八方尾根のケルン
日本の長野県にあるケルン
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八方尾根のケルン(はっぽうおねのケルン)は、北アルプス北部の八方尾根稜線上にある登山道沿いの6カ所に設置されたケルン(英: cairn)の総称である。

八方尾根は飛騨山脈(北アルプス)後立山連峰東斜面の、長野県北安曇郡白馬村側にあり、尾根の稜線上には夏山シーズン冬山シーズンを問わず、年間を通じ登山者が利用する八方尾根登山道が設けられているが、明治期に始まる日本の近代登山黎明期以降、主に冬季の山岳遭難事故が多数発生している[1]。八方尾根の登山道沿いには、昭和初期から昭和後期にかけ、当地で起きた遭難事故の犠牲者を悼むもの4個と、遭難とは直接関係のないアニバーサリー的なもの2個の、合計6個のケルンが所在する[2]。
これらのケルンは八方尾根で命を落とした遭難者の遺族や友人らによる遭難防止への切実な願いが込められていると同時に、日本の近代登山の歴史、日本の山岳遭難事故の歴史の一端を刻んだ証人でもある。本記事では八方尾根の6個のケルンと、八方尾根山麓の八方地区(細野地区)に、地元白馬村村民や山岳救助に携わる関係者により設置された、2カ所の遭難慰霊碑について解説する。
八方尾根
地形

八方尾根は長野県北安曇郡白馬村にある山岳景勝地で、富山県との県境をなす後立山連峰の唐松岳(標高2,696 m)から、東側の長野県白馬村方向へ張り出した尾根である[3]。八方尾根の名前の由来は、唐松岳から四方八方へ尾根が伸びていることから呼ばれるようになったと言われ[4]、唐松岳山頂近くの山小屋「唐松山荘」に隣接した、県境主稜線上(標高約2,630 m)を最上部とし、そこから東麓の八方地区(標高約770 m)までの、標高差約1,860 m、尾根稜線の距離は約7.6 km[5]、険しい岩場も少なく北アルプス登山入門に適したコースである[6]。
急峻な地形の多い北アルプスの中で、八方尾根は比較的勾配が緩やかで稜線上の起伏も少ない[7]。八方尾根の中ほどにある八方池の周辺は、地質や気象の影響で樹林帯が乏しく、草地や裸地が広がり眺望を妨げる高木が少ないため、天候に恵まれさえすれば、近隣の山々をはじめ、遠方まで見渡すことができる[8][9]。特に石神井ケルンから第2ケルン(息ケルン)付近の緩やかな地形は、侵食されずに残存した準平原の平坦面と考えられ[10]、所々に小規模な高層湿原も残されている[11]。このような地形は登山道を通すのに適しており、尾根稜線上に沿って設けられた登山道は、山麓の白馬村と唐松岳を結ぶルートとして多くの登山者に利用されている。

尾根の下部には1998年長野オリンピックでアルペンスキーの競技会場となった八方尾根スキー場があり[12][13]、ゲレンデに設けられた複数のスキーリフトやゴンドラリフトがある。これらのうち、八方尾根上部へ向かう連続する、八方ゴンドラリフト、アルペンクワッドリフト、グラートクワッドリフトの3つを乗り継ぐコースは、夏山シーズン中は「八方アルペンライン」と呼ばれて運行されており、登山者やハイカーに利用されている[14]。
「八方アルペンライン」は山麓の八方駅(標高770 m)から兎平(うさぎだいら)、黒菱平(くろびしだいら)を乗り継いで経由し、距離にして約4 km進んだ、八方尾根稜線の中間地点にある山小屋「八方池山荘」(標高1,830 m)まで、ほとんど歩かずに登ることができるため[12]、積雪のない夏山シーズン中は登山者だけでなくハイキングを楽しむ一般の観光客らにも利用されている[2]。最終リフト「グラートクワッドリフト」終点の八方池山荘から片道1.5 km、徒歩約1時間30分ほど登った八方池の直上にある第3ケルンまでは「八方尾根自然研究路」として木道なども整備されており、無雪期の天候に恵まれた日であれば、登山経験の少ない一般の観光客も、北アルプスの雄大な山岳景観を安全手軽に楽しむことができる[4][9][15]。
冬季の気象

登山道のある八方尾根のうち、中間地点に当る標高約1,680 mの黒菱平から第3ケルンの約2,100 mまでの区間は、森林が発達しにくい地質の蛇紋岩が主体であるため樹木が少なく[12]、裸地や高山植物などに覆われた場所が広がり、晴天時には白馬三山や五竜岳など後立山連峰の眺望に優れるが、視界を遮るものがないため気象変化の影響を受けやすい。尾根道の中間地点にある八方池付近でも標高2,000 mを超える高山帯の山岳気候であり、比較的気象条件が安定する夏季であっても、突然の雷雨や濃霧などで視界が急速に悪化することがある[3]。
