上村松篁

1902-2001, 日本画家 From Wikipedia, the free encyclopedia

上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年明治35年〉11月4日[1][2][3] - 2001年平成13年〉3月11日[4][5])は日本画家花鳥画の近代化に貢献し、文化功労者となりさらに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学教授。

上村松篁と母・松園(1946年)

本名は信太郎[1][2][5]。母は近代美人画の大家、上村松園。未婚で松篁を出産した松園はその父について自ら語ることはなかったが、一部の書籍では松園の師の日本画家・鈴木松年が父であるとみなされている[6]。松年が実の父であることは、松篁が著作中で明らかにしており、13歳のころに初めて松年を父と紹介されたとしている[7]

息子は同じく日本画家の上村淳之

生涯

1902年明治35年)、上村松園の長男として京都府京都市中京区四条堺町に生まれる[1][2][4]。幼少期に車屋町御池下ルに転居[8][2]。祖母・仲子、伯母、母との4人暮らしであった[8][9]。小さいころから金魚を眺めるのを好んだ[10][9]

1914年大正3年)中京区間之町竹屋町上ルに転居[11][2][4]1915年(大正4年)に京都市立初音尋常小学校を卒業して京都市立美術工芸学校へ入学[11][2][4]。成績優秀だったため予科2年を終えた後の本科での4年間は特待生として授業料を免除された[12][9]

1921年(大正10年)に美術工芸学校を卒業し京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)へ進学した[13][9][4]。1年の担当教員は菊池契月入江波光だったが、入学早々入江から「こんな概念的なものの見方をしていて、どうするんです」と批評され、大きな衝撃を受ける[13][9]。また入学と同時に西山翠嶂の画塾に入って教えを受けた[14][9][4]。同年、「松篁」の雅号を用いて第3回帝展に《閑庭迎秋》を出品、初入選を果たす[14][9][4]。第4回帝展に《仙禽唳光(せんきんれいこう)》、第5回帝展に《椿の図》、第6回帝展に《水禽》、第7回帝展に《金鶏・銀鶏》、第8回帝展に《閑光》を出品していずれも入選[9]。この間、1924年(大正13年)に絵画専門学校本科を終えて研究科に進み[15][9][4]1927年昭和2年)に田中たね子と結婚した[16][2]1928年(昭和3年)の第9回帝展に出品した《蓮池群鴦》は初の特選となった[17][18][9]

1930年(昭和5年)絵画専門学校研究科を修了、同時に美術工芸学校の嘱託教員となる[19][9][4]。学生指導のため動物画の研究を行ったことが契機となり、シカヒツジウサギなどの絵画に取り組み、1932年(昭和7年)の第13回帝展には《鹿寄せ》を出品した[20][9]。また、娘や息子をモデルとした人物画も制作するようになり、伯母と次女をモデルとした《金魚釣》は1933年(昭和8年)の第14回帝展推薦となり以後無鑑査の資格を得た[20][9]

母・松園、長男・淳とともに(1936年ごろ)

1936年(昭和11年)に京都市立絵画専門学校の助教授に就任[19][9][4]1939年(昭和14年)に華中鉄道の招きにより伊東深水池田遙邨らとともに中国へスケッチ旅行に赴いている[21][2][4]1938年(昭和13年)に新田辺に画室を購入したほか、1941年(昭和16年)にも平城の丘陵地を購入して画室を設け、「唳禽荘」と名付けた[22][9]1945年(昭和20年)春に京都市立絵画専門学校は京都市立美術専門学校に改称される[23][9]

1947年(昭和22年)、第3回日展の審査員に選ばれる[24][9][4]。しかし、情実や派閥工作による審査が横行していることを山本丘人吉岡堅二とともに問題視し、そこに福田豊四郎も加わり新団体結成を画策する[24][9]1948年(昭和23年)1月26日に東京で「創造美術」の発会式を行い、東京側から山本丘人、吉岡堅二、福田豊四郎、橋本明治加藤栄三高橋周桑の6名、京都側から奥村厚一菊池隆志向井久万秋野不矩沢宏靱広田多津そして上村の7名の合計13名での旗揚げとなった[25][9]。「創造美術」はその後、新制作協会日本画部を経て1974年(昭和49年)に創画会となり今日に至る[25][9]

