モンケ
モンゴル帝国4代皇帝
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
生まれ
オゴデイ・カアンのヨーロッパ遠征に従軍
1235年のクリルタイにおいて、ヴォルガ川西方の諸国を征服するために進軍する計画が決議された[1]。この会議が終わって散会すると、この遠征に参加する諸王侯はその準備をするためにそれぞれの領地へ帰った[1]。この遠征軍では帝室の四大王家から兵士がそれぞれ提供された[1]。まずジョチ家からはジョチの次男バトゥ、長男オルダ、五男シバン、六男タングト、チャガタイ家からはチャガタイの六男バイダル、長男モエトゥケンの次男ブリ、オゴデイ家からはオゴデイの長男グユク、六男カダアン・オグル、義弟のコルゲン、トルイ家からはトルイの長男モンケ、七男ボチュクら各王侯が指揮にあたり、総司令官は最長老であるバトゥが任命された[1]。バトゥの副官には歴戦の将スブタイが任命された[1]。
1236年春、諸王侯はぞれぞれの幕営を出発し、軍隊を率いてブルガル人の地方の国境上に定められた全軍の集合地へ赴いた[2]。早速、将軍スブタイが一部隊を率いてヴォルガ・ブルガールの首都ブルガル市を掠奪すると、ブルガル人の首領たちはすぐに降伏した[2]。
翌年(1237年)、続いて遠征軍はキプチャク人を攻撃した。キプチャク人の一部は滅ぼされ、一部は移動し、その他はモンゴル軍に降伏した[2]。キプチャクの首領の一人であるバチュマンはしぶとく抵抗し、ヴォルガ河畔の森の中に隠れ、絶えずその避難地を変えていた[2]。これに対し、モンケとボチュクはこの森を包囲することにし、森の中を走り回って野営の跡を見つけ、その地に捨てられた病気の老婦からバチュマンがヴォルガ川の川中島に退却したことを知った[3]。モンゴル軍は浅瀬を徒歩でこの島に渡り、キプチャク人を奇襲して粉砕した[3]。バチュマンはモンケの面前に引き出され、自決する許可を乞うたが、モンケは弟のボチュクに命じて身体の一部から切断させた[3]。

このほかの民族(ブルタス人、モルドヴァ人、チェルケス人、サクスィーン人)もモンゴルによって征服され、カスピ海とカフカス地方を手中に収めたので、諸王侯はクリルタイを開いてルーシ侵略のことを決議した[3]。
1237年12月、モンゴル軍はまずウラジーミル・スーズダリ大公国を攻め、リャザン市とコロムナ市、モスクワ市を陥落させた[4]。1238年2月、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラディーミルに降伏勧告をする一方、スーズダリを陥落させてその住民を虐殺し、一部を捕虜とした[5]。両軍が合流すると、ウラディーミルに突撃して陥落させ、住民を虐殺したうえで火を放った[6]。続いてペレヤスラブリ、ドミトロフ、トヴェリ、カシン、ヴォーロク、クスニャティンの都市を掠奪し、シティ河畔に逃げていた大公ユーリー2世を攻撃して戦死させた[6]。
続いてモンゴル軍はノヴゴロド公国を攻めずカフカスに戻り、チェルケス人、クリム人、キプチャク人を征服し、1238年冬にはマンガスを、1239年春にはデルベンド地方を征服した[7]。
そんな中の1239年秋、グユクとモンケはオゴデイ・カアンから帰還命令があったため遠征からモンゴル高原へ戻ったが、その時すでにオゴデイは崩御していた[7]。
2回の皇帝選挙クリルタイ