特に冬季の雪山シーズンでは冬型の気圧配置や低気圧の接近などで暴風雪が 尾根上を吹き荒れ、登山者は凄まじいブリザードや視界の利かないホワイトアウト現象に巻き込まれる[16]。地形的になだらかで登りやすい八方尾根も、ひとたび悪天候に見舞われると、見通しの良い地の利が、反対に仇となって道迷いの原因となり、加えて足元の積雪が白く単色であるため方向感覚を失いやすく、リングワンダリング(輪形彷徨、環形彷徨)に陥るなど、八方尾根では過去に重大な山岳遭難事故が何度も発生している[1]。雪山登山ルート案内のガイドブックでも八方尾根は、雪山登山としての難易度は晴天時でこそ初級であるものの、悪天候時には極めて危険になり[17][18]、特に視界不良時には八方尾根下部の広々した場所(特に八方池山荘から第3ケルンの区間)での行動は避けるよう注意を促している[19]。
八方尾根のケルン6個のうち、石神井ケルンと第3ケルンの2つは、遭難事故とは直接関係のないアニバーサリー的な目的で設置されたケルンであるが、残る4つのケルンは、八方尾根で遭難した犠牲者の遺族や友人、関係者らにより設置されたものである。これらは遭難者の霊を慰めるためだけではなく、これから八方尾根を訪れる登山者が、悪天候時に視界を見失わないため、目印、道標として、遭難防止への切実な願いが込められている。八方尾根は北アルプスを代表する登山道であるばかりでなく、これらのケルンそのものが日本の近代登山の歴史、日本の山岳遭難の歴史の一端を刻んだ証人でもある。
八方池山荘前に環境省が設置した「黒菱・唐松線総合案内図」の案内板には次のように書かれている。
八方尾根のケルン
ここでは八方尾根の登山道沿いに設置された6個のケルンについて、標高の低い山麓側から山頂方面へ登る順番に解説する。各ケルンの位置関係は下記の空中写真を参照。
6個のケルンは別名等を含め、それぞれが固有の名称で呼ばれているが、番号が付けられた「第1ケルン」から「第3ケルン」までの3つのケルンと、固有名が付けられた3つのケルン「石神井ケルン」「八方ケルン」「丸山ケルン」が混在するため紛らわしい。山麓側から山頂側へ向かう場合の各ケルンの順番は次の通り。カッコ内は別名または通称。
- 第1ケルン
- 石神井ケルン(八方山ケルン)
- 第2ケルン(息ケルン)
- 八方ケルン(開成ケルン・顔ケルン)
- 第3ケルン
- 丸山ケルン
山麓から徒歩で登ると最初にある「第1ケルン」は、八方池山荘までリフトで乗車するとケルンに気付かず素通りする形になる。リフト終点の八方池山荘から登り始めて最初に目にするケルンは、山麓から数えて2番目であるため「第2ケルン」と思われがちだが、このケルンは固有名詞で呼ばれる「石神井ケルン」である。「第2ケルン(息ケルン)」は山麓から数えると3番目にあたり、4番目にあるケルンは「八方ケルン」、5番目にあるのが「第3ケルン」である。さらに、八方尾根で最初に建設されたケルンは「第1ケルン」ではなく「第3ケルン」であるなど、第1、第2、第3の番号も建立された順番ではない。これは1962年(昭和37年)に丸山ケルンが建立されるまでの八方尾根にあった3つのケルンが、山麓側から順番に第1、第2、第3と、それぞれ番号での名称が定着していたためである。丸山ケルン建立前年の1961年(昭和36年)に山と渓谷社が出版した書籍に「八方尾根の名物ケルンは3カ所あって、下から数えて、第1、第2、第3と呼ぶ」と解説されている[20]
第1ケルン

- 第1ケルン - 位置北緯36度41分51.2秒 東経137度48分1.7秒・標高1,820 m[2]。
第1ケルンは八方尾根に6個あるケルンのうち最も標高の低い場所に所在する。八方尾根上方の八方池や唐松岳方面へ向かうには、夏山シーズン中も運行される「八方アルペンライン」と呼ばれる3つのリフトやゴンドラを乗り継いで、尾根の中腹にある標高1,830 mの八方池山荘まで強風などで運休しない限り手軽に登ることができる。
