導者就任前は、1981年から1989年までイラン・イスラム共和国の大統領を2期務めた[2]。1989年6月4日、ホメイニの死去を受け、イランの第2代最高指導者に就任。以降36年と8カ月にわたってその地位にあってイランを統治したが、2026年2月28日から始まったアメリカとイスラエルによるイラン攻撃において、同日のイスラエル軍の空爆により死亡した[3]。なお民族的にはペルシア人ではなくアゼリー人(アゼルバイジャン民族)である。
宗教指導者
マシュハド市出身。彼の父であるジャヴァド・ハーメネイーはマシュハド在住の大アーヤトッラー(高位ウラマー)で、東アーザルバーイジャーン州ハーメネの出身でアゼルバイジャン人。母は、同じくマシュハドの著名なウラマーであるセイイェド・ハーシェム・ナジャファーバーディーの娘で、ヤズドの家系。
小学校卒業後は、父に内緒で中学校に通い、その後はまずマシュハドの王立神学校でイスラーム諸学、特にアラビア語を学び、1958年より2年間イラクのナジャフで神学を学んだ。その後ゴム市に赴き、ホメイニーの下で1964年までイスラーム法学を学んだ。
ホメイニーの弟子かつ重要な同志であり、現在では大アーヤトッラーの称号を持つが、彼は最高指導者の地位に就くまでは法学者として最高の位階にあったわけではないため(後述)、現在でも法学権威(模倣の源泉、マルジャエ・タクリード)として最良であると見なされているわけではない[4]。
ハーメネイーは、イスラーム法の広い知識を有しているが、ゴム市の一部の活動家は、彼の権威を認めていない。この事実は、現政権の指導者の多くがゴム市の宗教学校出身であるのに対して、ハーメネイーはマシュハド市で宗教教育を受けたことに一因があるが、マシュハドおよびゴム市の宗教学校の学生中には多くの支持者を有する。イスラム革命防衛隊、商人、聖職者の大多数も、彼の支持者である。
反帝政闘争
革命前は反体制活動家だった。1962年ホメイニーの呼びかけにより、ゴム市が蜂起。この蜂起において、ハーメネイーは、ゴム市に滞在しつつ、マシュハド市の宗教・政治活動家と連絡を取っていたが蜂起は鎮圧されハーメネイーは投獄された。その後も皇帝(シャー)批判の容疑で、投獄を繰り返す[5]。
その後はハーシェミー・ラフサンジャーニー等の別組織と協力して、反帝政秘密組織の再建に取り組んだ。この秘密組織は、イラン革命で大きな役割を果たし、革命後はイスラーム共和党に再編された。
イラン革命後
革命後、ハーメネイーは、ホメイニーに重用されて、イスラーム革命評議会議員、国防次官(法学者代表)、イスラム革命防衛隊司令官、テヘラン市の金曜礼拝導師、第1期マジュリス(議会)代議員、最高国防会議におけるホメイニーの顧問を歴任。
特にテヘランの金曜礼拝の指導者に任命されたことは大きく、彼の政治説教が毎週全国に放送されるようになったことで、革命後イランの国家指導部の一員たる地位を確立する[6]。
革命直後、ホメイニーに忠実な過激派大学生グループがアメリカ大使館を占拠。数十人のアメリカ外交官と大使館職員が人質に取られた(イランアメリカ大使館人質事件)。ホメイニーやハーメネイーをはじめとしたイラン革命指導者たちは取り締まるどころか、大使館を占拠した大学生たちを支持。これにより革命後イランとアメリカの関係は完全に破綻、革命後イランの反米、反西側路線を決定づけ、イランの孤立の始まりとなった[6]。
イラン大統領(1981年-1989年)
1981年後半、モハンマド・アリー・ラジャーイー大統領の暗殺により、ホメイニーの指示で大統領選に立候補[6]。西側諸国とその自由主義思想(特に米国)に敵対し、アメリカと戦争になった時は仮借なき戦いを遂行することを公約を掲げた[5]。ホメイニーが誰が立候補する権利があるかコントロールしていたため、結果は疑う余地がなく、得票率97%でハーメネイーが当選した[6]。
1980年から8年にわたって続き、約100万人が犠牲になったイラン・イラク戦争において、イラン側の中心的な役割を担った[7]。
兵器でイラク軍に大きく劣ったため、9歳に至るまでの兵士の大量動員で徹底した人海戦術をとり、イラク軍の地雷原を少年兵に武器を持たせず走らせ、少年兵たちを爆死させることで地雷を除去。後続の主力部隊に地雷原を突破させるという苛烈な戦法をとった[6][8][9][10]。
この戦争でのハーメネイーのあまりの苛烈さに、イラクを支持していたアメリカと西側諸国のハーメネイーに対する警戒感は強まった[6]。
- 1981年10月9日、大統領となったハーメネイー(左)と初代最高指導者ルーホッラー・ホメイニー(右)。
- 1980年代。イランイラク戦争の戦況視察するハーメネイー大統領(左)。