1241年のオゴデイの死後はそのカアトゥン(皇后)ドレゲネの監国を経て、1246年にグユクが第3代皇帝に選出されたが、1248年に崩御した[8][注釈 2]。グユクが崩御すると、慣例通りに警戒網を敷いて帝位が空白となったことを帝国の主要な首領たちに報告される前に交通を遮断し、旅行者を足止めするかたわら、急使がトルイの正妃ソルコクタニ・ベキとバトゥのもとへ派遣された[10]。アラ・カマク山にいたバトゥはまず慣習に従い、摂政の任務をグユクの后妃の中で位階第一位であるオグルガイミシュに与えると、その場でクリルタイを招集した[10]。オゴデイ家の諸王侯はそこへ行くことを拒絶し、皇帝選挙はモンゴリアで開催されるべきであると反論したうえでカラコルムの知事テムル・ノヤンを代わりに出席させた[10]。会議ではオゴデイ家とジョチ家、トルイ家とで意見が分かれ、オゴデイ家派であるジャライル部の将軍イルチギデイは前回の選挙でオゴデイの子孫がいる限り皇帝権はオゴデイの子孫にあるとする一方、ジョチ・トルイ家派であるクビライはヤサを無視し、裁判を行わないでアルタルンを死刑にしたこと、オゴデイの意志であったシレムンを即位させずにグユクを即位させたことを議題に出し、オゴデイ家を敵視していたバトゥはソルコクタニ妃と連携してその長男であるモンケを推挙した[11]。チンギス・カンの末子相続によりトルイに軍隊の大部分が継承されたことが優位にはたらき、トルイの死後にそのウルスをまとめ上げ、多数の部族を統制し、人望も厚かったソルコクタニ妃の功績も大きく、ゆえにジョチ家のバトゥも彼女を尊敬していたためトルイ家になびいたのである[12]。
将軍のモンケセルはモンケを最初に帝位につかせようと提案した人物で、モンケが父トルイに従って中国において戦い、バトゥのもとで西方で戦った輝かしい功績を挙げて推薦したが、諸王侯は最長老であるバトゥをまず推挙した[13]。しかし、バトゥはこれを辞退したため、諸王侯はバトゥが指名する人物を皇帝にすることに同意した[13]。そこでバトゥが推挙したのがモンケであり、バトゥはチンギス・カンのヤサに精通している者でなければならないとし、モンケを指名した[13]。しかし、モンケもまたこれを辞退し、会議は数日間も長引いた[13]。そこでモンケの弟のモゲは「われわれは皆バトゥの判断に従うことを約束した。それにモンケが身勝手に従わないのならば、他の者も将来同様の例を利用するかもしれない」と言い、モンケはそれに心を打たれてようやく受諾した[13]。一同は慣例に従って新皇帝となる人物に敬礼し、バトゥは彼に杯を捧げた[13]。
クリルタイは翌年(1249年)春にも開催され、今度はオノン川、ケルレン川に近いチンギス・カンの旧直轄地において行われた[13]。この会議では諸王侯と軍の首領たち全体にモンケを承認させ、それまでの間はオグルガイミシュに摂政の任を継続してもらうよう布告した[13]。この頃のオグルガイミシュはその息子ホージャ・オグルとナグとで摂政業務を分担していたが、その仕事は各州に対する約束手形を振り出してあらかじめ国庫の歳入を処分することだけであった[13]。さらにオグルガイミシュはカム(巫術師)による妖術にハマり、室内にこもりきりで帝国は無政府状態となっていた[13]。ホージャ・オグルとナグはオゴデイ家の代表としてクリルタイに出席し、モンケの選挙に同意したテムル・ノヤンを非難するとともに、バトゥに書をしたため、チンギス・カンの郷土から離れた場所でクリルタイを開催したこと、不完全な状態で決定したことに同意できないと伝えた[14]。対してバトゥは新たなクリルタイに参加するよう勧めるとともに、参集した諸王侯は新皇帝に最もふさわしい人物を選択したのであり、この決定は撤回できないことを伝えた[14]。その後も何度も両者間で使者のやり取りがあったものの、何の進展がなかったため、バトゥは弟ベルケとトカ・テムルに多数の軍隊を率いさせてモンケに随行させ、ケルレン河畔まで赴かせた[14]。しかし、この会議にオゴデイ家とチャガタイ家は出席せず、モンケの選挙は不当であり、帝位はオゴデイ家にあるとした[14]。ベルケは1年の猶予をしたのち、バトゥに命令を仰ぐと、バトゥはもはや遅滞することはくモンケを即位させるよう命じ、国家を乱す者はその首を犠牲にすることになるだろうと明言した[15]。
