佐是
千葉県市原市の地名
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地理
歴史
前近代
当地は古い土地とみられ[6] 、佐是古墳群がある[7]。『和名抄』によれば、上総国海上郡に所在する8つの郷のうちに「佐是郷」がある[7]。なお、「佐是」の地名は写本によって「佐三」や「佐弖」と記されることがある[7]。
『地理志料』によれば、出雲国佐世郷から出雲宿禰の一族が移住したために佐是という地名になったという[8][7][注釈 1]。
『上総国町村誌』によれは、「中古」には沼田庄友田村と称したという[9]。
源頼朝が安房国から北上した際に当地の友田氏の館で休息し、手綱を清めたことから「手綱館」と呼んだという伝説がある[10]。このことから佐是と牛久の間を流れる養老川は「手綱川」の名で呼ばれたといい、手綱橋に名を残している[10]。
中世の佐是郡
律令郡制が崩壊すると、海上郡は海北郡(海保郡)や佐是郡といった中世的郡単位へと細分化された[11][12][13][14]。広域地名としての「佐瀬郷」ないし「佐是郡」は、現在の皆吉・矢田・池和田なども含んでいたようである[15]。
佐是の南部には佐是城[7](嶽城とも[10])という城がある。鎌倉時代に佐是禅師円阿が当地に館を構えたのが始まりという[16]。戦国時代の天文年間(1532年 - 1555年)に、武田信長の三男・武田国信(佐瀬三郎)によって築かれたとともされる[10]。のちに武田国信は里見氏によって滅ぼされた[17][注釈 2]。
近世
江戸時代、この村は「佐瀬村」と表記された(「佐是村」も用いられた)[19]。
明治初年の時点で牛久との間に渡船場があった[20]。
近代
慶応4年/明治元年(1868年)7月、いったんは安房上総知県事所属となるが、9月に菊間藩領となり、11月に鶴舞藩領に移管される[21]。明治4年(1871年)、廃藩置県と府県統合により、鶴舞県から木更津県所属となる[21]。
1873年(明治6年)、千葉県が発足するとその所属となる[21]。1878年(明治11年)には西国吉・岩崎・栢橋・寺谷とともに連合戸長役場を編成した[21]。
1889年(明治22年)、町村制施行に伴い明治村が発足し、「佐是」はその大字となった[22]。
