ビトヘシ

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ビトヘシ (満文ᠪᡳᡨᡥᡝᠰᡳ, 転写:bithe-si) は、清朝において官衙の文書記録を担当した下級[1]官吏で、[2]漢文では筆帖式 (拼音:bǐtiēshì) とも表記される。文書の抄写 (書き写すこと) と満洲語漢語翻訳を主要業務とした。[1]

正式な職名としての「筆帖式ビトヘシ」は、天聡5年 (1631) 旧暦7月の六部設置に合わせて、清太宗ホンタイジが従来の「巴克什バクシ」(baksi)[注 1]という呼称から一律に改称させた[4]ことにはじまるが、「筆帖式ビトヘシ」という呼称自体は『太祖高皇帝實錄』中に既にみられる。[5]

語源

遡ること元朝の時代 (1271-1368) には「ビチクチ」(bici-gci) と呼ばれる一種の書記官[6]が存在した。[7]蒙古語「bicig」は文字、転じて文書、書物などの意で、これに人を表す接尾辞「-ci」のついたのが「bici-gci」の語源であるとされる。[7]

満洲語「bithe-si」は蒙古語「bici-gci」の転訛とされ、[7]満洲語「bithe」が蒙古語「bicig」にあたり、即ち文字、転じて奏書 (臣下が天子に奉る文書) の意を表す。[8]この「bithe-si」の音訳語が漢文史料にみられる「筆帖式」である。

金啓孮 (愛新覚羅・烏拉熙春の父) 著『女真文辞典』(7-19) によれば、元朝から更に一つ遡った金朝の時代 (1115-1234) の女真語「bitxə-ʃï」は「吏」や「書記」の意味で、語中に含まれる「bitxə」は、蒙古語「bicig」や満洲語「bithe」と同様に文字や文の意を表すとされる。[9]また、金朝から更に遡ること北魏時代 (386-534) の、『南齊書』巻37「魏虜傳」にみえる「比德眞 (bitik-čin)」は「文書の吏」を指し、[10]やはり満洲語「bithe-si」などと同じ系統の語であるとされる。

性質

ビトヘシ就任は清朝満洲族にとって出世のための「登竜門」であった。[11]「科目」(科挙による登用)、「任子」(所謂「親の七光」)、「捐納」(金銭で購う官職)、「議敘」(人柄、能力などに対する評価) などは、官職への道として基本的に満洲族、漢族のどちらにも開かれていたが、ビトヘシは満洲族のみに開かれていた点で特異であった。[12]京師の八衙門 (の六部と理藩都察の二院)、盛京の五部 (礼・戸・工・刑・兵)、外省各署 (将軍や正副都統) などにはいづれもビトヘシの職位が設けられ、六部の主事などは定員140の内、満蒙で85を占めたため、ビトヘシになれば数年を待たずして主事に昇任することも可能であった。[12]

登用

『欽定大清會典』(乾隆29年) の巻5「銓政」[13]に、ビトヘシの銓衡 (選考) について以下の記載がみられる。

  • 試験では翻訳問題を一問課す。
  • 登用人数の定員は、満洲グサで各旗10人、蒙古旗・漢軍旗で各旗3人とする。
  • 18歳未満の者には入選資格は与えない。
  • 班次外の者は、欠員がでた時点で補欠され、それぞれの旗グサに応じ分班して詮衡する。
  • 俸禄は出身の品級に因り異なる。品級は、挙人または貢生 (の内の恩貢、抜貢、歳貢、副貢) の出身者を七品、生員または監生の出身者を八品、官学生または義学生、閑散および親軍、護軍、領催、庫使、驍騎の出身者を九品とする。[注 2]
  • 在京 (京師) 登用者は三年ごとに試験を受け、入選者は留任、落選者は免黜となる。学習能力のある者には三年後の再試が認められる。欠席者は処分の対象となるが、正当な理由のある者には追試を認める。
  • 盛京ムクデンの登用者は、盛京の兵部により現地旗人の中から詮衡される。答案は欽点大臣の採点後、皇上に呈上され、登録されて盛京の兵部に返送された後、順次補欠される。被登用者は三年ごとに試験を受ける。その留任免黜、再試資格、追試資格については在京登用者に同じ。
  • 陵寝 (陵廟) 筆帖式および各省の督撫、駐防[14]、城守尉などの衙門の筆帖式は、京師から補填され、期限を六年とする。期間満了後、それぞれの赴任先で注考 (評価) を受け、京師の定員として各部で補欠される。

脚註

参照

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