乗り継ぎ時の移動以外ほとんど歩かずに山麓から中腹まで登れるため、リフトやゴンドラを利用する登山者やハイカーが多いが、3つのリフトのうち最上部のグラートクワッドリフト(黒菱平と八方池山荘間)は、第1ケルンのある尾根稜線上の南側山腹を、かすめるように素通りするため、第1ケルンの存在や位置を知らない限り気付かずに通過してしまう。これは第1ケルンが建立されてから40年以上経過した1981年(昭和56年)に八方池山荘までリフトが延伸されたためである[5]。
そのため本来では山麓側から数えて最初にあるにもかかわらず、八方池山荘から第1ケルンへ向かうには、山頂とは反対方向へ150 mほど歩いて戻る形になる。第1ケルンは八方尾根の6個のケルンの中でこそ最下部に位置しているが標高は1,820 mもあり、晴れていれば白馬三山や白馬村東側の山々の眺望を望むことができる[4]。
この第1ケルンは後述する第2ケルン(息ケルン)とともに、1938年(昭和13年)7月に建立されたもので[2][21]、高さは3.6 mである[22]。設置の経緯については後述の第2ケルン(息ケルン)で詳述する。
石神井ケルン(八方山ケルン)

- 石神井ケルン(八方山ケルン) 位置北緯36度41分44.3秒 東経137度47分37.7秒・標高1,974 m[2]。
石神井ケルンは山麓側から数えて2つ目にあるケルンで、リフト終点の八方池山荘から山頂方向へ約500 m進んだ標高1,974 mに位置している。国土地理院発行の2万5千分1地形図に「八方山」の表記がある地点の東側に三等三角点「八方」が設置されており[23]、この三角点の西側40 mほどの位置に石神井ケルンがあり、別名「八方山ケルン」とも呼ばれている。
石神井ケルンは八方尾根に6個あるケルンのうち、2個あるアニバーサリー的なケルンの1つで、東京都立石神井高等学校(東京都練馬区)山岳部により、部の創立10周年を記念して1963年(昭和38年)に建立された[2][24][25]。石神井高校の物理教諭であった黒崎峻は、八方尾根山麓の細野地区(現八方地区)で古くから続く旅館「ホテル対岳館[26]」の丸山与兵衛と親交があり、その人脈により1961年(昭和36年)7月、八方尾根中腹の黒菱平(標高約1,500 m)に石神井高校黒菱山荘が建設された[27]。
黒菱小屋と池田小屋
今日でこそ八方尾根スキー場は整備されたゲレンデや、ゴンドラやリフトが複数整備されているが、リフトなどが存在しない昭和の初期より冬季の八方尾根では山岳スキー(山スキー)が盛んに行われていた[28]。当時のスキーヤーは山麓の細野地区(八方区[注釈 1])のガイドを伴い、スキー板を担いで歩いて登り、帰りはスキーで滑降する山スキーのメッカで[30]、八方尾根の中腹に位置する黒菱平は、宿泊を伴う山スキー目的の雪中幕営(今日でいう雪中キャンプ)のテントが何張りも張られる場所であった[31][注釈 2]。
このような経緯から黒菱平近辺に新たな山小屋設置の機運が高まり、1931年(昭和6年)の秋、地元のスキー愛好家有志により「黒菱小屋」が黒菱平の少し下部に建設され[31]、その後も山スキー目的の小屋が増設されていったが、そのうちのひとつが「池田小屋」である。池田小屋は1936年(昭和11年)4月4日に八方尾根の山スキーで遭難死した池田清一の父により建設された。大学受験に失敗した清一は友人を誘い「春の白馬、栂池付近スキーツアー」と銘打った東京鉄道局が主催する同年3月末から4月にかけた団体募集旅行に2人で参加したが[33]、4月4日の雪上講習中に風吹により他の講習者とはぐれて行方不明となり、翌4月5日に八方尾根北斜面で遺体となって発見され、検視の後、列車を貸し切って東京へ遺体が運ばれた[28]。
清一の父である池田貞一は事故当時、三井物産の台湾支店長であったが、知らせを聞くと台湾から航空機で急いで日本に戻り、葬儀の後、「僕の子供と趣味を同じくする者のために、二度と事故のないよう、八方尾根に避難小屋を建ててほしい」と、当時の金額で3,000円を差し出して鉄道局に依頼し[34]、同年11月15日に黒菱小屋の隣に新設された小屋は「池田小屋」と名付けられた[34][35]。さらに小屋建設の残金を使用して、遭難防止の願いを込めた鐘を10個つくり、新設された池田小屋だけでなく、黒菱、唐松、栂池、遠見の、計5軒の山小屋に2つずつ寄贈した[36][35][37]。鐘の音は遠くまで響き、ガス(霧)にまかれ方向を見失った登山者に小屋の位置を音で知らせることで、遭難防止に大きく役立つこととなり、池田の父からは、小屋のカギは一年中掛けずに、登山者に小屋を開放してほしいと伝えられた[38]。
