公孫度
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生涯
父は玄菟太守の公孫琙に官吏として仕えていた。公孫琙の早死した子の名が、公孫度の初名と同じ「豹」だったという理由で可愛がられ、その援助の下で学問を学んだ。
建寧2年(169年)、霊帝が有道の士を推挙するよう詔を下すと、公孫度は謝弼や陳敦とともに回答し、みな郎中に任じられた[2]。その後、尚書郎から冀州刺史に転じたが、謡言を理由に職を追われた。
中平6年(189年)、董卓の中郎将となった同郡出身の徐栄の推挙で、遼東太守に任じられる[3]。しかし地元には彼の出自を軽んじる名族がいくつもあったため、先んじてこれらの家を罪に当てはめ百余家を滅ぼした。
初平元年(190年)、中原の混乱を知った公孫度は、側近の官吏である柳毅と陽儀に「漢の命運は尽きようとしている。今まさに諸卿らと王位を狙うべきだ」「讖書(予言書)では『孫登が天子になる』というが、私の姓は公孫、字は升済であり、升とはすなわち登のことである」と語り、独立の意志を露わにする。遼東から海を隔てた先にある青州東莱郡に軍を派遣して攻略し、この地に営州刺史を置いた。自らは遼東侯・平州牧を名乗り、父の公孫延に建義侯の称号を追贈し、また漢の二祖(劉邦・光武帝)の霊廟を建立した。
襄平の名門をことごとく滅ぼし支配を固める一方で、高句麗や烏桓を討伐し功績を挙げ、董卓死後に実権を握った曹操に賞され、武威将軍・永寧郷侯の地位を与えられた。しかし公孫度はこの地位に不満だったため、朝廷から贈られた印綬は武器庫にしまいこんだ。また、曹操が派遣した楽浪太守涼茂は公孫度に拘束されて現地に赴任できないまま召還された[4]。
建安9年(204年)に死去。子の公孫康が位を相続した。
系譜
出典
- 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 公孫度伝 s:zh:三國志/卷08#公孫度