前黎朝
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史
前黎朝の創始者である黎桓(レ・ホアン)は、丁朝大瞿越の建国者である丁部領(ディン・ボ・リン)に仕えていた。黎桓は丁部領の下で十道将軍に任じられ、軍事を司っていた[2]。
979年の丁部領の暗殺後、黎桓は副王として国政を執る中で太后の楊雲娥との仲が親密になり、敵対する勢力を討伐した[3]。チャンパ王国に亡命していた呉権の子孫である呉日慶(ゴ・ニャット・カイン)が、同年に王位を要求して華閭に侵攻しようとしたが、黎桓は呉日慶を撃破した[4]。丁部領の死を知った宋は安南への出兵を決定[2]し、宋の侵攻を前にして丁朝の将兵は黎桓を新たな君主に推した[5][6]。楊雲娥は子の皇帝丁璿(ディン・トアン)を守るために黎桓と再婚し、新たに黎桓が帝位に就いた[2]。
981年に白藤(バクダン)江の戦いで大瞿越軍は海路から侵入した宋軍に勝利し、諒山(ランソン)でも陸路から侵入した宋軍を破った。
982年にはチャンパに親征して都インドラプラを攻略し、チャンパ王インドラヴァルマン4世は南方に逃れた。983年に宋への朝貢を再開し、この時にチャンパ遠征の戦利品と思われる乳香や犀角を納めた[7]。大瞿越軍がチャンパから撤退した後、黎桓の配下であった劉継宗(ルー・ケ・トン)がチャンパで占城王を称した。南方にはインドラヴァルマン4世と劉継宗の政権が並立し、インドラヴァルマン4世は宋に助けを求めた[8]。宋は黎桓にチャンパへの侵入を禁じたが、黎桓は宋の禁令に従わず、989年と992年の2度にわたってチャンパに侵入した[8]。
1005年の黎桓の死後、各地に分配した皇子たちの内訌によって国力は低下した[2]。黎桓の三男の黎龍鉞(レ・ロン・ベト)が即位するが、わずか3日で廃位された[5]。代わって黎龍鉞を殺害した弟の黎龍鋌(レ・ロン・ディン)が即位する。黎龍鋌は残忍な性格で知られ、罪人に過酷な刑罰を下すことを好んだという[9]。黎龍鋌の死後、1009年末に僧侶と廷臣の支持を受けた禁軍の指揮官の李公蘊が帝位に就いた[10]。後代に中国で編纂された史書には、李公蘊が即位の際に幼帝を殺害したと記されている[9]。