八方尾根における遭難で命を落とした犠牲者遺族の「二度と事故が起きないように」との願いから、実際に八方尾根の現地に何かしらの建造物を設置した最初の事例が池田小屋であり[39]、次節で解説する2年後の第2ケルン(息ケルン)建立に影響を与えた[22]。なお池田小屋は老朽化のため黒菱小屋とともに1983年(昭和58年)に解体され[33]、跡地にはレストランカフェテリア黒菱が1986年(昭和61年)にオープンした[40]。
第2ケルン(息ケルン)

- 第2ケルン(息ケルン) - 位置北緯36度41分45.8秒 東経137度47分22.7秒・標高2,005 m[2]。
石神井ケルンから500 mほど山頂方向へ進んだ場所にある第2ケルンは、通称「息(やすむ)ケルン」とも呼ばれ、先述した第1ケルンと同時に造られ、山麓から数えると3つ目のケルンである。第1ケルンと同じく1938年(昭和13年)7月に建立され[2]、高さも同じ3.6 mである[22]。息ケルンは、1937年(昭和12年)12月26日に八方尾根での遭難により命を落とした、西坂息(にしざかやすむ)を悼むため、前述の第1ケルンと共に西坂の父親らが建立したものである[41][42][注釈 3]。
西坂息は当時24歳[43]、大阪のミッションスクール・ウヰルミナ高等女学校(現大阪女学院中学校・高等学校)の教員で[36]、翌年の春に教え子との結婚が決まっており、独身最後のスキーを楽しむため1人で八方尾根を訪れた[36]。西坂は山へ行くときに行先を家族も含め誰にも伝えず、この時も大阪駅まで見送りに来た婚約者に「名古屋駅で乗り換える」と話したものの目的地は言わなかった[43]。
1937年(昭和12年)12月24日に白馬館に宿泊[注釈 4]、翌25日に黒菱まで登り黒菱小屋に宿泊した[36][45]。黒菱小屋で偶然同宿となった同郷の大阪からやってきたスキーヤー2人と[注釈 5]、八方尾根を登って唐松岳方面まで行くことになり、翌26日の朝、一行は黒菱小屋を出発し、雪の積もった八方尾根を交互にラッセルしながら登り[48]、八方池付近までは順調に進んでいたが、その先の下カンバと呼ばれる急斜面で小規模な雪崩に遭遇し、3人は危険を感じたため頂上へは向かわず、黒菱小屋へ引き返すこととした[49]。ところが3人のスキーのスキルには隔たりがあり、西坂は徐々に遅れ始め、同行の男性は最初のうちは西坂を待っていたが、最終的に西坂と別行動となり黒菱小屋へ戻り、そのまま下山してしまったという[22][50][46]。

年末には帰宅すると言って出かけた息子が大晦日になっても帰ってこないため、父親の西坂保治は婚約者が聞いていた「名古屋駅乗り換え」の情報をもとに、大阪駅での切符の購入記録(教員割引切符)を聞き出すと、長野県の大糸線にある信濃四ツ谷駅(現、白馬駅)へ向かったことが判明し[51]、家族や関係者らと急ぎ現地へ向かった[22]。年が明けた1月3日、最初に宿泊した白馬館の番頭、山本秀吉が黒菱小屋へ登ってきて「西坂息」と書かれた紙を差し出し、こういう人物が宿泊していないか小屋番に確認すると、12月25日の宿泊記録と翌朝の清算も済んでいることが判明した[36][46]。前述の同行した大阪の男性からの26日の経緯や、互いに名前も聞いていない[48]などの情報から、西坂息が八方尾根で遭難したことが確実となり、翌1月4日には救助隊が結成され何日も捜索が行われたが発見には至らなかった。雪解けが進み始めた同年5月になって、八方尾根南斜面下部の平川谷の川の中で遺体が発見され、駆け付けた家族により本人であることが確認された[22][52]。
葬儀が行われ気持ちが落ち着くと父親の保治は改めて白馬を訪ね「地元の人たちに大変お世話をかけた。池田さんの例(前述の池田小屋建設の経緯)もあるので、私も何か遭難防止に役立つことがあるのなら協力したい」と申し出て、地元関係者らと相談の結果、遭難防止のための道標として八方尾根にケルンを建立することを決めた[22]。今日、第1ケルン、第2ケルン(息ケルン)と呼ばれる2つのケルンは、このような経緯で1938年(昭和13年)7月に建立された[53]。父親の保治は日本基督教団の牧師であったこともあり、第2ケルン(息ケルン)の銘板に「我道也真理也」と聖書の言葉を刻んだ[2][22][52][54]。「我道也真理也」とは新約聖書のヨハネによる福音書14章6節にあるイエス・キリストの言葉「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 に由来する言葉である[55]。