モンケの即位

ジョチ家、トルイ家、ジョチ・カサル家、カチウン家、オッチギン家らはクイトン・オラの地に参集し、オゴデイ家、チャガタイ家に最後通告を行った[15]。このときオゴデイ家のシレムン、ホージャ・オグル、ナグは来会することを約束したが、期日になっても来なかったので、ついに占星学者に即位日を指定させ、1251年7月1日[注釈 3]に即位式が決行されると、モンケは第4代の皇帝(カアン)に即位した[15]。時にモンケは43歳であった[14]。諸王侯がその帯を肩に投げかけ、9回膝を曲げて敬礼した瞬間に皇帝の天幕の周りに整列していた1万の将士もこれにならった[14]。モンケは最初の命令として、この日は労働や喧嘩をやめ、歓楽にふけるようにし、馬に乗ることも、駄獣に荷物を積むこと、動物を殺すこと、狩猟すること、魚を捕ること、地面を掘ること、水を汚すことを禁止した[17]。翌日モンケは豪華な毛氈を張り巡らした壮麗な天幕の中で盛大な宴を催し、玉座の右には皇族の諸王侯が、左には王妃たちがそれぞれ着座し、モンケの兄弟7人はその前に立ち、将軍とノヤンたちはモンケセルを筆頭に整列し、文官、書記、代官、侍従らはその主席のボルガイ・アカを先頭に式部官の指定した席を占め、天幕の外には将校と兵士たちが武装をして列席していた[18]。この宴は1週間にわたって続けられ、クリルタイの参加者は毎日色違いの衣服を身に着け、牛馬300頭、羊3000頭、葡萄酒とクミーズ2000車の分量が消費された[18]。
この宴会中にオゴデイ家のシレムン、ナグ、クトクの命令で、クリルタイを妨害する動きがあったため、モンケセルは軍隊を率いてその者たち20人以上を捕らえ、その首謀者である3人の王侯をモンケ自らが審問した[19]。3人の王侯が否認したので、続いてシレムンの後見人を棒で打って拷問すると、自白したが間もなく自害した[19]。モンケは3人の王侯の処分に迷い、優柔不断のあまり、左右の者たちにその処遇の意見を聞いた[19]。大官たちの意見はどれもモンケの心に感銘を与えるものはなかったが、一人マフムード・ヤラワーチュがアレクサンドロス大王の故事を引用して意見を述べると、たちまちモンケは心を打たたれて拘留している77人の将校たちを処刑することができた[20]。のちにそれに関与していたペルシアの司令官で将軍のイルチギデイはホラーサーンのバードギース地区で逮捕され、バトゥによって処刑された[20]。
モンケの初政
モンケは即位すると、主要な大臣と、広大な帝国各地における皇帝の代官(ダルガ)を任命した[21]。モンケセルを最高断事官(大ジャルグチ)に、ネストリウス派のボルガイ・アカを書記の長官(大ビチクチ)、財政内務の長官に任命し、書記局は数個の事務所に分けられ、ペルシア人、ウイグル人、キタイ(中国)人、チベット人、タングート人の書記より構成され、これらの異民族地方との通信にあたった[21]。ジョチ・カサルの子コンクルをカラコルムの知事に、その副官にはアラムダルを任命した[21]。弟のクビライをゴビ砂漠南方の領土の総督に任命し、チャガンを中国東南の淮水境界の中国軍の司令官に、ダイタルを四川の司令官に、コリタイをチベットの司令官に、仏教僧侶の海雲を中国における仏教長官に、道士の李志常を道教長官に、チベットのラマであるナーモ(那摩)を帝国全体の仏教長官(国師)に、マフムード・ヤラワーチュを中国におけるモンゴル領土(燕京等処行尚書省)の総督に、その子のマスウード・ベクをイルティシュ川とジャイフーン(アム)川の間に位置する地方(別失八里等処行尚書省)の総督に、アルグン・アカをペルシア(阿母河等処行尚書省)総督に任命した[22]。