最高指導者(1989年-2026年)
1990年代

1989年6月にハーメネイーがホメイニーの跡を継いで第2代最高指導者に選出されたのは、保守派の闘う法学者協会と改革派のミカエルケドニーとハーシェミー・ラフサンジャーニーの利害の一致のためだった。彼は候補者の中で最も若く、当時国会議長だったラフサンジャーニーは、改革推進において彼の協力を当てにしていた。一方、保守派の宗教・政治指導者は、余り権威のないハーメネイーが自分達の影響下に入るものと予想していた。そもそもホメイニーの後継者として指名されていたホセイン・アリー・モンタゼリーが失脚してから時間がなく、ハーメネイーの最高指導者への選出は既定の路線ではなかった。
モンタゼリー失脚時点では、憲法に最高指導者はマルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)でなければならないという規定が存在したが、モンタゼリーにかわる、大アーヤトッラーの地位をもつ好ましい後継者が見つからなかった(当時イラン国内に存在した大アーヤトッラーは、ホメイニー、モンタゼリーを除き全て体制中枢から距離を置いていた)ため、ホメイニーは大アーヤトッラーでなくとも最高指導者の地位に就けるようにイラン・イスラーム共和国憲法第109条の改正を行い、親体制派の聖職者たちに対して道を開いた。
ホメイニーはシーア派十二イマーム派におけるイスラム法学者の位階の最高位マルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)であったが、ハーメネイーは長くホッジャトル・エスラーム(位階の第三位)にすぎず、この時昇格してもなおアーヤトッラーであり、マルジャエ・タクリードには届いていない。当初、最高指導者はマルジャエ・タクリードでなければならないとされていたため、ハーメネイーの権威に傷が付くことになったのである。
ハーメネイーの就任当初の宗教的権威の弱さは、彼の最高指導者就任演説にも表れており、その中に「私は多くの欠点や短所を持っており、本当に取るに足らない神学生です」という弱弱しい一語がある[6]。
最高指導者となったハーメネイーは、1997年まで、政治の舞台では保守派の味方についた。ハーメネイーは、1989年から1997年まで大統領だったラフサンジャーニーに目に見える支援を与えなかった。このことは、「専門家会議」を支配するコム出身の宗教活動家側からの非難を懸念したからだとされる。その外、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーと自分を対等と考え、彼に圧力を加えようとすらした。
1990年代に核兵器の開発に対して反対の立場を示し、ファトワ(宗教的な法令)を発布したとされている[11]。
1990年の湾岸戦争では、イラクと敵対関係にあったイランは中立の立場を取ったが、ハーメネイーは米軍の湾岸地域への展開を懸念し、「ペルシャ湾岸地域の米軍駐留に対する反対闘争はジハード(聖戦)である」「アメリカのペルシャ湾岸地域への侵略・貪欲と闘う者は、アッラーの大義のためにジハードに従事している者なのである。したがって、その道の途中で殺された者は殉教者である」と宣言している[12]。
1992年の議会選挙前日、闘う法学者協会の指導者、並びにラフサンジャーニーとの協議中、左派の勝利を許さないことが決定された。その結果、左派の活動家は、議席を得ることができなかった。議会の保守派は、強力な派閥を形成したが、ラフサンジャーニーの予想に反して、政府に協力しなかった。ハーメネイーは、保守派の圧力の下、サウジアラビアとの協力、対米関係の一部正常化、創作従事者党の創設等で、大統領を再三批判した。ハーメネイーとラフサンジャーニー間の不一致は、1997年の大統領選挙までに鮮明に現れた。ハーメネイーは、闘う法学者協会から立候補したアブドッラー・ナーテグ=ヌーリーの支持を明言し、ラフサンジャーニーは、モハンマド・ハータミーの勝利のため、闘う法学者協会の影響力低下に関するあらゆる措置を採った。
2000万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。若干の権威ある宗教活動家、学生およびイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示してはない。
1994年12月、マルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)であるモハンマド・アリー・アラキーが死去したのち、専門家会議はハーメネイーをマルジャエ・タクリードとして認めると宣言した。モハンマド・シーラーズィ、ホセイン・アリー・モンタゼリー、ハサン・タバータバーイー・ゴミーなど、何人かの反体制派およびイラン国外の大アーヤトッラー・アーヤトッラー達はハーメネイーを大アーヤトッラーとして認めることを拒否した。