八方ケルン(開成ケルン)
- 八方ケルン(開成ケルン) - 位置北緯36度41分42.0秒 東経137度47分17.5秒・標高2,035 m[2]。
八方ケルンは麓から数えて4番目にあるケルンで、第2ケルン(息ケルン)から山頂方面へわずか125 mの位置にある[56]。別名を「開成ケルン」「逗子開成ケルン」とも言い、また、ケルン正面に付けられた複数の黒い銘板が「目」「鼻」「口」のように見えることから通称「顔ケルン」とも呼ばれている。八方尾根のケルンの中で、八方ケルンは最も新しく1984年(昭和59年)7月に建立された[57]。高さは6つのケルン中で最も高い約5 mである[58]。
逗子開成高校八方尾根遭難事故

八方ケルン(開成ケルン)は1980年(昭和55年)12月26日に、八方尾根で冬山合宿を行った逗子開成高校(神奈川県逗子市)山岳部の部員生徒5名と顧問1名を含む、6名全員が遭難死した大量遭難事故により建立されたものである[2][41]。
逗子開成高校山岳部の一行は、同日に八方尾根を登山していた東京歯科大学パーティー[59]や成蹊大学パーティー・神戸高専パーティー、それに加え八方ケーブル職員ら複数の目撃証言により、遭難前日の25日には第2ケルン(息ケルン)付近にテントを設置し宿泊していたことが確認されている[60]。遭難当日26日の昼ごろ、第3ケルン少し上方の稜線で、ザイルを持って安全帯(ハーネス)を準備するなど、ザイルワーク、雪上訓練と思われる様子が、東京歯科大学のパーティーや[61]、ケーブル職員の野口英彦によって目撃されている[62]。しかし設置したテントへ戻った形跡がないことから、第3ケルンからテントを設置した第2ケルン(息ケルン)へ戻る途中で進路を見失い、行方不明になったものと結論付けられた[63]。奇しくも遭難日の12月26日は43年前の西坂息の遭難日と同じ日で、推定される遭難地点もほぼ同一地点である[64][65]。
地上捜索隊やヘリコプターを使った上空からの大規模な捜索にも関わらず、6名は約4カ月にわたり発見することができず、降り続ける降雪や度重なる雪崩などにより雪中に埋没したと考えられ、春の雪解けが始まった翌1981年(昭和56年)5月1日から6日にかけ、八方尾根北斜面下部の南股入(姫川水系支流の松川上流部)の川原で6人全員の遺体が順次発見された[66]。
この遭難事故では部活動中の事故か否かを争点に、遭難した生徒の保護者遺族側と学校法人側との間で、責任の所在をめぐる訴訟が起きるなど、数年間にわたり両者間の裁判が続いたが、最終的に学校側が部活動中の事故と認め、両者の裁判上の和解に目途がついた1983年(昭和58年)春頃より、この遭難事故の犠牲者を悼むケルン設置に向けた各方面への働きかけが始まった[67]。
八方ケルンの建立
| 環境庁による建設許可書
環自保許 第722号 昭和58年9月26日
自然保護法(昭和30年法律第162号)第18条第3項の規定に基づき、貴殿の次の申請に係る行為を許可する。 国立公園名 中部山岳国立公園 |
| 『白いケルン:八方尾根遭難事故委報告書』p.597より引用。 |
| [68] |
遭難事故犠牲者を慰霊するため、事故現場の八方尾根に何かしらの記念碑を造りたいという思いは、遺族や学校関係者らによる切なる願いであったが、前述の未解決の訴訟事案といった内部問題だけでなく、事故現場が国立公園(中部山岳国立公園)内であり、事故の起きた1980年代になると以前にも増して自然保護に対する社会意識が高くなっており、八方尾根への新たな構造物の設置は困難であった[69]。
その一方で、逗子開成の6名が遭難したと推定される地点は、悪天候時には迷いやすい場所であることから、遭難対策に携わる現地関係者の間からも、位置を確実に認識できる道標設置の必要性が問われ始め、逗子開成高等学校側としても、慰霊と安全祈願だけでなく、事故の際に現地の関係者にお世話になった恩返しも込め、新たなケルンの設置に向けて動き始めた[69]。
