中先代の乱

From Wikipedia, the free encyclopedia

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、建武2年(1335年7月北条高時鎌倉幕府第14代執権)の遺児北条時行が、御内人諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。北条時行は10歳以下の幼年であったが足利直義を破り、鎌倉奪還に成功した。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある[1]

概要 中先代の乱, 交戦勢力 ...
中先代の乱
戦争建武の乱(延元の乱)
年月日建武2年(1335年7月
場所:関東周辺(武蔵国下野国駿河国遠江国相模国
結果:旧鎌倉幕府軍の鎌倉撤退
交戦勢力
足利氏 旧鎌倉幕府軍
指導者・指揮官
足利尊氏
足利直義
北条時行
諏訪頼重 
建武の乱
閉じる

経過

鎌倉幕府滅亡後、建武の新政により、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子・成良親王を長とし尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。しかし建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。北条氏が守護を務めていた信濃国もその1つで、千曲川(信濃川)周辺ではたびたび蜂起が繰り返され、足利方の守護小笠原貞宗らが鎮圧にあたっていた[2]

建武2年(1335年6月には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家西園寺公宗らが京都に潜伏していた北条高時の弟北条泰家(時興)を匿い、持明院統光厳上皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚する。公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。

信濃に潜伏していた北条時行は、御内人であった諏訪頼重滋野氏仁科氏らに擁立されて挙兵した[3]。時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。諏訪氏の縁続きに当たる保科弥三郎(保科氏)や四宮左衛門太郎(武水別神社神官家)、関屋氏、夏目氏ら時行勢は青沼合戦において船山守護所(小笠原貞宗)を襲撃した。この間に諏訪氏・滋野氏らは信濃国衙を焼き討ち襲撃して、建武政権が任命した公家の国司(清原真人某)を自害させる[4]

ところが、京都の建武政権は当初、反乱軍が時行を擁しているとの情報を掴んでいなかったらしく[注釈 1]、京都では反乱軍は木曽路から尾張国に抜け、最終的には政権のある京都へと向かうと予想[3]したために鎌倉将軍府への連絡が遅れ、それが後の鎌倉陥落につながったとみられている[5]

勢いに乗った時行軍は武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍する。7月20日頃に女影原(埼玉県日高市)で渋川義季岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を、小手指ヶ原(同県所沢市)で今川範満の軍を、武蔵府中で救援に駆けつけた下野国守護・小山秀朝の軍を打ち破り、これらを自害あるいは討死させた。続いて、井手の沢東京都町田市)にて鎌倉から出陣して時行軍を迎撃した足利直義をも破る。直義は尊氏の子の幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子成良親王らを連れて鎌倉を逃れる。

鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている(7月23日)。鎌倉に護良を将軍・時行を執権とする鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れていたからと考えられている[5]

7月24日、鎌倉将軍府側は鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)にて最後の抵抗を試みるが、佐竹義直佐竹貞義の子)らが戦死、翌25日に時行は鎌倉に入り、一時的に支配する。更に時行勢は逃げる直義を、駿河国手越河原で撃破した。直義は乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還し、8月2日に三河国矢作に拠点を構えた。

時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して、時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否する。

8月2日、尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与える。尊氏は直義と合流し、9日に遠江国橋本(静岡県湖西市)、12日に小夜の中山にて尊氏と同道してきた今川頼国の手により名越高邦戦死、14日に駿河国の清見関および国衙にて諏訪小二郎金刺頼秀(諏訪大社下社社家)が戦死、17日に相模国箱根、18日に相模国相模川で尊氏方は義経来の北条方に遺恨を持つ中村経長が獅子奮迅の働きをするも[6]今川頼国・頼周兄弟が戦死するなど各地が激戦に見舞われた。時行勢は次第に劣勢となり戦線は徐々に後退。19日には相模国辻堂で敗れた諏訪頼重が鎌倉勝長寿院で自害して、時行は鎌倉を保つこと20日余りで逃亡する。