1950年(昭和25年)4月に京都市立美術大学が開学されると、助教授に就任[26][2]1953年(昭和28年)11月には教授に就任した[27][2][4]

1959年(昭和34年)3月、ゴイサギを題材に描いた《星五位》で芸術選奨文部大臣賞を受賞[28][2][4]。同年から翌年にかけてインド東南アジアを旅行し、1963年(昭和38年)にはハワイへ行きトーチジンジャーの花の写生を行った[29][9]。この成果をもとに1966年(昭和41年)に《樹下幽禽》を制作し翌年同作により日本芸術院賞を受賞した[30][31][9][4]

1968年(昭和43年)3月、京都市立芸術大学を定年退官し、名誉教授となる[31][2][4]。同年から翌年にかけて『サンデー毎日』で連載された井上靖額田女王』の挿絵を描く[32][2]1970年(昭和45年)に「画業五十周年記念上村松篁展」を開催、また近鉄奈良歴史館に壁画《万葉の春》を描く[32][2]

1973年(昭和48年)11月、勲三等瑞宝章を受章[33][2][4]1981年(昭和56年)、「彩管六十年上村松篁自選展」を開催し、同年日本芸術院会員となる[32][2][4]1983年(昭和58年)、文化功労者となる[34][2][4]1984年(昭和59年)10月、京都市名誉市民となり[35][2][5]、11月に文化勲章受章[35][2][4]

1994年平成6年)3月、松伯美術館が開館[4]

2001年(平成13年)3月、心不全のため死去[4]。98歳。叙従六位[5]

エピソード

鳥に関するもの

  • 写生には強いこだわりを持っており、「鳥の生活を理解しなければ、鳥は描けない」と言い、鳥の観察のためにインドオーストラリア東南アジア等を旅行した。
  • また、奈良市郊外の自身のアトリエの敷地にも大規模な禽舎(鳥小屋)を設け、1,000羽を超える鳥を飼って生涯観察を続けていた。彼の死後、この禽舎は息子の上村淳之が管理していた。
  • とりかかると厄介なモチーフとして、ウズラを挙げていた。
  • 円山派の流れに立つが、円山派の描いた鳥に対しては、「十分、生きた鳥になりきっていない」と不満を言っていた。

母・松園に対して

  • 松篁が幼いころ、松園は朝から晩まで自宅の2階の画室にこもって絵を描いており、松篁は松園のことを「二階のお母さん」と呼んでいた[8][9]。松篁が2階に上がるのを許されたのは、1年に1度、8月16日の送り火の夜だけであった[8]
  • 松園が描いた作品で好きなものとして、《春苑》、《天保歌妓》の二つを挙げている。
  • 美人画を描かなかった(《万葉の春》のように例外もある)松篁だが、松園の影響を受けていることを認めている。

その他

  • 母・松園が金剛流の謡曲をやっていたこともあり、松篁も金剛流に入門して免許皆伝を受けている[36]
  • 哲学者梅原猛は、『アート・トップ』1978年12月号に掲載された小論で、「上村松篁の花鳥画は、鳥の世界に移された一種の美人画である」というような主旨を述べている。また、「その根底には、幼少からの『人間嫌い』がある」とも述べている。

主な作品

著書

  • 上村松篁『鳥語抄』講談社、1985年6月14日。doi:10.11501/12714440(要無料登録要登録)
  • 上村松篁『春花秋鳥』日本経済新聞社、1986年6月24日。doi:10.11501/12426307(要無料登録要登録)

画集

  • 『上村松篁写生集 花鳥』中央公論美術出版、1979年
  • 『上村松篁画集 作品一九二一‐一九八〇』講談社、1981年
  • 『花下鳥遊 上村松篁自選素描集』日本経済新聞社
  • 『唳禽集 上村松篁 画集・写真集複製画』中央公論美術
  • 『上村松篁画集』求竜堂

脚注

参考文献

外部リンク

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