ミラノの支配者一覧

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ミラノの支配者一覧(ミラノのしはいしゃいちらん)とは、以下に記されている13世紀から1859年までの、イタリアミラノの支配者の一覧である。

ミラノ領主

デッラ・トッレ家イタリア語版英語版(トッリアーニとしても知られている)とヴィスコンティ家による支配。

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領主 紋章 在位 結婚
子女
備考
パガーノ1世・デッラ・トッレイタリア語版
? - 1241年
1197年 - 1241年
パガーノ2世・デッラ・トッレイタリア語版
? - 1266年
1247年 - 1257年 パガーノ1世の息子
マンフレーディ・ランチア英語版
1190年頃 - 1257年頃
1253年1月1日 - 1256年 ミラノの執政長官
マルティーノ・デッラ・トッレ英語版
? - 1263年
1257年 - 1259年 パオロ・ソレジーナの姉妹 パガーノ1世の甥
オベルト・ペラヴィチーノ英語版
1197年 - 1269年
1259年 - 1264年 ベアトリーチェ・デッラ・ゲラルデスカ・ディ・ピサ
子女なし
ソフィーア・ディ・エンリーコ・ダ・エーニャ
5子
フィリッポ・デッラ・トッレイタリア語版
? - 1265年
1263年 - 1265年 (1) ダ・ニグアルダ家の娘
1女
(2) ビラーゴ家の娘
1男
マルティーノの弟
ナポレオーネ・デッラ・トッレ英語版
? - 1278年
1265年 - 1277年 マルゲリータ・デル・バルツォ
5子
パガーノ1世の息子
オッドーネ・ヴィスコンティ英語版
1207年 - 1295年
1277年 - 1294年 未婚 ミラノ大司教(1262年 - 1295年)
マッテーオ1世・ヴィスコンティ英語版
1207年 - 1295年
1294年 - 1302年 ボナコッサ・ボッリ英語版
多数の子女
オッドーネの大甥
グイード・デッラ・トッレ英語版
1259年 - 1312年
1302年 - 1311年 ベアトリーチェ・グイディ
8子
ブルニッセンダ・ランゴスコ
1子
ナポレオーネの甥
マッテーオ1世・ヴィスコンティ英語版
1207年 - 1295年
1311年 - 1322年 ボナコッサ・ボッリ英語版
多数の子女
復位
ガレアッツォ1世・ヴィスコンティ
1277年 - 1327年
1322年 - 1327年 ベアトリーチェ・デステ英語版
2子
マッテーオ1世の息子
アッツォーネ・ヴィスコンティ
1302年 - 1339年
1329年 - 1339年 カテリーナ・ディ・サヴォイア=ヴォー
2子
ガレアッツォ1世の息子
ルキーノ・ヴィスコンティ
1287年頃 - 1349年
1339年 - 1349年 ヴィオランテ・ディ・サルッツォイタリア語版
カタリーナ・スピーノライタリア語版
イザベッラ・フィエスキ
3子
マッテーオ1世の息子、ガレアッツォ1世の弟
ジョヴァンニ・ヴィスコンティ
1319年頃 - 1355年
1349年 - 1354年 未婚 マッテーオ1世の息子、ルキーノの弟。ミラノ大司教(1342年 - 1354年)。
マッテーオ2世・ヴィスコンティ
1319年頃 - 1355年
1349年 - 1355年 エジディオーラ・ディ・フィリッピーノ・ゴンザーガ英語版
2子
ガレアッツォ1世、ルキーノおよびジョヴァンニの甥
ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ
1321年 - 1378年
1349年 - 1378年 ビアンカ・ディ・サヴォイア
3子
ガレアッツォ1世、ルキーノおよびジョヴァンニの甥
マッテーオ2世の弟
ベルナボ・ヴィスコンティ
1323年 - 1385年
1349年 - 1385年 レジーナ・デッラ・スカラ
15子
ガレアッツォ1世、ルキーノおよびジョヴァンニの甥
マッテーオ2世およびガレアッツォ2世の弟
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
1351年 - 1402年
1378年 - 1395年 (1) イザベル・ド・フランス
6子
(2) カテリーナ・ヴィスコンティ
3子
ガレアッツォ2世の息子
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ミラノ公(1395年 - 1535年)

ヴィスコンティ家

1395年、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは、ドイツ王ヴェンツェルによってミラノ公の称号を与えられたが[1]、その称号は10万フローリン前後でヴェンツェルが売却したものであった[2]。それ以来、ミラノの歴代の支配者は皆、公爵の称号を名乗るようになった。