モンケの税制
ペルシア総督のアルグン・アカはこれまでの皇族の諸王侯がペルシアでの歳入を担保としておびただしい約束手形を振り出したために、ペルシアの財政が困難な状況に陥ったことをモンケに説明した[23]。租税はきわめて無法に増加しており、その結果耕作者はその収穫物全部を捧げても完納できないほどであった[23]。モンケはペルシア各地の代官に命じ、その管轄する州の幣制の現状とその矯正策を記して提出させた[23]。彼らの結論はペルシアでもマフムード・ヤラワーチュがトランスオクシアナで制定した徴税法を採用するのが良いというものであった[23]。この徴税法は納税者の資金力に応じて人頭税を徴収するものであり、1年に1回これを支払い、その他の租税を免除するものであった[23]。この提議は承認され、ペルシアにおいては人頭税の最高額は7ディーナール、最低額は1ディーナールと定められ、中国とトランスオクシアナにおいては最も貧乏な者は1ディーナール、最も富裕な者は10ディーナールを課税された[23]。この租税の収入は民兵、駅馬、皇帝使節の費用に充てるよう命ぜられ、いかなる場合でも臣民を搾取することは厳禁された[23]。家畜税はクプチュルと呼ばれ、各種の動物100頭につき1頭と定められ、所有者が100頭以下の者は免除された[23]。モンケはチンギス・カン、オゴデイ・カアンの命令を追認し、聖職者、自力で生計を得ることのできない老人は免税されたが、ユダヤ教徒のみは対象外だった[24]。モンケは租税の滞納を厳しく取り立てることも禁止し、宝物庫を満たすことより、人民をいたわることを重要視し、オグルガイミシュと皇族の諸王侯がその奉公人に数多くの免税特許状を交付していたので、モンケはチンギス・カンの他界以後に交付されたすべての免税特許状を取り消す命令を下し、帝室のいかなる王侯も地方長官との話し合いなしにその地方で命令を発することを禁じた[24]。また、使者、使節たちが私人の馬匹を徴発したり、各駅で14頭以上の駅馬を取り上げたり、旅行中に規定以上の給養を強要したり、その経路に当たらない都市村落を通り抜けたりすることも禁じた[24]。
ソルコクタニ皇太后の死
1252年2月、モンケの母ソルコクタニ皇太后が薨去した[25]。ソルコクタニはケレイト部族の出身でネストリウス派キリスト教徒であったが、イスラム教にも好意を示し、彼らに対して惜しげもなく金銭を施した[25]。例えばブハーラーにイスラム教の学院(マドラサ)を建設するために1000銀バーリシュを下賜し、これに莫大な土地を寄進した[25]。このマドラサはハーニーと呼ばれ、千人の学生がここに出入りしていた[25]。生前オゴデイ・カアンはこの王妃に絶大なる敬意を示し、重要な事件があるごとに彼女に相談し、その使節に対して最も丁重に礼遇した[25]。オゴデイがソルコクタニにグユクと再婚するよう求めたが、彼女は子供の教育に全力を傾けねばならないからと断った[25]。晩年は四男のアリクブケとともにアルタイ山脈付近の地方に住んでおり、死後はチンギス・カンと夫であるトルイの墳墓の傍らに埋葬された[25]。モンケは父トルイに廟号「睿宗」を追贈した[25]。
オグルガイミシュを処刑

1252年8月、モンケはカラコルムに赴き、モンケ即位に反対していた諸王侯の処分を決定した[26]。その筆頭でグユクの皇后オグルガイミシュとシレムンの母はモンケの幕営に連行され、ソルコクタニの幕営地に移されると、そこでモンケセルによって衣服をはがされて全裸で尋問された[26]。判決は妖術を使ってモンケ・カアンの生命に危害を加えたとして有罪となり、毛氈に包まれて溺死の刑に処された[26]。オグルガイミシュの顧問の中で主要な地位にあったカダクとチンカイは死刑に処され、チャガタイの孫ブリはバトゥのもとで死刑となった[27]。モンケは親族のつながりに免じてホージャ・オグル、ナク、シレムンに特赦を与え、その他の王侯からは相続した軍隊を没収し、自分の軍隊に分配した[27]。例外的にオゴデイの次男コデン、六男カダアン・オグル、七男メリクは快く忠誠を誓いに来たので、恩赦によって軍隊を没収せず、オゴデイのオルドと寡婦と分配してやった[27]。
