傅寛
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経歴
はじめは魏の五大夫の騎将として魏咎に従ったが、後に劉邦に仕えてその舎人となった。劉邦に従って転戦し、秦将の趙賁の軍を啓封で、おなじく秦将の楊熊の軍を曲遇・陽武で破るなどの功績を挙げ、卿の爵を与えられた。
劉邦が漢王となると封ぜられて共徳君と号し、また右騎将となった。その後も三秦平定などで活躍し、通徳侯に封じられた。
後に韓信・曹参に従って趙(趙歇)・斉(田広)討伐に従軍し、斉将の田解を撃破した。さらに楚の項冠(項羽の一族)・龍且・周蘭などを攻撃するなど貢献し、陽陵侯(食邑二千六百戸)に封じられた。
漢王朝成立後は、斉王韓信の相国となり、田横がまだ降っていなかったので、これに備えた。
5年後には、楚王に遷った韓信に代わり斉王に封じられた劉肥の相国となった。
陳豨が代国の地で叛くと、周勃に属してこれを撃った。また斉国の相国として樊噲に代わって[1]陳豨を撃った。
代国の平定後、その相国に遷り、駐屯軍の統率を兼ねた。2年後には代国の丞相となり、引き続き駐屯軍を統率した。
恵帝5年(紀元前190年)に死去し、景侯と諡された。子の陽陵頃侯傅精が後を継いで、24年で亡くなり、その子の陽陵共侯傅則が後を継いだ。
傅則は12年で亡くなり、その子の傅偃が後を継いだ。しかし、傅偃は31年(紀元前122年)に淮南王劉安の謀反に加担したために誅殺され、封国を除かれた。
評価
まったく逸話の残っていない人物であるが、韓信が楚王に移っても傅寛は斉国の相国のまま在任していること、また陳豨の乱の後、陳豨が即いていた代国の相国の地位を任されていることなどから、劉邦の信頼は厚かったと思われる。
前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第10位に列せられている。
以下は後漢の歴史家・文学家として名高い班固の詩文集『班蘭台集』に記載されている傅寛を讃えた頌詩である。
休休將軍,如虎如羆,御師勒陳,破敵以威,靈金曜楚,火流烏飛,將命伏節,功績永垂。
休休たる将軍、虎の如く羆の如く、軍勢を統率し陣を整え、威を以て敵を打ち破った、鋭い武器の輝きが楚軍を照らし、火が流れ烏が飛び交った、使命を帯び忠節を尽くし、その功績は永く語り継がれる。