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領主 紋章 在位 結婚
子女
備考
ジャン・ガレアッツォ
1351年 - 1402年
(50歳没)
1395年9月5日 - 1402年9月3日 (1) イザベル・ド・フランス
(1360年結婚・1372年没)
6子
(2) カテリーナ・ヴィスコンティ
(1380年結婚・1402年死別)
2子
庶子2人
ガレアッツォ2世・ヴィスコンティの息子
ドイツ王ヴェンツェルからミラノ公位を購入
ジョヴァンニ・マリーア
(1388年結婚・1412年没)
(23歳没)
1402年9月3日 - 1412年5月16日 アントーニア・マラテスタ英語版
(1408年結婚・1412年死別)
子女なし
ジャン・ガレアッツォの息子。暗殺された。
フィリッポ・マリーア
1392年 - 1447年
(54歳没)
1412年5月16日 - 1447年8月13日 (1) ベアトリーチェ・カーネ
(1412年結婚・1418年離婚)
子女なし

(2) マリーア・ディ・サヴォイア英語版
(1428年結婚・1447年死別)
子女なし
庶子1人
ジョヴァンニ・マリーアの弟
1447年 - 1450年 アンブロジアーナ黄金共和国英語版
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スフォルツァ家(1度目)

1447年にフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが死去すると、ヴィスコンティ家の本家は断絶した。政治的混乱に乗じて、裕福な市民、学者、聖職者からなる陰謀団が公国の解体を宣言し、寡頭制のアンブロジアーナ黄金共和国英語版を宣言した[3]。この共和国は承認されることはなく、近隣のヴェネツィアとサヴォイアはロンバルディアとフランスで領土を拡大しようとした。国家の弱体化と再燃した教皇派と皇帝派の対立に乗じて、ミラノ軍の最高司令官フランチェスコ・スフォルツァは1448年にミラノからヴェネツィアに寝返り[4]、2年後、何度か寝返りと巧妙な策略を経て、フランチェスコ・スフォルツァは受胎告知の際にヴェネツィアに入城した。その後、フランチェスコ・スフォルツァは市議会によってミラノ公爵に任命された[5]。その根拠として、フィリッポ・マリアの庶子であるビアンカ・マリーア・ヴィスコンティとの結婚が挙げられた。

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領主 紋章 在位 結婚
子女
備考
フランチェスコ1世
1401年 - 1466年
(64歳没)
1450年3月25日 - 1466年3月8日 (1) ポリッセナ・ルッフォ英語版
(1418年結婚・1420年没)
1女
(早世)

(2) ジャコポ・カルドーラ英語版の娘
(1424年結婚・142?年離婚)
子女なし

(3) ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
(1441年結婚・1466年死別)
8子
ジョヴァンナ・ダックアペンデンテ英語版
庶子7人
(2人早世)
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの義理の息子
ガレアッツォ・マリーア
1444年 - 1476年
(32歳没)
1466年3月8日 - 1476年12月26日 ボナ・ディ・サヴォイア
(1468年結婚・1503年死別)
4子
ルクレーツィア・ランドリアーニ
庶子4人

ルチア・マルリアーニ
庶子2人
フランチェスコ1世の息子
ジャン・ガレアッツォ
1469年 - 1494年
(25歳没)
1476年12月26日 - 1494年10月21日 イザベッラ・ダラゴーナ
(1489年結婚・1494年死別)
3子
ガレアッツォ・マリーアの息子
ルドヴィーコ
1452年 - 1508年
(55歳没)
1494年10月21日 - 1499年9月17日 ベアトリーチェ・デステ
(1491年結婚・1499年没)
2子
ベルナルディーナ・デ・コッラーディス
2子

チェチーリア・ガッレラーニ
1人

ルクレツィア・クリヴェッリ英語版
2人
フランチェスコ1世の息子。
1500年2月に捕らえられ[6]、1508年に獄中で亡くなった。
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ヴァロワ=オルレアン家(1度目)

1494年、ルドヴィーコ・スフォルツァは甥のジャン・ガレアッツォを毒殺したとみられ、ミラノ公国の王位を簒奪した。ヴェネツィアの脅威を受けて、ルドヴィーコ・スフォルツァはフランス王シャルル8世にイタリア侵攻を要請し[7]、第一次イタリア戦争が始まった。1495年にルドヴィーコ・スフォルツァが裏切り、ヴェネツィア同盟と同盟を結んだ後、フランス軍はフォルノーヴォの戦いで敗北し、イタリアでの勢力拡大が不可能となった。シャルル8世の最高司令官であり従兄弟でもあるオルレアン公ルイ2世(後のルイ12世)は屈辱を受け、ルドヴィコ・スフォルツァに対する個人的な憎しみから[8]、ヴァレンティーナ・ヴィスコンティの子孫であることとジャン・ガレアッツォの遺言を盾に、ミラノ公国を自らのものにしようと主張し始めた。1499年にルイ12世がフランス王位に就くと、ミラノとナポリを征服するために第二次イタリア戦争を開始した。フランス軍がパヴィア近郊に迫る中、ルドヴィーコとその忠臣たちは1499年9月17日にミラノを離れ、ドイツへ逃亡した[9]。これによりルイ12世はミラノ唯一の公爵となり、1499年10月6日にミラノに入城した[10]