全帝国内のオゴデイ派を粛清し、功績のあった者に褒美を与える
モンケは全帝国内のオゴデイ派の粛清を開始し、カラコルムからオトラルまでに軍隊を配置した[28]。断事官(ジャルグチ)のバラをチャガタイ家の所領(チャガタイ・ウルス)に派遣し、罪ある者を探し出して死刑に処した[28]。モンケは反対派を壊滅させると自分の即位に協力してくれたバトゥ、ベルケ、トカ・テムルに見事な下賜品を与え、チャガタイ家のカラ・フレグには故チャガタイの所領を与えるとともにそのウルスのカンとし、グユク時代にカン位を与えられていたイェス・モンケを死刑に処することを命じた[28]。
ウイグル王国
ウイグル王国の国王(イディクート)サランディはモンケの即位に際し、臣従を誓うために出発したが、イスラム教徒が寺院に集まる金曜日にムスリムを虐殺する計画を立てたという容疑をかけられたため、皇帝の駐屯地に出頭を命じられ、大ジャルグチであるモンケセルの恐ろしい拷問を受け、罪を自白した[29]。モンケは彼をビシュバリクに送還し、金曜日に多数の群衆の前でその弟ウグンチュの手によって首をはねさせた[29]。実はサランディは無実であり、彼が仏教徒でその苛酷な政策がイスラム教徒の反感を買っていたため、イスラム教徒による陰謀を受けたのである[29]。モンケはウイグル王位をウグンチュに授与した[30]。
ペルシア遠征
1253年1月、オノン川付近でクリルタイが召集され、ペルシア遠征が決議された[31]。モンケは弟のフレグをその司令官に任命し、1260年までにイスマーイール・ニザール派(暗殺教団)の滅亡、アッバース朝の滅亡、シリア、アナトリアの征服を行わせた[31]。
インド国境を強化
1253年、モンケはサリ・ノヤンの率いる1000人の部隊をインド国境に派遣し、デリー・スルタン朝(奴隷王朝)との国境警備を強化するとともに、フレグの統制下においた[31]。
ウィリアム・ルブルック
1253年末、フランス国王ルイ9世の書簡を携えた2人のヨーロッパ修道士がモンケの宮廷に到着した[32]。はじめ、ウィリアム・ルブルック修道士はクレモナのバーソロミューという修道士とともにパレスチナを出発し、コンスタンティノープル経由でバトゥの子サルタクの幕営に訪れ、その次にバトゥのオルドに訪れ、12月にカラコルムの南方数日ほどの距離にいたモンケのオルドに到着した[33]。二人は旅行の目的をモンケの官吏に伝えたが、官吏はフランスの降伏の申し入れだと思い込んだままだった[33]。彼らの目的はイエズス会の布教であり、フランス王の使節ではなく宣教師であることを何度も伝えた[33]。
1254年1月、二人はモンケ・カアンに謁見することを許された[34]。この時のモンケは小さなしとねの上に座り、アザラシの皮のような毛皮の豪華な服を着ていたという[34]。モンケは葡萄酒、米から作った酒(テラシン)、クミーズ、蜂蜜から作った酒(バル)のどれが良いかを尋ねると、「陛下の下賜されたものなら何でも」と言うのでテラシンをふるまった[35]。二人の修道士は旅の目的を伝えるとモンケから2か月間の滞在を許可された[36]。ある時モンケはルブルックに「宮廷にいるすべての人々は唯一にして永遠なる同一の神を崇拝するから、おのおの自分のやり方で神を礼拝する自由を持たねばならない」と述べた[37]。モンケはキリスト教、イスラム教、仏教、各派の人々にあまねく恩恵を施したので、各自は自分の宗教が優遇されていると信じていた[38]。