また、政治経験は豊富であっても、法学における業績が乏しいハーメネイーを大アーヤトッラーとして認める慣例に反した決定にはイラン国内からの反発も強く、 ハーメネイーは自ら、12月18日には、イラン国内におけるマルジャエ・タクリードとしての役割を辞退する声明を発表した[13]。
1999年後半、イラン情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。
ハータミー政権との妥協の結果、デモ鎮圧時に職権を濫用した法秩序警備軍将校が刑事起訴され、情報相、司法権の長、貧民財団総裁等が解任された。その一方で、1999年-2000年中、20紙以上の新聞紙が閉鎖に追い込まれ、若干のジャーナリスト及び社会・政治活動家が処罰された。
ハーメネイーは、国際舞台でのハータミーの努力を支持した。彼は、ドイツ人企業家の釈放の指示を下し、イスラエルのためのスパイ行為で死刑判決を受けていたユダヤ系イラン人に対する判決を差し戻した。
ハータミー政権において、ハーメネイーは、行政権の政策を支持することで国民中の人気をつなぎとめ、他の権威ある宗教活動家からの圧力をかわすことに力を注いでいる。
2000年代

2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きると、ハーメネイ―は「アメリカ支持なら反テロ、反米ならテロ支持というわけではない。我々は米国ともテロとも共にしない」と述べた[14]。アメリカのアフガン報復攻撃については、タリバン政権と敵対関係にあったイランは複雑な立場だったが、ハーメネイ―は「地域の平和、そしておそらく世界の平和が、米国によって危険にさらされている」と述べて、アメリカのアフガン空爆を批判した[15]。
2002年1月のジョージ・W・ブッシュ米大統領が一般教書演説でイラク、イラン、北朝鮮を名指しして「悪の枢軸」と批判すると、ハーメネイーは激しく反発し「世界で最も憎まれている悪魔の標的にされるのは名誉なことだ」と述べた[16]。
2003年のイラク戦争でハーメネイーは「米英の目的は、イラクを占領し、中東地域を支配し、石油を完全に支配することである」「100%の残虐行為」と米英を批判するとともに「世界の主要国はいじめっ子であること、侵略者であることを誇りに思っている」と述べてアメリカの同盟国も批判した[17]。しかし、その表向きの批判とは裏腹に、ハーメネイーの覇権を中東に拡大させるうえで最も邪魔な宿敵サダム・フセインが滅びたことはハーメネイーにとって大きな利益だった。2018年の米陸軍研究でもイラク戦争後、大胆になり拡張主義的になったイランが、イラク戦争唯一の勝者のように見えると分析されている[18]。
2002年に反体制派組織がイラン国内で秘密裏に建設されていた2つの大規模原子力施設の存在を暴露し、これによりイランがIAEA(国際原子力機関)に申告することなくウランを濃縮していたことが判明し、2006年に国連安全保障理事会はイランに経済制裁を科した[19]。 これに対してハメネイは西側諸国がイランの原子力技術を奪おうとしているとし、「彼らはイランが核兵器製造を望んでいないことを知っているが、イスラム国家の進歩を阻止するために圧力をかけてきている」「神に頼ることにより、原子力発電計画を進める。」と宣言した[20]。
大統領選挙をめぐっては、2005年の大統領選挙ではハーシェミー・ラフサンジャーニーとマフムード・アフマディーネジャードの両陣営に対し、緊急メッセージを送り、せっかちな勝利宣言で人心の混乱を招かぬよう冷静沈着に振る舞うことを呼びかけ、中立的な仲裁者の立場を崩さないことで、選挙による国民分裂を抑える役割を果たした[21]。
しかし、2009年6月13日の大統領選挙では、2005年と別人のような速さで保守派に属する現職大統領アフマディーネジャードを勝者として認定した[21]。敗れた改革派候補で元首相のミール・ホセイン・ムーサヴィー陣営は、不正選挙を主張し、選挙のやり直しを求め、支持者らによる大規模抗議活動が発生した。イランでは中立の選挙管理機関が存在せず、国際監視団のモニタリングもないので、開票のすべてを現政府が支配しており、集計の公正さを確かめる術が存在しないのが原因だった[22]。
しかしハーメネイーは不正選挙はないとして、改革派の主要メンバーを逮捕させるなど抗議運動を徹底的に弾圧した。この時にハーメネイーは、世俗の争いを超越する神聖な宗教的権威の立場を放り捨て、一党派の加担者と化した。そのため、これ以降のイランにおける抗議運動には最高指導者や宗教の権威そのものに挑む色彩を帯びるようになっていくのである[21]。