後醍醐天皇は尊氏へ出陣の許可は与えなかったものの、8月30日の小山朝氏への下野国司兼守護への補任は尊氏の奏請に応じたものと考えられ、また間に合わなかったとは言え九州の大友貞載に出陣を求める綸旨を出していることから、少なくてもこの段階では尊氏と天皇の方針に大きな違いはなかったと考えられている。ところが、9月27日になり、尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞の分配を行うため袖判下文を発給し、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反する(延元の乱[7]

北条時行に従った武士には名越氏のような北条氏一門もいたが、大部分が諏訪頼重のような御内人であった。彼らの中には千葉氏・宇都宮氏・三浦氏などの関東有力武家の庶流の出身者が多数含まれており、結果的に関東武士が多数含まれることになった。これに対して佐竹氏・小山氏などの関東の御家人が鎌倉将軍府側に加わり、更に既に将軍府に出仕していた旧幕府吏僚や御内人の多くも時行の動きには従わずに、直義とともに鎌倉から脱出している。このため、鎌倉に入った時行は公式の幕府文書を発給することが出来ず、御内人のみで出せる得宗家の奉行人連署奉書で命令を下している。そして、建武政権に仕えていた旧幕府吏僚や御内人の中にも尊氏とともに時行討伐に参加する者がおり、時行および御内人の挙兵は結果的には御内人同士の戦いとなって鎌倉幕府再興の可能性を失わせるとともに、室町幕府鎌倉府を支える吏僚層を形成するきっかけとなった[8][9]

時行は鎌倉を逃れた後も各地に潜伏し、南北朝成立後は吉野の南朝から朝敵免除の綸旨を受けて南朝に従い、新田氏北畠顕家の軍などに属して足利方と戦うが、正平8年/文和2年(1353年)足利方に捕縛され、鎌倉龍ノ口において処刑された。

評価

鈴木由美によれば、「中先代」の「中」とは、「先代」(北条氏)・時行・「当御代」(足利氏)のように、同類のものが3つある時の2番目のものという意味である[10]。20日間の占拠とはいえ、かつての武家政権の首都・鎌倉を実力で征服した武勲が評価されて、北条氏の祖や尊氏と同質の者と見なされたがゆえに「中先代」と呼称されたのではないかという[10]

また、中先代の乱に赴く際、足利尊氏は征夷大将軍の地位を後醍醐天皇に要求して断られたが、かつてはこのとき尊氏が独自の幕府樹立を企んでいたのではないかとされていた[11]。しかし2018年時点での研究では、その時点で尊氏に武家政権樹立の意志があったことはほぼ否定されており、では尊氏の真意が何だったのかについて、様々な議論がある[11]。これについて呉座勇一は、「足利尊氏は北条時行を恐れていた」と主張する[11]。つまり、弟の足利直義を破って鎌倉を征服し、鎌倉幕府再興という大義名分を掲げる時行を尊氏は恐れており、征夷大将軍という権威で対抗して乱の鎮圧を万全なものにしようとしたのではないかという[11]

中先代の乱の歴史的影響

通説における影響

時行が起こした中先代の乱は、通説と新説の双方において、日本史に決定的影響を与えた戦いだった。中先代の乱の直後に、後醍醐天皇と足利尊氏の間で対立関係が生じ(建武の乱)、ひいては、天皇が政治的実権を握っていた最後の全国的単独政権である建武政権の崩壊に繋がったからである。

1960年代の佐藤進一による通説的見解では、後醍醐天皇は支離滅裂な政策を繰り返して武家や民衆の支持を失った独裁的暗君であり、建武政権の崩壊は必然であったとされる[12]。足利尊氏は後醍醐に反感を抱いており、後は誰かが導火線に点火するのを待つ状況だったという[13]。佐藤の推測によれば、中先代の乱で尊氏が惣追捕使と征夷大将軍を後醍醐に要求したのは、乱を口実として武家の棟梁に足る資格を獲得し、新たな武家政権を樹立する野望を抱いていたからだという[14]