遭難事故現場に最も近い施設の国民宿舎八方池山荘(現村営八方池山荘)の管理人であった鈴木和彦は、事故前日に山荘の前を登っていく6名と挨拶を交わし[70]、天候悪化の可能性を顧問に伝えたにも関わらず[71]「なぜあの時、両腕を広げて上へ行くのを止めなかったのか」と後悔の念を滲ませている[72]。鈴木は現地白馬村における事故に最も関係が深い人物であり[69]、事故直後から捜索活動を通じ遺族や学校関係者らに寄り添い信頼関係を築き、ケルン設置に向けて、白馬村役場、北安曇地方事務所(現北アルプス広域連合)など、関係する行政機関への折衝を行うだけでなく、地元人脈を通じ各方面と学校側との間を取り持つなど、ケルンの新設に尽力した[69]。 並行して道標(ケルン)の設計を同校教諭の神戸蕃元が行い[73]、1983年(昭和58年)5月27日、長野県知事宛に「八方尾根に道標ケルンを建設するについてのお願い」、同日および翌28日、環境庁自然保護局中部山岳国立公園事務所へ出向いて打ち合わせ、6月13日、環境庁長官と白馬村村長宛に建設許可願いを提出、同月17日に土地借用願いを村長宛に提出(文面を下記に示す)[74]。
- 土地借用(無償貸与)についてのお願い
- 白馬村村長 横沢裕殿
春や夏の季節に、あの八方尾根に立ち、第三ケルンと第二ケルンの、わずか五百メートル足らずの現場を目にするとき、悔やんでも還らぬ思いと、冬山の恐怖とが心に刻まれるばかりです。私どもは、二度とこのような事故を起こさないために努めることが、生きている者の責務と存じ、ここに、道標建設の意思を表すものであります。
この道標が、事故を未然に防ぎ、登山者の安全のために役立つことを願うとともに、これが、ひとり本校山岳部の遭難にのみ関わるものではなく、広く公共の建築物として、後々までも有効に機能することを祈念するものであります。 — 昭和五十八年六月十七日、学校法人逗子開成学園 理事長安井常義、『白いケルン:八方尾根遭難事故報告書』より抜粋改変引用[75]。

同月23日、白馬村村議会に於いて「土地貸与」が全会一致で可決し、その後もケルン設置に向けた遺族の了解、各関係機関への陳情を重ね、白馬村との土地無償貸与契約、保安林内土地の形質改変許可などの交渉が進んだ[76]。この交渉の際、北アルプス遭難対策協議会より、八方尾根に5つある既存のケルン名との兼ね合いを考慮し、新設するケルンの名称を「八方ケルン」とする提案が示された[69]。
最終的に同年9月26日付で環境庁長官名による「建設許可書」が学校に届き、ケルン新設の許可が正式に認められた[77]。同年10月には学校教員や山岳部OB13名が建設予定地周辺で、ケルンの石積みに使用する20から50キログラム前後の石を約200個集め[78]、冬を超えた翌1984年(昭和59年)5月3日に着工式が行われた[79]。
施工は相見積により白馬村に隣接する大町市の建設業者が請け負い[68]、建築費用は当初、本体工事、銘板、銘石加工、資材搬入費用など合わせ約200万円であったが[69]、設計当初のケルン高さ約3 mについて、八方池山荘の鈴木から「3 mでは積雪時に埋没する恐れがあり、道標としての設置目的が果たせない可能性がある」と指摘され[80]、最終的に高さ約5 mで施工されることとなった。それに伴い基礎の設計変更など全体の規模が大きくなり、最終的な建築費は4,379,200円であった。建設の決算収支報告によれば、OBを含む学校関係者や一般からの寄付により、建築費用は問題なく賄われた[81]。
八方ケルンの形状は四角錐で、悪天候時でも方角が判別できるよう角の四隅に「東」「西」「南」「北」、さらに頂部に「天」、基部地中に「地」の2つを加えた合計6個の、漢字一文字を刻んだ銘石が埋め込まれた。遭難者数と同じ6つの銘石に使用した石は、遺体が発見された南股入の川原で採取された[82]。これらの発案も八方池山荘の鈴木によるものであり、「“地”は一番下に埋めるから見えないけれど、これは生徒を下で支えている基礎の石で、先生を表し、”天“は最上部においてリーダーを表すことになる」と鈴木は述べている[56]。
同年7月12日、遺族、学校や地元の関係者らが参加し、八方ケルンの完成除幕式が行われた。前述のとおり四隅それぞれに「東西南北」の文字を刻字した銘石が埋め込まれ、正面には道標名「八方ケルン」の銘板が埋め込まれた。銘板に書かれた「八方ケルン」の文字は、遺体発見の際に供養が執り行われた白馬村内(神城地区)の曹洞宗寺院である長谷寺(ちょうこくじ)住職の揮毫によるもので、ケルン基部には遭難者6名の戒名が刻字された銅板を収める経筒と遺品が納められた[79]。
逗子開成高校では今回の遭難事故から約70年前の1910年(明治43年)に、同校の前身逗子開成中学校の生徒が乗るボートが七里ヶ浜沖で転覆し、12名全員が死亡した海難事故(真白き富士の根参照)と、八方尾根遭難者の6名、それ以外にも在学中に不慮の死を遂げてしまった学友を悼む慰霊碑「いのちの碑」を、1985年(昭和60年)12月13日に逗子市の学校敷地内に設けた[83]。現地の八方ケルンも、同窓関係者らによる慰霊登山や、経年劣化や風雪などで痛んだケルンの修復を行うなど、遭難事故を風化させない取り組みが続けられている[84]。
第3ケルン
- 第3ケルン - 位置北緯36度41分37.6秒 東経137度47分5.7秒・標高2,080 m[2]。
第3ケルンは6個ある八方尾根のケルンの中で最初に造られたケルンで、石神井ケルンと同様、遭難とは関係のないアニバーサリー的なケルンの1つである[22]。
手前の八方ケルンから稜線上を340 m山頂方向へ進んだ場所[56]、山麓側から数えて5つ目にあり、夏季にはハイカーでにぎわう八方池のすぐ南側の稜線上にあり、池畔からも第3ケルンが良く見え、ケルンからも八方池の水面を真下に見下ろすことができる。このケルンは山を愛し、毎年のように八方尾根で山スキーを楽しんだ寺田健一・松枝夫妻が、1934年(昭和9年)の銀婚式の記念として[22]、3年後の1937年(昭和12年)10月に建立したもので[53]、三角形1つと横長方形2つの銘板が埋め込まれている。横長方形の2つの銘板には右横書きで「唐松-三四〇〇米」「八方池-四五米」と、当ケルンからの距離が記されており「八方池ケルン」とも呼ばれる[2][22]。
1970年(昭和45年)5月にエベレストのサウスコル8,000 m地点から山スキーで滑降する三浦雄一郎を撮影した山岳写真家の小谷明は10代の頃、自宅の近所に住んでいた寺田夫妻から、銀婚式の記念に八方尾根にケルンを建立した話などを聞くうちに、登山の魅力に惹かれていき、スキーをはじめ山岳写真も撮影するようになり、寺田健一と同じ学習院大学へ入学して同大の山岳部に入ったという[85]。
第3ケルンは八方尾根のケルンの中で最古であることから、長年の風雪などで一部が崩れ、これまでに2回修復されている。初回の修復は地元八方尾根スキー場のスキー学校により1971年(昭和46年)に行われたが、こちらも次第に傷みが目立つようになり、2度目の修復が2015年(平成27年)に行われた[86]。
丸山ケルン

- 丸山ケルン - 位置北緯36度41分22.3秒 東経137度46分12.0秒・標高2,430 m[2]。
丸山ケルンは八方尾根の6つのケルンのうち、山麓側から数えて6つ目、最も標高の高い2,430 mに位置している[2]。1つ手前の第3ケルンまでの5つのケルンは、それぞれの間隔が200 mから700 mほどであるのに対し、丸山ケルンは1つだけ他とは大きく離れている。夏山シーズン中、八方池と第3ケルンまでは、軽装でスニーカー履きのハイカーも多く訪れるが、第3ケルンから上部の丸山ケルン方面は本格的な登山道となるため、登山靴やレインウェアなど登山装備が必要で、霧が発生しやすく視界不良による道迷いの危険性もある[87]。
丸山ケルンは1961年(昭和36年)11月24日に、八方尾根上部で遭難し命を落とした国鉄大宮工場山岳部の鳥海勝雄を慰霊するため、翌1962年(昭和37年)7月に同山岳部により建立された[88]。ケルン名の「丸山」とはケルンの設置された尾根上の小さなピーク(標高2,430 m)の名前で、ケルンの周囲は広々と開け天候に恵まれると不帰嶮や白馬三山の眺めが良いため、登山者が休憩するポイントになっている[89]。この付近から上部は森林限界となり登山道の周囲はハイマツが覆い、痩せた尾根道となって進み、長野富山県境の後立山連峰主稜線、唐松岳方面へ続いている[90]。
遭難慰霊碑と慰霊祭