さらに流血沙汰になったのは抗議活動の指導者のせいだと非難。また、アメリカをはじめとした国際社会からも不正選挙の疑惑や、抗議活動の弾圧の非難を受けたが、ハーメネイーは、外国の内政干渉であると反発し、「アフガニスタンやイラク、そして世界の他の地域で行ったことを考えると、人権に関するアメリカの発言は受け入れられない。なぜなら、彼らは人権について全く理解していないからだ。彼らからの人権に関するアドバイスは必要ない」として一切聞き容れなかった[23]。
- 2001年1月25日、シリア大統領バッシャール・アル=アサドと
- 2006年11月6日、ベラルーシ大統領アレクサンドル・ルカシェンコと
2010年代

2010年2月にハーメネイーは演説でこの選挙後の出来事は、一部の人々の誤った推測や無知から発生したとし、「(外国や共和国内部の体制の転覆を目論む)敵は、これらの出来事を利用することで、イラン・イスラム共和国を弱体化させようとしたが、これらの出来事は、体制の弱体化につながらなかったばかりか、これまで以上にイスラム体制が力をつける要因となった」と述べ、また、長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたとも述べている[24]。
2010年1月にはイラン情報省海外担当次官が、大統領選挙後のデモの発生に何年も前からイランの政権の転覆を目的としてきたアメリカ合衆国とヨーロッパの財団・機関などが関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し、この侵略的な体制転覆計画はアメリカ、イギリスの国家機関等がこれらの団体を使って行わせており、今までにかなり多くの予算が正式に割り当てられていると主張した。また、これらの団体は表面上諜報機関とはわからないように装って活動しているとしている(『Iran紙』2010年1月5日付)。
詳細は「イラン#アメリカ合衆国」「アメリカ合衆国とイランの関係#2009年~2010年対イラン干渉」参照。ハーメネイーの西側諸国への主張に関しては「イランの主張」または上記の脚注につけた公式サイトのリンク先を参考。
イランの核開発疑惑をめぐり、2015年7月にはバラク・オバマ米政権との間でイラン核合意を締結したが、同時にハーメネイーは「(この合意は)イランの対米政策を変えるものではない。米国の中東政策はテヘランの戦略と一致していない。我が国はレバノンのヒズボラ、パレスチナ抵抗組織、シリア政府を含む中東の同盟国を引き続き支援する」と述べて、イランの親米化は拒否した[25]。
2018年にはドナルド・トランプ米政権がイラン核合意を離脱してイラン制裁を再開。ハーメネイーはそのトランプの演説について次のように批判した。「10回は嘘を吐き、イラン国家と国民を脅迫した。イラン国民を代表して彼に次の言葉を伝える。『トランプ氏よ、お前にできることは何もない!』」[26]。
2019年6月にトランプ政権はハーメネイーらの数十億ドルの資産を凍結した[27]。
2019年11月15日からガソリン価格高騰に伴う大規模抗議デモが発生。2日後の11月17日にはデモは首都テヘランに及び、イスラム共和国体制とハーメネイーの終焉を求める声があちこちで叫ばれた。同日ハーメネイ―は、ハサン・ロウハーニー大統領以下高官を要塞内にある自身の公邸に召集。ハーメネイ―は、自分の肖像画が燃やされたり、ホメイニーの像が破壊されているとして「イスラム共和国は危険に晒されている。」と激怒。それを阻止するため可能なことは何でも行うよう大統領や治安当局に命令した[28]。治安当局は武力行使でデモを弾圧。ハーメネイーは、この騒動は米国を含む外国の敵対勢力の陰謀だと決めつけて非難、抗議者らのことを「凶悪犯」と罵倒した[29]。
- 2016年1月23日、中国共産党中央委員会総書記習近平と
2020年代

2020年1月にイラク・バグダットで対外工作を行っていたイスラム革命防衛隊ゴドス軍司令官ガーセム・ソレイマーニーがアメリカ軍の無人機の攻撃で死亡した(バグダード国際空港襲撃事件)。ドナルド・トランプ米大統領は、1月2日にツイッターで「ソレイマーニーは多くの米国人の殺害を計画していた。彼はずっと前に殺害されるべきだった」と主張。これに対してハーメネイーは3日にツイッターで「手を血で汚した犯罪者を待っているのは厳しい報復だ」と述べて報復を示唆した[30]。また1月6日のソレイマーニーの追悼集会において、ハーメネイーは、ソレイマーニーと、彼と一緒に死んだ5人の「殉教者」の遺体の棺の前で祈りを捧げ、声を震わせ、一時涙を流したようにも見られた[31]。