中先代の乱終結後、後醍醐は尊氏に帰京命令を出したのに対し、尊氏はそれに従わずに鎌倉に留まり独自の恩賞配布を行ったが、佐藤はこれをもって尊氏の後醍醐への反乱が開始されたとしている[15]。なおこの後、後醍醐が新田義貞を指揮官とする兵を差し向けると、尊氏は謝罪のため突然寺院に引きこもったりするなど、歴史的事実と佐藤の想定が食い違う部分もあるが、佐藤はこれを「尊氏が精神疾患のある不安定な人間だったから」と主張している[16]

新説における影響

一方で、21世紀初頭に進められている新説では、後醍醐天皇は後の室町幕府の法体系にも繋がる優れた法制改革を行い、武家への待遇も手厚かったとされており、呉座勇一によれば、建武政権の崩壊が必然だったとは考えられないという[17]

建武政権が崩壊した理由の一つとして、亀田俊和は、後醍醐の法整備は短期的な成果を目指すものではなく、長期的な改善を促すものだったため、方向性としては正しかったものの、効果が当事者たちの目に見えるまで時間がかかったことや、後醍醐が恩賞の裁定の公平性を重視した余り、恩賞給付に遅れが生じたことを述べている[18][注釈 2]

また、亀田はもう一つの理由として、後醍醐の中宮(正妃)である珣子内親王(新室町院)の出産結果という偶発的事象からの連鎖的事態を指摘している[20]。三浦龍昭・亀田によれば、後醍醐は傍若無人な人間であったとする通説とは異なり、実際には政敵である持明院統(後の北朝)の光厳上皇の姉で西園寺公宗の従妹でもある珣子を中宮に迎え、逆に光厳に自身の娘である懽子内親王を嫁がせるなど、婚姻政策を通じて持明院統や西園寺家に対し一定の懐柔政策を行っていたという[21][20]。珣子が懐妊した際、後醍醐は史上最大規模の御産祈祷を開催しており、亀田の推測によれば、後醍醐は珣子との皇子が未来の天皇となり、大覚寺統(後醍醐の皇統)と持明院統・西園寺家の間の友好関係の橋渡しになることを期待していたのではないか、という[20][注釈 3]。しかし、珣子に生まれたのは皇位を継ぐことができない皇女だった[20]。珣子の従兄の公宗が後醍醐暗殺計画を起こすのはこの3か月後であり、さらにその直後に時行によって中先代の乱が発生したのである[20]

中先代の乱から建武の乱が生じた理由について、呉座や亀田によれば、尊氏が中先代の乱への出陣の際に征夷大将軍の位を要求したり、その後に独自に恩賞を配布したのは、新たな武家政権を樹立する意図があったのではなく、あくまで時行と北条与党の鎮圧を万全にするためのものだったのではないか、という[22]。ここに、尊氏謀反の噂が京で流れ、後醍醐は使者を派遣して真意を問い質したものの、足利方からの返答が不明瞭だったのもあって、尊氏が謀反人であると誤認したのではないか、という[22]

森茂暁もまた、尊氏に謀反の意図はなかったとする[23]。森は、一次史料である軍勢催促状のみを見る限り、初期の対立関係はどちらかといえば新田義貞・足利直義間で生じている一方、両者の上官である後醍醐と尊氏にはギリギリまで戦争を回避しようとした形跡が見られ、両者の間には「元弘の乱で苦難を共にした戦友としての信頼感があったのではないか」と推測する[23][注釈 4]。その上で後醍醐は、足利直義が新田義貞誅伐を呼びかけた軍勢催促状を入手するに及び、開戦を決断せざるを得なかったのではないか、としている[23]

題材にした作品

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI