分部光寧
日本の江戸時代後期の大名
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生涯
大溝の近藤重蔵

文政9年(1826年)5月15日、幕臣で探検家の近藤重蔵が、長男の起こした殺人事件に連座して江戸を追われ、大溝藩に預けられた[3]。
藩は緊急に陣屋敷地内に牢屋敷を増築し、これを迎えた。光寧は重蔵を丁重に扱ったと言われている。時の著名人でもあった近藤は、小藩といえど京に近く学問や見識を得ることへの関心が高かった大溝藩では格好の珍客とも言え、近藤は書物を与えられ、藩士を相手に意見交換を行ったり、藩士と漢詩を唱和したりしていたことが伝わる。近藤はまた、大溝で本草学書『江州本草』全30巻を著した。大溝を中心とした近江国の植物の、いわゆる植物図鑑であったとされるが、現存しない。近藤は流罪中の罪人であり、当初の監禁状態が緩んでいたとしても陣屋周辺の散策採集であり、近江国内を自由に出歩くようなことはできなかったため、当然ながら大溝藩内部の協力があったと推測される。
近藤は生前に赦免されることはなく、3年後の文政12年6月16日(1829年7月16日)に大溝で死去し、藩内の瑞雪院に葬られた。墓所も現存している。