2021年1月8日にはツイッターで、欧米で製造された新型コロナウイルスワクチンについて触れ、「これらのワクチン(米英のワクチン)は全く信頼できない。他国民を汚そうとしている可能性もなくはない」「フランスの血液製剤がエイズウイルスで汚染されていた事例を踏まえると、フランスのワクチンも同様に信頼できない」などとワクチン陰謀論を展開。これに対してツイッター社は、「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関して誤解を与える情報に対する方針」に基づきハーメネイーの投稿を削除した[32]。
同年1月10日には関係部局に米国、英国、フランスのコロナワクチンの輸入禁止を指示。この最高指導者の指示を受け、ハサン・ロウハーニー大統領はイラン製コロナワクチンを開発すると宣言した[33]。6月にはハーメネイーがイラン製ワクチンを接種したことが国営放送で伝えられている[34]。
2022年9月に入って腹痛と高熱に見舞われるなど体調を崩して一時は重篤となったが、腸閉塞の手術を受け容態は改善し、その後も医師団による観察が続いていると報じられた[35]。
2022年9月16日、頭髪をスカーフで正しく覆っていなかったとしてクルド系イラン人女性マフサ・アミニがイラン風紀警察に連行され、拘束中、風紀警察による暴行殺害が疑われる「急死」をした事件をきっかけにイラン支配層であるイスラム聖職者に対する怒りと異議が巻き起こり、「女性、命、自由」をスローガンとした大規模な抗議デモがイラン全土で発生した(マフサ・アミニ抗議運動)[36]。ハーメネイーは10月3日にこの抗議デモについて声明を出し、「アメリカ政府、シオニスト政権(イスラエル)、海外の裏切りイラン人(「裏切りイラン人」というのはおそらく抗議活動を支持していたサッカー選手アリ・カリミらのこと)により計画された暴動である」と断定して弾圧を指示[37]。イラン当局が残忍な弾圧を行ったことに対し、アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官は、マフサ・アミニ死亡事件や、平和的な抗議デモ弾圧をめぐってイランを批判し、イラン風紀警察と治安当局の高官に米国内の資産を凍結するなどの制裁を科した[38]。

2024年7月31日、自身が支援したパレスチナのイスラム原理主義組織ハマース最高指導者イスマーイール・ハニーヤがイランのテヘランで暗殺された。この暗殺事件の犯人はいまだに不明だが、イスラエル諜報特務庁(モサド)による暗殺が濃厚だった。これはイランの権威を失墜させる重大事件であった。ハニーヤは、国外で殺害されたソレイマーニーと違い、イランの最重要警備エリアたるテヘランの革命防衛隊の施設内に滞在していたところを殺害されているからである。それは、イスラエル諜報機関のイランへの浸透が非常に深く、イランは完全にインテリジェンス能力で後れを取っていることを意味しているのである。さらにハニーヤが「抵抗の枢軸」の外国当局者であったことも考慮すると、その暗殺の政治的影響はソレイマーニーより広範囲に及ぶ。イランの「客人」が暗殺されることはイラン当局者が暗殺されるよりもイランの信頼を失墜させるのである[39][40]。恥をかかされたハーメネイーは、イスラエルへの報復攻撃を想定した軍事計画を策定するよう、イラン革命防衛隊に指示した[41]。
2024年10月5日にイスラエルに対してミサイル攻撃を実施させた。ハーメネイーは、最高指導者声明の中でこの攻撃について「合法かつ正当」でイスラエルの「罪」に対する最低限の罰と主張した[42]。180発の弾道ミサイルをイスラエルに撃ち込んだが、イスラエルの防空システムにより撃ち落され、さらにイスラエルは報復攻撃を示唆した[43]。
2025年6月13日、12日間戦争勃発となるイスラエルの空爆により、核関連施設や弾道ミサイル拠点、防空システムなどを破壊され、さらに革命防衛隊司令官フセイン・サラミ、参謀総長モハンマド・バーゲリー、革命防衛隊空軍司令官アミール・アリー・ハジザデら軍部、フェレイドゥーン・アバシ元原子力庁長官ら核開発科学者が続々と死亡した。再びインテリジェンス能力の差を見せつけられて恥をかかされたハーメネイーは激怒し「シオニスト政権(イスラエル)は厳しい処罰を受けなければならない」としてイスラエルへの報復攻撃を宣言した[44]。ハーメネイーは、計100発程度のミサイルを2度に分けてイスラエルに発射したが、大半はイスラエル防空システムに撃墜された[45]。
イラン軍部と核開発者の一掃に成功したイスラエルのネタニヤフ首相は、米ABCテレビのインタビューの中で、ハーメネイーの殺害も選択肢に存在すると発言して物議を醸した[46]。またイランのイスラム革命体制の転覆については「それを意図はしないが、必然的にハーメネイーの失脚により起きるだろう」と体制転覆も示唆した。ただし、同盟国のアメリカ合衆国のトランプ大統領はイランへの攻撃には賛成しつつも、ハーメネイーの暗殺には否定的でやるべきでないと主張したため、この段階ではハーメネイー殺害作戦は実行には移されなかった[47]。
アメリカが参戦してくるとハーメネイーはカタールの米軍基地にミサイルを撃ち込んだが、死傷者はなかった。しかしハーメネイーは、それを「アメリカの顔を平手打ちした」と称して戦果を誇示した[48]。さらに停戦後もハーメネイーはイランが戦争に勝利したと勝利宣言を行ったが、それに対してトランプ米大統領は自身のSNSで「嘘をつくべきでない」とし、ハーメネイーがイスラエルと交戦中に退避していた場所も正確に知っていたが、自分が殺害を容認せず、そのおかげで、ハーメネイーは醜く惨めな死から救われたにすぎないと主張し、イランがウラン濃縮活動を続け、核兵器保有の懸念が強まったと判断した時には、再び対イラン空爆に踏み切ると断言した[49]。
経済危機からイラン全土で大規模な抗議デモが起きていた2026年1月4日のイギリスのタイムズ紙の報道によれば、当局が弾圧に失敗した時には、ハーメネイーは、国外逃亡するつもりだったという。ロシア以外にハーメネイーを受け入れてくれる国はないであろうことから亡命する場合の行き先はロシアだろうと推測された[50]。
2026年1月9日には抗議デモについての最高指導者声明を出し、「アメリカの大統領を喜ばせようとしている者がいる。外国への協力者は決して許さない」「イラン国民は団結を守らねばならない。」としたうえで、先立つ1月5日にイラン当局が国民弾圧を続けるならイラン攻撃も辞さないと表明したアメリカのドナルド・トランプ大統領について「彼は倒されるだろう」と予告した[51][52]。
2026年1月17日にも抗議デモについての声明を出し、「われわれは暴動の背骨を折った」「アメリカ大統領は暴徒を扇動し、死傷者や損害をもたらした犯罪者である」と述べ、抗議デモの武力鎮圧を誇示するとともに、イラン国民に体制打倒の蜂起の呼び掛けを行ったトランプ米大統領を批判した[53]。
- 2023年2月8日「忠誠の歴史的誓い(ホマファランの忠誠)記念日」で空軍将校らに演説するハーメネイー。
- 対米政策について演説で語るハーメネイー。
最期(2026年2月28日)
2026年2月28日現地時間午前9時40分頃、ハーメネイーはイスラエル軍機が最高指導者事務所に対して行った空爆で死亡した(86歳没)[54]。この攻撃は、同日から開始されたイスラエル軍とアメリカ軍によるイラン攻撃における最初の空爆であった[55][3]。攻撃後、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は生死について明言こそ避けたものの、「ハーメネイーが既に死亡した多くの兆候」があると声明を出した[56]。また同日にアメリカのドナルド・トランプ大統領は、「歴史上で最も邪悪な人物の一人であるハーメネイーが死亡した」と自身のSNSTruth Socialに投稿した[57]。
イラン国営放送イラン・イスラム共和国放送は当初「最高指導者は堅固に戦いの指揮をとっている」としてハーメネイーの死を否定していたが[58]、トランプの投稿から約4時間後の現地時間3月1日早朝の放送において、ニュースキャスターが「(最高指導者は)甘美で純粋な殉教の杯を飲み、至高の天の王国へと旅立った」と涙ながらに語ることで、最高指導者の死亡の事実を認めた[59][60]。ニュースキャスターが読み上げた安全保障最高評議会の声明によれば、ハーメネイーは28日早朝に事務所において「業務を執り行っている最中」に殺害されたという[59]。40日間の服喪期間に入ることも発表された[59][60][61]。また、ハーメネイーの娘、娘婿、孫が攻撃で死亡したことも報じられた[61]。なおハーメネイーの妻も空爆で死亡したことが3月2日にイランのタスニム通信により報じられた[62]が、3月13日に「死亡は誤りで妻は生存している」と報じられている[63][64]。
3月1日のイスラエル軍の発表によれば、ハーメネイー関連施設(最高指導者事務所)において彼が高官と一緒に会議していたところを攻撃したという[65]。CNNの取材に対して情報筋は、イスラエル軍機は高精度弾薬と長距離ミサイルを装備しており、指導者らがいた3つの建物を同時攻撃したとしている[55]。アメリカの新聞『ウォール・ストリート・ジャーナル』によれば、その時、ハーメネイーはトンネルでつながった地下施設にいたものの、そこは米軍の爆弾でなければ貫通できないほどの最深部ではなかったという[65]。