モンケの宮廷に5か月間も滞在したのち、ルブルックは出発の準備をした[39]。モンケは彼にフランス王に対する回答の書簡を託し、別れを告げた[40]。ルブルックは1254年7月に出発し、バトゥの宮廷を経由してカフカスを通ってカッパドキアのカイサリア、イコニウムを経てサンジャン・ダクル修道院に帰り、ルイ9世に旅の記録を報告した[41]。
キリキア・アルメニア国王ヘトゥム1世の入朝
1254年、キリキア・アルメニア王国のヘトゥム1世自ら本国を出発してデルベンド街道からバトゥとサルタクのオルドに行き、9月にモンケの宮廷に到着すると、特別な厚遇を受けた[42]。50日の滞在ののち、11月に宮廷を去ったが、この際王国授与の特許状と、キリキア・アルメニア王国に課せられた貢賦の減額、聖職者に対する課税の免除を保証した勅書を授けられた[42]。ヘトゥム1世はビシュバリク、アルマリク、アム川、ペルシアを経て1255年7月に帰国した[42]。
クビライの大理国征服

1252年にモンケは弟のクビライに雲南侵攻を命じた[43]。将軍汪徳臣によって四川の成都府、嘉定府を陥落し、クビライ軍のために道を切り開いた[43]。
1253年10月、クビライは臨洮府から出発し、スブタイの子ウリヤンカダイの指揮のもと雲南の大理国に向けて進軍した[43]。さっそくクビライは摩莎(モサ)蛮酋長の降伏を受け、白蛮を下し、大理城下に到着した[44]。クビライは絹の旗に大きく「殺戮を禁じ、犯すものは死刑に処す」と書いて振った[44]。
1254年1月、大理城が開城して降伏したため、クビライはウリヤンカダイを残してモンゴル高原へ帰還した[44]。
高麗の降伏
1256年、高麗王国は1247年以来貢納の支払いをやめていたが、モンゴル軍が高麗を征討して勝利を得たので、高麗王の高宗は自らモンケのもとへ赴いて忠誠を誓った[45]。
クビライに対する疑惑
モンケはクビライが仁慈公正な態度で中国人に人望があるのを見て帝位を狙っているものとみなし、疑惑の念を抱いていた[46]。1257年、モンケはクビライを召還させ、カラコルム長官のアラムダルに命じて河南、陝西地方の行政の任に当たらせた[46]。アラムダルは鞏昌府に鉤考局を置き、国庫収入の計算を検査を命じた[46]。鉤考局はクビライの部下の代官たちを出頭させ、二人以外はすべて死刑に処した[46]。クビライは姚枢の忠告を聞き、一家を挙げてモンゴル高原に帰還し、モンケの宮廷に赴いた[46]。モンケとクビライは再会すると互いに涙を流し、この問題について話すことはなかった[46]。モンケは鉤考局を廃止し、アラムダルを戻した[46]。
南宋遠征

1257年9月、モンゴリア中部にあるコルクヌク・ジュブルにてクリルタイが召集された[47]。南宋征服について議論が行われ、モンケは自ら出陣することを宣言した[47]。7月、出発に先立ち、チンギス・カンの行宮に行ってその霊を祭り、荘厳な犠牲を天に備えた。10月、南宋に向かって出発し、ゴビ砂漠の南でクビライら諸王侯の出迎えを受けたが、これら諸王侯は大宴会に招待されたのち、それぞれの領地に帰った[48]。