八方尾根を含む白馬連峰での山岳遭難死事故は毎年のように発生し、白馬村役場によれば統計のある1955年(昭和30年)から昭和末期までの約30年間に、200余人が白馬連峰で命を落としている[91]。犠牲者の家族や友人らは、故人が愛した山の近くにケルンや慰霊碑を建てたいと望むことが多いが、前述の逗子開成高校のケルン建設経緯で述べたように、遭難現場の多くは国立公園内や国有地にあるため様々な規制があり、一般登山者の遺族や友人ら個人のレベルでは新設のハードルが高く、ほとんどのケースで新たなケルンの建設は事実上不可能となっている[91]。
白馬村で長年にわたり山小屋やスキーなど、山に関わる仕事に関わる人々や、遭難者の救助に携わる人々の間から、ケルンや慰霊碑を設置できない多くの遺族、友人らの思いを何かしらの形にしたい、ということになり、八方尾根の麓の細野地区(現、八方地区)に、慰霊のための石碑が2カ所に設けられた[92]。
白馬連峯遭難慰霊塔
細野地区に鎮座する細野諏訪神社の木製の鳥居が朽ち始めたため、1965年(昭和40年)に石造りの鳥居に建て替えることになり、地域の氏子から寄付金を集めると、予想以上の金額が集まった。細野地区の氏子たちは寄付の余剰金で、白馬連峰で命を落とした人々を祀る慰霊碑を建てることになり、諏訪神社の境内に「白馬連峯遭難慰霊塔」が建立された。慰霊塔に刻まれた文字は、同県東筑摩郡山形村出身で第1次岸改造内閣法務大臣を務めた唐沢俊樹によるものである[91]。
翌1966年(昭和41年)以降は、細野諏訪神社の秋祭りに合わせて遭難者の慰霊祭も行われることになり、各地から遺族や関係団体らも参加するようになった。その後も新たに祀られる遭難者が毎年増え続けており、細野諏訪神社の慰霊祭が続けられている[91]。
山に眠る人々の碑
細野地区(八方地区)東の八方口区、長野県道322号白馬岳線沿いにある長野県白馬山岳遭難対策センター(大町警察署白馬村交番隣)に、1976年(昭和51年)7月「山に眠る人々」の慰霊碑が建てられた[91][93]。
前述の細野諏訪神社の慰霊碑建立後も遭難死事故は増え続け、白馬村山案内組合が中心となって浄財を集め、白馬山岳遭難対策センターの敷地に新たな慰霊碑が建てられた。新たな慰霊碑の名前は当時の長野県知事西沢権一郎によって「山に眠る人々」と名付けられた。それ以降、細野諏訪神社の慰霊祭と合わせ、毎年この碑の前で遭難者遺族や地元関係者らにより遭難者を悼む法要が執り行われるようになった[94]。
長野県警では山岳事故の統計を1954年(昭和29年)からとりはじめ[95]、1982年(昭和57年)までの、長野県全体の山岳遭難の死者数は、毎年平均で40人から50人で、それ以降は減少傾向にあるものの平均30人から40人である[96]。八方尾根のある白馬村に限らず、長野県内には複数の山岳遭難対策センターが設けられ、山岳を挟んだ隣県の各県警山岳警備隊や、消防の山岳救助隊、山小屋関係者らと連携をとり、山岳救助活動だけでなく、夏山パトロールなどを通じ登山者に対して、遭難防止の啓発活動が行われている[97]。
八方尾根ケルン関連年表
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 1936年(昭和11年) | 4月4日、池田清一遭難。同年11月15日、池田小屋落成。 |
| 1937年(昭和12年) | 10月、寺田健一・松枝夫妻により銀婚式記念のケルンが建立される。今日の第3ケルン。 |
| 1937年(昭和12年)- 1938年(昭和13年) | 1937年(昭和12年)12月26日、西坂息遭難。翌1938年(昭和13年)7月、2つのケルン建立。今日の第1ケルン、第2ケルン(息ケルン)。 |
| 1961年(昭和36年)- 1962年(昭和37年) | 1961年(昭和36年)11月24日、鳥海勝雄遭難。翌1962年(昭和37年)7月、丸山ケルン建立。 |
| 1963年(昭和38年) | 石神井高等学校山岳部により石神井ケルン建立。 |
| 1965年(昭和40年) | 1965年(昭和40年)、細野諏訪神社境内に「白馬連峯遭難慰霊塔」建立。 |
| 1976年(昭和51年) | 1976年(昭和51年)7月、長野県白馬山岳遭難対策センターに「山に眠る人々の碑」建立。 |
| 1980年(昭和55年)- 1984年(昭和59年) | 1980年(昭和55年)12月26日、逗子開成高等学校山岳部6名遭難。約3年半後の1984年(昭和59年)7月12日、八方ケルン建立。 |