アジーズ・ナシールザーデ国防軍需相、安全保障担当顧問アリ・シャムハニ、革命防衛隊司令官モハンマド・パクプールら、ハーメネイーの最側近らもその場におり、全員が死亡している。アメリカが軍事力を中東に結集させていて、いつ開戦してもおかしくないこの時期に、なぜわざわざ軍最高幹部たちを同じ場所に集めていたのかは不明である[55]。
BBCによれば、アメリカとイスラエルは何カ月も前から、ハーメネイーの動きを追っており、イラン高官が集まる好機をうかがっていたという。その具体的な方法は明らかにされていないが、トランプは「彼(ハーメネイー)は我々の情報活動と高度に洗練された追跡システムから逃れることはできなかった。米国とイスラエルが緊密に連携する中、彼や一緒に殺された他の指導者たちにできることは何もなかった。」と豪語している[66][67]。
ニューヨーク・タイムズの取材に対して作戦に詳しい関係者は、CIAがハーメネイー追跡から行動パターンを割り出し、2月28日朝にハーメネイー出席の会議があることを掴んだとしている[68]。一方ロイターの取材に対してアメリカ情報筋は、ハーメネイーの会議は当初2月28日夕方の開催予定だったが、イスラエル情報機関が同日朝に会議時刻を変更したことを察知したため、攻撃時間を早めたと説明している[65]。
イスラエル側はがれきの中から発見されたというハーメネイーの遺体の写真を入手、ネタニヤフ首相に報告された。遺体には破片が突き刺さっていたという[65]。同師は自らの所在が敵国に漏れぬよう、側近にも目隠しで移動させるほど秘匿を徹底していたものの、実際にはイラン体制中枢にまで張り巡らされたイスラエルの情報網により、ハーメネイーの所在は把握されていたと見られる[65]。
不在となった最高指導者の職務代行はイラン・イスラーム共和国憲法第111条に基づき、ペゼシュキヤーン大統領及びゴラームホセイン・モフセニー・エジェイー司法府長官、アリーレザー・アラーフィー専門家会議副議長の三者からなる暫定指導評議会が3月1日に発足し[69]、3月8日にハーメネイーの次男モジタバ・ハーメネイーが同国第3代最高指導者に選出されるまでの間その職務を一時的に代行した[70]。
ハーメネイーの葬儀は当初3月4日(現地時間)から3日間の予定でテヘランで行う予定であったが、イラン国営放送を通じて「葬儀に前例のない人波が予想され」たことを理由に葬儀の延期を通知した[71]。
死をめぐる反応
ハーメネイーの死について、イラン国民の反応は様々であり、悼む国民もいれば、祝う国民もおり、イラン社会の深い分断が露呈した[72]。
ペゼシュキヤーン大統領はハメネイの死を深く悼み、「イスラエルとアメリカに対する報復は我々の正当な権利であり義務だ」と声明を出した[73]。
革命後アメリカに亡命しているクロシュ・レザー・パフラヴィー元皇太子は、X(旧ツイッター)で「彼の死によって、イスラム共和国は事実上終わりを迎え、まもなく歴史のごみ箱へと葬られるだろう」と述べた[74]。
宗教独裁体制への反対運動を行っているイラン・レジスタンス国家評議会(NCRI)は、「ハーメネイーの死は宗教的独裁の死であり、ヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者による統治)体制の終焉である。今こそイラン国民の自由と主権を確立する時」とする声明を出した[75]。
ハーメネイーの死についての各国の反応も様々である。
攻撃の当事者となったイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は3月1日の演説の中で「昨日我々は暴君ハーメネイーを排除した」と述べた[76]。
同じく共同作戦を行ったアメリカのドナルド・トランプ大統領は2月28日にSNS上で「歴史上もっとも邪悪な人物の一人であるハーメネイーが死んだ。これはイラン国民への正義であるだけでなく、全ての偉大な米国民、世界中の多くの国々の人々にとっての正義であり、ハーメネイーとその血に飢えた凶悪犯集団によって殺傷された人々にとっての正義でもある」と述べた[77]。
フランス政府は「ハーメネイー師は自国民を抑圧した独裁者で、最近でも数千人の死に責任を負っている。ハーメネイー師の死には喜ぶことしかできない。」と表明[78]。
イギリス政府は「ハーメネイーの死を悼む者は誰もいないだろう。彼が何十年にもわたって率いてきた政権は悪の源だった。自国民を殺害し、英国を含む国外へのテロも輸出した」と表明[78]。