1258年3月、モンケの軍は凍った黄河を渡り、5月、陝西に入ってチンギス・カンが他界した六盤山に本営を置き、陝西諸郡県の守令に謁見を賜った[48]。この時フレグからペルシア遠征の戦果報告が届き、モンケは彼にジャイフーン川以西の統治権を与えた[48]。8月、モンゴル軍は三道に分かれて四川へ向かい、モンケの本隊は隴州から散関道をとり、弟モゲの第二隊は祥州を経由して米倉関に向かい、ボロタイの第三隊は魚関から進軍し、別の二軍は湖広と江南へ侵入し、将軍の張柔の一軍はクビライが総司令官となって鄂州(武昌府)を攻囲する命令を受け、テムゲ・オッチギンの孫タガチャルの軍は江南の荊山を攻撃するよう命令を受け、ウリヤンカダイは東京を出発して武昌府の正面でクビライと合流するよう命令を受けた[48]。10月、モンケは漢中府に到着、11月に嘉陵江と白水江を渡り、苦竹隘に包囲陣を敷いた[49]。10日間の末、主将の楊立を殺し陥落させた[49]。続いて保寧府の長寧山の要塞を陥落させると、竜安府内の5城が降伏した[50]。この時他の2部隊と合流して大獲山まで進軍し、保寧府に降伏勧告をした[50]。守将の楊大淵は包囲されると降伏したので、モンケは彼を将軍として自軍に取り入れ、以後の諸県を帰順させていった[50]。1259年1月、青居山、大良山、雅州城、石泉を陥落させた[50]。
モンケ崩御
1259年2月、合州の攻略が開始され、晋国宝を派遣し、降伏勧告を行ったが、合州の将軍王堅は彼を殺害した[51]。そこで楊大淵を合州包囲の任にあたらせた[51]。6月、モンケは合州に数度の襲撃を行った[52]。7月、汪徳臣は城壁に梯子をかけて登り、侵入を試みたが、弩砲から発射された石が命中して死亡した[52]。そのころモンゴル軍に赤痢が発生し、猛威を振るっていた[52]。8月、モンケも病気にかかり、封鎖包囲に切り替えた[52]。精鋭3千人を監視部隊として城の正面に残し、モンケは本体を重慶府に向かって進軍させたが、この12日後に釣魚山の付近で崩御した[53]。享年52歳であった[53]。
モンゴル軍は退却することを決定し、陝西に向かって出発した[54]。その皇子アスタイは将軍クンドゥカイに軍の指揮を委ねてモンケの遺骸を奉じてモンゴリアへ帰った[54]。モンケの葬儀は4日間4人の后妃の帳幕において代わる代わる行われた[54]。その葬礼のたびに霊柩を玉座の上に安置し、列席者は涙を流して悲哀の声を上げた[54]。モンケの遺骸はブルカン・カルドン山中のチンギス・カンとトルイの墳墓の近くに埋葬された[55]。
人物
数か国語を自在に操り、ユークリッド幾何学の難問をいくつも自在に解けた。また東西の暦の統一のために、フレグにナースィールゥッディーン=トゥースィーをアラムート城塞から救出させた。なお1259年、彼を初代所長としてイラン北西のマラーガに司天台が建設された[56]。
杉山正明は、「彼個人が有能すぎることが、彼の悲劇の遠因となった」と評している[57]。
名称
漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) と表記される。
モンケ
漢字表記は「蒙哥」で、ペルシア語表記で「منگو(mankū)」 または「مونگكه(mūngke)」と表記する 。「モンケ」に関しては表記ゆれは少ない方だが、白石典之は以下のように指摘する[58]。
その原因のひとつにモンゴル語文法がある。モンゴル語には「母音調和」という規則がある。古代日本語にもあったとされるアルタイ諸語の特徴である。それは母音には男性母音と女性母音とがあり、ひとつの単語はどちらか一方の性の母音だけで成り立つということだ。異なる性の母音がひとつの単語に共通することは原則的にありえない。男性母音にはaとo、女性母音にはuとeがある(iは中性母音といい、どちらとも共存することができる)。(中略)
厄介なことにモンゴル語の母音には、さらにuとoの中間的な発音をするものがある。「ウゲデイ」の場合は、まさにそれにあたる。それをカナ表記するのは難しい。「ウ」で始めるなら、母音調和の原則にしたがって「ウゲデイ」とするのがよいだろう。ただ「オ」で始まる「オゴデイ」は男性母音と女性母音が混在してモンゴル語らしくない。
(中略)
