ビトヘシ
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遡ること元朝の時代 (1271-1368) には「ビチクチ」(bici-gci) と呼ばれる一種の書記官[6]が存在した。[7]蒙古語「bicig」は文字、転じて文書、書物などの意で、これに人を表す接尾辞「-ci」のついたのが「bici-gci」の語源であるとされる。[7]
満洲語「bithe-si」は蒙古語「bici-gci」の転訛とされ、[7]満洲語「bithe」が蒙古語「bicig」にあたり、即ち文字、転じて奏書 (臣下が天子に奉る文書) の意を表す。[8]この「bithe-si」の音訳語が漢文史料にみられる「筆帖式」である。
金啓孮 (愛新覚羅・烏拉熙春の父) 著『女真文辞典』(7-19) によれば、元朝から更に一つ遡った金朝の時代 (1115-1234) の女真語「bitxə-ʃï」は「吏」や「書記」の意味で、語中に含まれる「bitxə」は、蒙古語「bicig」や満洲語「bithe」と同様に文字や文の意を表すとされる。[9]また、金朝から更に遡ること北魏時代 (386-534) の、『南齊書』巻37「魏虜傳」にみえる「比德眞 (bitik-čin)」は「文書の吏」を指し、[10]やはり満洲語「bithe-si」などと同じ系統の語であるとされる。
性質
ビトヘシ就任は清朝満洲族にとって出世のための「登竜門」であった。[11]「科目」(科挙による登用)、「任子」(所謂「親の七光」)、「捐納」(金銭で購う官職)、「議敘」(人柄、能力などに対する評価) などは、官職への道として基本的に満洲族、漢族のどちらにも開かれていたが、ビトヘシは満洲族のみに開かれていた点で特異であった。[12]京師の八衙門 (吏・戸・礼・兵・刑・工の六部と理藩・都察の二院)、盛京の五部 (礼・戸・工・刑・兵)、外省各署 (将軍や正副都統) などにはいづれもビトヘシの職位が設けられ、六部の主事などは定員140の内、満蒙で85を占めたため、ビトヘシになれば数年を待たずして主事に昇任することも可能であった。[12]