カナダ政府は「数十年にわたりイランと地域における強力な邪悪の力(force for evil)であった」とハーメネイーの生涯を総括した[79]。
オーストラリア政府は「彼が悼まれることはない。イランが国際平和を脅かし続けることを阻止するために行動する国々(アメリカ・イスラエル)を支持する」と表明[80]。
一方、中華人民共和国政府は「主権国家の指導者を公然と殺害し、政権交代を扇動することは国際法に反している」と批判、それに対してロシア政府も「ロシアと中国の立場は一致している」と表明した[81]。
ロイターとイプソスが実施した世論調査によると、アメリカ人の27%がハーメネイーへの攻撃を支持し、43%が不支持となっている[82]。モーニング・コンサルトの世論調査によると、登録有権者の41%がイランによる米国とその同盟国への脅威を防ぐために攻撃必要だったと回答し、42%が米国は攻撃せずにイランとの協議を継続すべきだったと回答している[83]。
イスラエルでは、ハーメネイーを殺害した攻撃について、国民の8割が支持している[84]。
人物
- ペルシア語、アラビア語、アゼルバイジャン語、トルコ語、ロシア語を話し、英語も理解する。ペルシア文学と伝統的な民族音楽を趣味とし、原稿の準備なしに長時間演説できる雄弁家である。
- 1981年6月、テヘランのモスクでの宗教説話を開いている時に反体制派による爆弾テロに遭遇して重傷を負った。その際の負傷が原因で右腕が不自由となり、声帯を損傷するなどの後遺症が残ったと伝えられる[85]。
- 弟のハーディは国会議員であり、改革派に所属。また、ハーメネ出身の改革派の政治家ミール・ホセイン・ムーサヴィーとは従兄弟の関係にある。
- 妻のマンスーレ・ホジャステ・バーゲルザーデはアリーが死亡した2日後の2026年3月2日、イランのタスニム通信によって同日死亡が確認されたと報じられたが、詳細は明かされていない[86]。
- 次男のモジタバは、公職には就いておらず公に姿を見せることはまれであるが、イランの情報・治安機関の重要人物とつながりがあり、ハーメネイー存命中から後継者の一人と目されていた[87]。世襲制の王政を倒して現体制ができたこともあり、ハーメネイー自身は世襲には否定的であったとされ[88]、2025年にイスラエルから攻撃を受けた際にハーメネイーが指名した3人の後継者候補に次男は含まれていなかった[89]。しかし2026年2月28日にハーメネイーが殺害されたことを受け、イラン専門家会議が執行する最高指導者選挙で後継に選出された[90]。イスラム革命防衛隊が後継者に推したとされている[91][92]。
- 妹の息子で、耳鼻咽喉科医師のマフムード・モラドハニは、父親が政教分離を主張して失脚したため留学のための旅券発行を拒否された。中東諸国を経由してフランスに亡命し、イスラム革命体制を批判していたが、マフムードの妹でイラン国内に留まるファリデはマフサ・アミニの死に端を発する抗議デモで2022年11月に拘束された[93]。
ハーメネイーと外国
日本

2019年6月14日にイランを訪問した日本の内閣総理大臣安倍晋三と最高指導者事務所にて会談。西側諸国を嫌うハーメネイーが、西側諸国の首脳と会談するのは、2016年4月にイランを訪問したイタリア首相マッテオ・レンツィ以来のことであった。また日本の首相がイランの最高指導者と会談することを許されたのも、ホメイニー期を含めてもこれが初めてのことである[94]。
しかし会談は不調で、安倍はトランプ米大統領から預かったメッセージをハーメネイーに伝えたが、ハーメネイーはイランの体制変更を求めないというトランプのメッセージを嘘だと断じたうえで、「トランプとメッセージを交換する価値はない。今も今後も返答することは何もない」と述べて返信を出すことを拒絶されて終わった[95]。
韓国
2018年にトランプ米政権がイラン核合意を破棄してイランへの経済制裁を再開し、イラン中央銀行も制裁対象になったことから、韓国政府は、中小企業銀行とウリィ銀行のイラン中央銀行名義の口座にあるイラン原油代金70億ドルを凍結した[96][97]。
以降原油代金支払いを求めるイランと拒否する韓国の関係は悪化していき、2021年10月に、ハーメネイーは、エブラーヒーム・ライースィー大統領に対し、すべての韓国製家電の輸入を禁止するよう命じている。その理由についてハーメネイーは「韓国企業2社の輸入再開は今まさに両足で立ち上がった国内家電企業の骨抜きにすることになる」と述べている。韓国企業2社の名前を特定はしてはいないが、イラン市場への進出が顕著なサムスン電子とLGエレクトロニクスの事だと思われる[98]。