「モンケ」も「ムンク」あるいは「ムンケ」の方がいい。 — 白石典之『チンギス・カン ”蒼き狼”の実像』p158-159
カアン号
モンケはオゴデイが採用したものの、次代のグユクが用いなかった「カアン」( Qa'an/Qaγan, قاآن Qā'ān )という称号を再度採用した[59][60]。モンケが発令し、華北の少林寺などに建立されたウイグル文字モンゴル語による聖旨碑などでは「モンケ・カン」(Möngke Qan(mwnkk' q'n))、同時代のペルシア語、アラビア語の歴史書にはグユクのように「ムーンカー・ハーン(モンケ・ハン)」( مونككا خان Mūnkkā Khān)とするものも見られる[60]。しかし、モンケの宮廷を訪れフレグに扈従してイランに戻ったアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーは『世界征服者の歴史』において「マンクー・カーアーン(モンケ・カアン)」 منگو قاآن(Mankū Qā'ān)と書き、ラシードゥッディーンの『集史』でも一部「ムーンカ・ハーン(モンケ・ハン)」 مونككه خان (Mūnnka Khān)としている箇所もあるが、基本的に「ムーンカ・カーアーン(モンケ・カアン)」 مونككه قاآن (Mūnkka Qā'ān)を用いており、「モンケ・カアン」と呼ばれている[60]。
妻
子孫
モンケ・カアン死後に生じた帝位継承戦争において、年少のためカアンに立候補することのなかったモンケの諸子はアリクブケを支持した。アリクブケの敗北後もクビライ政権に不満を抱き続けていたモンケ-アリクブケ系統の諸王はカイドゥとの戦いに際してシリギの乱を起こし、一時は多くのモンケ系諸王がカイドゥの勢力に投じた。クビライが亡くなりテムルが帝位に即くとモンケ系諸王は次々に元朝に投降し、テムル政権もカイドゥ勢力切り崩しのために投降者を優遇したため、モンケの後裔はモンゴリア西方ザブハン川流域でウルスを形成するようになった。しかし、天暦の内乱後の数年間でモンケ系諸王の有力者の多くが失脚し、それ以後の系図は伝わっていない[62]。
- モンケ・カアン…トルイの長男で、モンケ・ウルスの創始者。
- バルトゥ(Baltu,班禿/بالتوBāltū)…モンケの正室クトクタイ・ハトゥンより生まれた長男。モンケより早くに亡くなった。
- トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…ペルシア語史料ではバルトゥの息子とされるが『元史』には記述がなく、事蹟も明らかとなっていない。
- ウルン・タシュ(Ürüng-daš,玉龍答失/اورنگتاشŪrung tāsh)…モンケの正室クトクタイ・ハトゥンより生まれた次男で、第二代モンケ・ウルス当主。
- サルバン(Sarban,撒里蛮/ساربانSārbān)…ウルン・タシュの息子。
- シリギ(Sirigi,昔里吉شیرکیShīrkī)…モンケの庶子で、第三代モンケ・ウルス当主。
- ウルス・ブカ(Ulus-buqa,兀魯思不花王/اولوس بوقاŪlūs būqā)…シリギの息子で、第四代モンケ・ウルス当主。
- トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…シリギの息子。
- トゥメン・テムル(Tümen-temür,武平王禿満帖木児/تومان تیمورTūmān tīmūr)…シリギの息子で、初代武平王。
- アスタイ(Asudai,阿速歹/آسوتایĀsūtāī)…モンケの庶子。
- バルトゥ(Baltu,班禿/بالتوBāltū)…モンケの正室クトクタイ・ハトゥンより生まれた長男。モンケより早くに亡くなった。