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子女
備考
ルイージ12世
(Luigi XII)

1462年 - 1515年
(52歳没)
1499年10月6日 - 1512年6月20日 (1) ジャンヌ・ド・フランス
(1476年結婚・1498年離婚)
子女なし

(2) アンヌ・ド・ブルターニュ
(1499年結婚・1514年没)
2女

(3) メアリー・テューダー
(1514年結婚・1515年死別)
子女なし
フランス王ルイ12世
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの曽孫
ジャン・ガレアッツォの遺言による正当な相続人
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スフォルツァ家(2度目)

ルドヴィーコの息子マッシミリアーノは、スイス軍がミラノに入城してから6か月後の1513年1月にようやく公位を取り戻した。

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子女
備考
マッシミリアーノ
1493年 - 1530年
(37歳没)
1512年6月20日 - 1515年10月5日 未婚 ルドヴィーコの息子。
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スイス軍は1515年のマリニャーノの戦いで敗北した後にミラノから撤退し、マッシミリアーノは帰還したフランス軍によって投獄された。マッシミリアーノは3万ドゥカートの金銭と引き換えにミラノに対する権利を放棄し、フランスに留まり続けた[11]

ヴァロワ=オルレアン家(2度目)

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領主 紋章 在位 結婚
子女
備考
フランチェスコ1世
(Francesco I)

1494年 - 1547年
(52歳没)
1515年10月5日 - 1521年11月20日 (1) クロード・ド・フランス
(1514年結婚・1524年没)
7子

(2) レオノール・デ・アウストリア
(1530年結婚・1547年死別)
子女なし
フランス王フランソワ1世
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの玄孫
ジャン・ガレアッツォの遺言による正当な相続人。
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スフォルツァ家(3度目)

1521年11月までに、フランスの状況は著しく悪化した。神聖ローマ皇帝カール5世イングランド王ヘンリー8世、教皇レオ10世は11月28日にフランソワ1世に対する同盟を結んだ[12]。フランスのミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワは、皇帝軍と教皇軍に抵抗する任務を負ったが、プロスペロ・コロンナに圧倒され、11月下旬にはミラノから追い出され、アッダ川周辺の町々に撤退した[13]。スフォルツァ家は3度目にして最後の権力復帰を果たした。

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子女
備考
フランチェスコ2世
1495年 - 1535年
(40歳没)
1522年4月4日 - 1535年10月24日 クリスティナ・ア・オレンボー
(1534年結婚・1535年死別)
子女なし
ルドヴィーコの息子、マッシミリアーノの弟。
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1535年、後継者のいないフランチェスコ2世・スフォルツァの死後、神聖ローマ皇帝カール5世は、フランスやスフォルツァ家の傍系による領有権主張を避けるため、公国を空位の帝国領として併合した。

スペイン支配(1540年 - 1706年)

スペイン=ハプスブルク家

1540年、ミラノ公国は密かに神聖ローマ皇帝カール5世の息子であるアストゥリアス公フェリペに贈与された。これは1555年のカール5世の退位によって正式に認められた。1556年、フェリペはスペイン王フェリペ2世となり、ミラノはスペイン王国との同君連合に入った。

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領主 紋章 在位 結婚
子女
備考
フィリッポ1世
(Filippo I)

1527年 - 1598年
(71歳没)
1540年10月11日 - 1598年9月13日 (1) マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル
(1543年結婚・1545年没)
1子

(2) イングランド女王メアリー1世 (イングランド女王)
(1554年結婚・1558年没)
子女なし

(3) エリザベート・ド・ヴァロワ
(1559年結婚・1568年没)
2子

(4) アンナ・フォン・エスターライヒ
(1570年結婚・1580年没)
5子
(1子が成人)
フランチェスコ2世の死後、神聖ローマ皇帝カール5世が帝国の封建領地であると息子のために主張した。
フィリッポ2世
(Filippo II)

1578年 - 1621年
(42歳没)
1598年9月13日 - 1621年3月31日 マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
(1599年結婚・1611年没)
8子
(5子が成人)
フィリッポ1世の息子
フィリッポ3世
(Filippo III)

1605年 - 1665年
(60歳没)
1621年3月31日 - 1665年9月17日 (1) エリザベート・ド・ブルボン
(1615年結婚・1644年没)
8子
(2子が成人)

(2) マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
(1649年結婚・1665年死別)
5子
(2子が成人)
マリア・カルデロン英語版
1子
フィリッポ2世の息子
カルロ1世
(Carlo I)]]

