愛新覚羅允禧

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愛新覚羅 允禧(あいしんかくら いんき、満州語ᠶᡡᠨ
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、転写:aisin-gioro yūn hi、康熙50年1月11日1711年2月27日) - 乾隆23年5月21日(1758年6月26日))は、康熙帝の第二十一子で、多羅慎郡王に封ぜられた。 は謙斎、は紫噊、別号は紫瓊崖道人。詩と絵をよくした。

続柄 康熙帝第二十一子
死去 乾隆23年5月21日(1758年6月26日
配偶者 祖佳氏
概要 愛新覚羅允禧ᠶᡡᠨᡥᡳ, 続柄 ...
愛新覚羅允禧
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愛新覚羅氏
続柄 康熙帝第二十一子

出生 康熙50年1月11日1711年2月27日
死去 乾隆23年5月21日(1758年6月26日
配偶者 祖佳氏
子女 本文参照
父親 康熙帝
母親 熙嬪陳氏
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生涯

熙嬪陳氏所生で、康熙50年(1711年)1月11日に生まれた。康熙59年(1720年)、皇帝に随従して塞外に赴いた。雍正8年(1730年)、固山貝子に封ぜられ、まもなく多羅貝勒に進封された。雍正13年(1735年)11月、乾隆帝が即位すると、多羅慎郡王に封ぜられた。史書には「能く書をなし、詩は清秀にして、ことに絵をよくし、遠くは董源を希い、近くは文徴明に接す」と記され、鄭板橋らと交遊があった。乾隆23年(1758年)5月21日に薨じた。

『清史稿』の記載:

慎靖郡王允禧は、聖祖(康熙帝)の第二十一子である。康熙59年に初めて塞外に従行。雍正8年2月、貝子に封ぜられ、同年5月、「允禧は立志向上す」との勅諭を受け、貝勒に進められた。13年11月、高宗(乾隆帝)即位に際し、慎郡王に進められた。允禧は詩は清秀にして、ことに絵をよくし、遠くは董源を希い、近くは文徴明に接す。自ら「紫瓊道人」と号した。乾隆23年5月に薨じ、諡号を賜った。

乾隆24年12月、皇六子永瑢がその後を継ぎ、貝勒に封ぜられた。乾隆37年、質郡王に進封。乾隆54年、さらに親王に進封された。永瑢もまた絵をよくし、「紫瓊」を継承して名を成し、また天算にも通じていた。乾隆55年に薨じ、諡して「莊」といった。子の綿慶が郡王を継いだ。綿慶は幼くして聡明で、13歳のとき乾隆帝に従って避暑山荘で校射に参加し、三矢を的中させ、黄馬褂と三眼孔雀翎を賜った。音律に通じていたが、体は虚弱であり、享年わずか26歳で嘉慶9年(1804年)に薨じた。嘉慶帝は深く惜しみ、銀五千両を賜い、諡して「恪」といった。子の奕綺が貝勒を継いだが、道光5年、罪を得て俸を削られ、19年に爵を奪われた。22年に死去し、その封を復された。子孫は例に従い、順次降格して鎮国公を世襲することとなった。

家には「西園」と称される十二景を含む庭園があり、また承澤園(紅橋別墅ともいう。のち怡僖親王・弘曉が居住)を下賜された。画家・揚州八怪の一人である鄭燮(鄭板橋)は、『板橋詩鈔』に「紫瓊崖道人郡王題詞」を作っている。清宮廷の西洋画家・郎世寧は允禧のために『八駿図』を描き、和碩果親王・弘瞻が詩を題した。

家族

妻妾

  • 嫡福晋・祖佳氏は、佐領・祖建器の娘であり、祖大弼の曾孫娘である。雍正5年(1727年)7月18日、祖佳氏は皇四子・弘暦(のちの乾隆帝)の嫡福晋富察氏、皇五子弘昼の嫡福晋呉扎庫氏と同じ日に宮中に迎え入れられた。宮廷はかつて允禧のために三、四度ほど婚礼を準備したが、それぞれ五、六年の差をもって取りやめとなっており、允禧は祖佳氏を迎える以前に、少なくとも一人以上との間に結婚に至らなかった縁談があったと考えられる。
  • 側福晋・趙氏 - 頭等侍衛・六格の娘。
  • 側福晋・呉氏 - 呉勲臣の娘。
  • 側福晋・関氏 - 員外郎・博色の娘。

子女

  • 第一子:弘昴 - 雍正6年(1728年)戊申2月11日酉の刻に生まれる。母は側福晋呉氏。乾隆7年(1742年)壬戌9月26日亥の刻に死去。享年15歳。
  • 第二子:弘旬 - 雍正9年(1731年)辛亥3月9日子の刻に生まれる。母は側福晋趙氏。乾隆14年(1749年)己巳7月26日丑の刻に死去。享年19歳。未婚。
  • 第一女 - 雍正5年(1727年)丁未3月24日未の刻に生まれる。母は側福晋趙氏。雍正9年(1731年)辛亥11月28日申の刻に死去。享年5歳。
  • 第二女:県君 - 雍正11年(1733年)癸丑正月11日丑の刻に生まれる。母は嫡福晋祖佳氏。乾隆9年(1744年)甲子12月、喀爾喀札薩克多羅郡王桑斉多爾済(母は康熙帝の孫和碩和恵公主)に嫁ぐ。乾隆60年(1795年)乙卯2月1日巳の刻に死去。享年63歳。光緒期に政治家として活躍した皇族盛昱の外高祖母にあたる。
  • 第三女 - 雍正11年(1733年)癸丑9月14日亥の刻に生まれる。母は側福晋趙氏(第一女と同母)。乾隆6年(1741年)辛酉4月4日申の刻に死去。享年9歳。

創作活動

著作

  • 『花間堂詩抄』8巻(自序あり。乾隆7年〔1742年〕、画家・鄭燮が跋文を作す)。
  • 『紫瓊岩詩抄』3巻(乾隆20年〔1755年〕、和碩果親王弘瞻が序を書く。乾隆23年〔1758年〕、乾隆帝第四子永珹が序を書く。慎郡王府の幕客・顧元揆〔字は端卿〕が跋文を作す)。
  • 詩作は、沈徳潜の『国朝詩別裁集』巻30、伊福納の『白山詩鈔』巻1に収録されている。

画作

  • 『盤山十六景図』(乾隆帝の命により描かれた)、
  • 『黄山三十六峰図』(乾隆帝の御題詩あり)、
  • 『山荘清暁図』(1796年、李鍇が詩を題す)、
  • 『秋庭夜坐図』など。

統計によると、『石渠宝笈』には允禧の作品が38点収録されている。

登場作品

テレビドラマ

参考文献

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