前野時綱

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 建永2年(1207年)?
別名 通称:右馬三郎兵衛尉、三郎兵衛尉
 
前野時綱
時綱が建てた前野天満社
時代 鎌倉時代
生誕 建永2年(1207年)?
死没 文永11年8月10日1274年9月11日
別名 通称:右馬三郎兵衛尉、三郎兵衛尉
官位 右馬寮兵衛府?
幕府 鎌倉幕府
主君 後鳥羽上皇中島宣長
氏族 良岑氏前野氏
父母 父:滝口宗安
母:越後国頸城郡菅原天満社の社家吉田氏の娘
兄弟 前野時綱前野宗時小弓宗長
前野時基、女子
テンプレートを表示

前野 時綱(まえの ときつな)は、鎌倉時代末期頃の武士土豪である[1]通称右馬三郎兵衛[2]前野家四代目当主[2]

建永2年(1207年)、前野家当主で滝口武者滝口宗安嫡男として生まれる[2]前野三郎兵衛尉時綱を名乗った[2]

父が平忠盛平忠度親子の家臣であり、源氏との戦いに負けたため、大和国生駒山中に隠れて生活していた[1][2]承久の乱の際には、院宣を受けて河内判官代藤原秀康か)の旗下に参ずるべく、父宗安とともに城南寺へ駆けつけた[1][2]。尾張川の合戦では父宗安や中島宣長とともに洲俣川を守ったが、武田信光らの軍との戦いに敗れたために再び大和国へ敗走した[1]

承久3年(1221年)の春、生駒氏の協力のもと当時の六波羅探題に願い出て許され、尾張国丹羽郡前野村に戻る[1][2]。前野村に戻ってからは、文永5年(1268年)8月25日に菅原天満宮(現前野天満社)を勧請し尾張大介職となった中島宣長の家臣となる[2]。宣長の元では、軍馬を育成する馬寮下司(馬を扱う役人)となり、馬術などの武門の基礎がよくできていたといわれている[1]。また、同年9月に前野村八屋敷の東の一角に金光山蓮華寺を建立し、先祖の菩提寺とした[2]

文永11年(1274年)8月10日、享年68で死去する。

前野氏

子孫

脚注

Related Articles

Wikiwand AI