1661年 - 1700年
(38歳没)
1665年9月17日 - 1700年11月1日 (1) マリー・ルイーズ・ドルレアン
(1679年結婚・1689年没)
子女なし

(2) マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク
(1690年結婚・1700年死別)
子女なし
フィリッポ3世の息子
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ブルボン=アンジュー家

1700年9月、カルロ1世は病に倒れ、9月28日には食事が摂れなくなり、ポルトカレッロはカルロ1世を説得して遺言を変更させ、フランス王ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップに有利な遺言を書かせた[14]。1700年11月1日にカルロ1世が亡くなると、王位はフィリップに譲られ、フィリップは1700年11月16日にスペイン王に即位した(フェリペ5世)。これはイギリスやネーデルラント連邦共和国などによって承認された。領土の分割や通商権をめぐる争いが、1701年のスペイン継承戦争につながった[15]

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子女
備考
フィリッポ5世
(Filippo V)

1683年 - 1746年
(62歳没)
1700年11月1日 - 1714年3月7日 (1) マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア
(1701年結婚・1714年没)
4子
(2子が成人)

(2) エリザベッタ・ファルネーゼ
(1714年結婚・1746年死別)
6子
カルロ1世の正統な後継者、カルロ1世の大甥。
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オーストリア支配(1706年 - 1796年)

ハプスブルク家

1714年のラシュタット条約の後、神聖ローマ皇帝カール6世は正式にミラノ公国を獲得した。この領地はオーストリアの南の国境の安全保障にとって極めて重要だと考えられていた[16]。この時から、ミラノはオーストリア=ハプスブルク家の恒久的な領地となった。

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子女
備考
カルロ2世
(Carlo II)

1685年 - 1740年
(55歳没)
1714年3月7日 - 1740年10月20日 エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク
(1708年結婚・1740年死別)
4子
(3子が成人)
フィリッポ2世の曾孫
ラシュタット条約(1714年)により公国を獲得
マリーア・テレーザ
(Maria Teresa)

1717年 - 1780年
(63歳没)
1740年10月20日 - 1780年11月29日 フランツ1世
(1736年結婚・1765年死別)
15子
(10子が成人)
カルロ2世の娘
国事詔書 (1713年)による継承)
ジュゼッペ1世
(Giuseppe I)

1741年 - 1790年
(48歳没)
1780年11月29日 - 1790年2月20日 (1) イザベッラ・ディ・ボルボーネ=パルマ
(1760年結婚・1763年没)
2子
(いずれも早世)

(2) マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン
(1765年結婚・1767年没)
子女なし
マリーア・テレーザの息子
レオポルド1世
(Leopoldo I)

1747年 - 1792年
(44歳没)
1790年2月20日 - 1792年3月1日 マリーア・ルイサ・デ・エスパーニャ
(1765年結婚・1792年死別)
16子
(14子が成人)
ジュゼッペ1世の弟
フランチェスコ2世
(Francesco II)

1768年 - 1835年
(67歳没)
1792年3月1日 - 1796年5月15日 (1) エリーザベト・フォン・ヴュルテンベルク
(1788年結婚・1790年没)
1子
(早世)

(2) マリーア・テレーザ・ディ・ナポリ=シチリア
(1790年結婚・1807年没)
11子
(7子が成人)

(3) マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ
(1808年結婚・1816年没)
子女なし

(4) カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン
(1816年結婚・1835年死別)
子女なし
レオポルド1世の息子
空位時代 (1796年 - 1814年)フランス革命戦争およびナポレオン戦争
1796年 - 1797年 トランスパダーナ共和国
1797年 - 1799年 チザルピーナ共和国
1799年 - 1800年 オーストリア支配(フランチェスコ2世の復位)
1800年 臨時政府委員会
1800年 特別政府委員会
1800年 - 1802年 特別政府委員会の執行委員会
1802年 - 1805年 イタリア共和国(大統領:ナポレオン・ボナパルト
1805年 - 1814年 イタリア王国(イタリア王:ナポレオーネ
フォンテーヌブロー条約 (1814年)
フランチェスコ2世
(Francesco II)

1768年 - 1835年
(67歳没)
1814年4月11日 - 1815年4月7日 (1) エリーザベト・フォン・ヴュルテンベルク
(1788年結婚・1790年没)
1子
(早世)

(2) マリーア・テレーザ・ディ・ナポリ=シチリア
(1790年結婚・1807年没)
11子
(7子が成人)

(3) マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ
(1808年結婚・1816年没)
子女なし

(4) カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン
(1816年結婚・1835年死別)
子女なし
復位
1815年 - 1859年 ロンバルド=ヴェネト王国ウィーン会議による)
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脚注

参考文献

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