分部光命

日本の江戸時代中期~後期の大名 From Wikipedia, the free encyclopedia

分部 光命(わけべ みつなが[1][2])は、江戸時代中期の大名近江国大溝藩6代藩主。分部家7代。官位従五位下和泉守若狭守

時代 江戸時代中期
別名 熊之助[1]、隼人[1]、風斎(致仕号)[1]
概要 凡例分部光命, 時代 ...
 
分部光命
時代 江戸時代中期
生誕 正徳4年1月8日1714年2月22日
死没 天明3年11月17日1783年12月10日
別名 熊之助[1]、隼人[1]、風斎(致仕号)[1]
戒名 直心院殿円空慶筭大居士[1][注釈 1]
墓所 滋賀県高島市大溝の円光寺
官位 従五位下和泉守若狭守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
近江大溝藩
氏族 分部氏
父母 分部光忠、谷氏
兄弟 光命恒河忠徳長野忠睍長野忠栄
渡辺久龐姉小路公文室、山本実観室、
上田義敷室、沢井元直養女
今村氏 ほか
光庸三淵澄鮮三淵澄盈施薬院宗顕中條康永命誠松平堅房正室、
角倉玄寿室、長岡栄之室、恒川忠栄
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生涯

正徳4年(1714年)1月8日[2]、5代藩主・分部光忠の長男として誕生[1][2]。母は側室の谷氏で[1]、嫡母(父の正室)である田村氏(田村誠顕の娘)に養われた[1]

享保14年(1729年)2月28日、16歳で徳川吉宗御目見[1]享保16年(1731年)、父の死を受けて、5月6日に遺領相続が認められる[1]。同年12月23日、従五位下和泉守に叙任[1]。享保18年(1733年)4月15日、初めて領国入りするための暇を与えられる[1]延享元年(1743年)5月12日、若狭守に遷る[1]

延享4年(1747年)には城下で大火が発生し、6町170軒が焼失する大きな被害を出した[3][4](「大溝の大火」と呼ばれる[4])。寛延2年(1749年)にも56軒を焼く大火が発生している[4]

宝暦4年(1754年)9月7日、長男・光庸に家督を譲って隠居[1]宝暦10年(1760年)には病気療養を理由に摂津国有馬温泉にて保養した。[要出典]

明和6年(1769年)に剃髪して[要出典]風斎と号する。天明3年(1783年)11月17日[2][注釈 2]、大溝において死去[1]。享年70[1]

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[5]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

  • 父:分部光忠
  • 母:谷氏
  • 側室:某氏
  • 側室:今村氏[6]
  • 側室:某氏
    • 二男(3):三淵澄鮮 - 熊本藩士三淵澄定の養子
    • 二女(4) - 角倉玄寿
    • 三女(5) - 熊本藩士長岡営之松井営之)室
    • 三男(6):三淵澄盈 - 実兄・澄鮮の養子
    • 四女(7) - 家臣恒川忠栄室
    • 四男(8):施薬院宗顕 - 施薬院宗隆の養子
    • 五男(9):中条康永 - 尾張藩士中条康隆の養子
    • 六男(10):分部命誠

補足

  • 『寛政重修諸家譜』では、光命の項に「室」(正室)の記載がない[1]
  • 三女が嫁いだ松井(長岡)家は、熊本藩筆頭家老・八代城代を務め、3万石を知行する家である[7]。営之の孫にあたる存之(家督相続前に死去)も分部家から妻を迎えている[8]
  • 二男と三男が入った三淵家は、熊本藩で5000石を給され家老を輩出する家である[9]
  • 五男の中条康永は尾張藩の中条(中條)家1500石を継ぎ、のちに名古屋城代を務めた。武道の達人で、暴れる猪を乗り伏せたという逸話があるとともに、狩野派の画にも通じたという[10]

備考

  • 大溝(現在の高島市勝野地区)で21世紀初頭も清酒醸造を続けている福井弥平商店の銘柄「はぎの露」は、創業時の藩主であった光命が「萩乃露」と命名したのが由来であるという[11]

脚注

参考文献

外部リンク

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