剣山
徳島県の山
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概要
剣山は千数百メートルの山々が連なる四国山地の東部にあり、同じく四国山地西部の愛媛県の石鎚山に次いで近畿以西の西日本では2番目の高峰である。一帯は剣山国定公園に指定され、山頂には一等三角点「剣山」が設置されていて、一等三角点百名山にも選ばれている。

修験道の山として古くから知られ山岳信仰の対象とされ、一ノ森経由の表参道の登山拠点には藤之池本坊と劔山本宮劔神社[注釈 1]があり、見ノ越には円福寺と劔神社がある。また、中腹には西島神社と劔神社の本社である大劔神社、山頂には劔山本宮宝蔵石神社などがあり、山頂近くには「行場」(後述)と呼ばれる修行用の難所や祠がある。

先述の日本百名山(93番)と四国百名山(81番)に選ばれているほか、四国八十八景(15番)西日本第二の高峰からの大パノラマとしてとくしま88景の徳島県の代表景観9選に「剣山系」として選ばれている。また、山頂付近の「劔山御神水」は環境省により名水百選に選定されている[2]ほか、山麓の森林は林野庁により「剣山水源の森」として水源の森百選に選定されている[3]。
山名
頂上はなだらかな草地で、少しも剣らしいところがないが頂に近い所に大剣と呼ぶ巨岩(大劔神社の大剣岩)が立っていて、それをもって山全体の名とするわけにはいかない。膨大な山容から見るとそれはほんの一点景にすぎない。伝えによれば安徳天皇の剣を山頂に埋め、これを神体としたから剣山と呼ばれるようになったという。見ノ越の円福寺の寺伝には「・・安徳帝(略)・・の遺言にわが帯せし剣は清浄の高山に納め守護すべし、とあったので、御剣を当山に納め、劔山大權現を勧請された」とある[4]。
江戸時代以前は、一般人が登る山ではなく、「立石山」「石立山」とか、「小篠(こざさ)」とか呼ばれていたが、江戸時代以降に登拝者が増えるとそれに応じた「剣山」となった。そこで徳島県を中心に「けんざん」と呼ぶ人が多く、その呼び名についての論争があった[5]が1963年、徳島県は「つるぎさん」として統一することを決め、剣山の近隣自治体の名前は「つるぎ町」であるなど公式には「つるぎ」で統一された。
歴史
長福寺は1717年(享保二年)龍光寺と改名し、傘下の山伏修験者先達によるその信者客を剣山山頂からの御来光の遥拝と行場体験参拝を呼び物とした剣山開発に取り組み、そのためのコリトリ(垢離取)から一の森経由での登山口になる宿泊所となる藤之池本坊と前神社となる劔山本宮劔神社を創設し、人気を得て繁栄した。それを見た円福寺は見ノ越(蓑越)に不動堂と劔神社と宿泊施設を創立した。これで木屋平と祖谷山からの二つのルートが開かれ剣山への登山は発展していった。
自然
劔山御神水

劔山御神水(つるぎさんおしきみず)は、山頂部の石灰岩が風化した浸水性のある岩石で、積雪や雨水が帯水され少しずつ湧水している[6]。祖谷川の源流であり、水量は少ないが常に湧き出ている。大劔神社の御神水とされている。
植生
標高が高いため、山頂近辺には温帯上部の針葉樹林の要素が見られる。山頂付近にはコメツガ、ウラジロモミのほか、固有種のシコクシラベが生育しており、一部は林野庁により鎗戸林木遺伝資源保存林に指定されている[7]。
亜高山帯の環境構成で、多くはコメツガ、シコクシラベ、ブナ、ダケカンバ等の混交林であるが、標高1,000m付近以下の地域ではスギ等の人工林が多い[8]。
キレンゲショウマの群生:刀掛けの松から左へ5分行ほど行場の方へ行き分岐を下方に行くと7月下旬ころ咲く。
動物
環境省レッドリストにより「絶滅のおそれのある地域個体群」に評価されているツキノワグマの四国山地個体群が分布している。これらのことより、国指定剣山山系鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積10,139ha、うち特別保護地区1,189ha)。
ニホンジカの急増が問題になっており、シカが下草を食べることで昆虫が減少しコマドリが従来の生息域で見られなくなるなど、影響が出ている[8]。
地質
「剣山」の地質を説明する前に、まず四国の地帯(地体)構造のうち、重要な地質境界線である「中央構造線」より南側の地質構成を説明する。北部には結晶片岩類などの高圧型変成岩類が分布する「三波川帯」(さんばがわたい)が東西走向に分布しており、中部には「ジュラ紀」の「付加体」などからなる「広義の秩父帯」[注釈 2]がほぼ東西走向に分布しており、その南側に「白亜紀」から「古第三紀」にかけての「付加体」を主体とする「四万十帯」が分布している、という構成となっている [9] 。
この「剣山」は、ここでいう「広義の秩父帯」分布域に位置している。
まず「剣山」の山頂部付近の地質について述べると、「ジュラ紀」の、非変成の「付加体」からなっている。細かく見ると、このゾーンでは「メランジュ相」[注釈 3] の地質体が広く分布しているが、部分的には「チャート」岩体が、いわゆる「レンズ状」に東西に長軸を持ち点在している。「剣山」山頂部にある「宝蔵岩」は、この「チャート」分布域にある[10]。
また、「石灰岩体」が、長軸方向(北東―南西軸)に約 2 km、幅が最大で約 200 mのサイズの、いわゆる「レンズ状」の岩体として、頂上のやや北側に分布している。「大剣神社」のご神体ともなっている「大剣岩」は、この「石灰岩」分布域にある[10]。
これら、「メランジュ相」地質体や「チャート」岩体、「石灰岩」岩体は、「ジュラ紀」の付加体であり、「広義の秩父帯」の一部である「秩父北帯」に帰属している、と位置付けられている[11]。
一方、「剣山」の北側、「見ノ越」付近(標高 約1500 m)には、北東 ー 南西走向の地質境界線がある。この地質境界線よりも北側、「見ノ越」の峠やその北側にある「丸笹山」の南面や山頂部は、主に「泥質千枚岩」が卓越し、部分的に「変成チャート」岩体が分布しており、弱く変成作用を受けた変成岩のゾーンとなっている[10]。この、「泥質千枚岩」や「変成チャート」などの、弱く変成作用を受けた地質体群の位置づけは、必ずしも明確ではないが、最近の研究によると、泥質岩中の「放散虫」(ほうさんちゅう)[注釈 4] に基づく年代より、原岩は、「広義の秩父帯」のうち「ジュラ紀」の非変成の付加体である「秩父北帯」と同じく「ジュラ紀」の付加体であり、「白亜紀」に「三波川帯」と同じ高圧型変成作用の影響を多少受けている地質体群、と考えられている[12]。
一方、剣山の南側は、大部分が山頂部付近と同じく、「メランジュ相」の地質体と「チャート」岩体が分布している[10]。
登山
- リフト利用
4月中旬~11月末頃運行の剣山登山リフト(冬季は運休)は、見ノ越駅(標高1420m)から登山道中央付近の西島駅(標高1750m)までの全長830mを15分で結ぶ、残りは刀掛ノ松コース(尾根道コース)だと900m約40分で山頂エリアに達し、もう一つの大劔神社経由のコースだと1200m約60分で山頂エリアに達する[13]。日本百名山の中では筑波山や伊吹山、大台ヶ原山と並び、最も登りやすい山のひとつでもある。さらに頂上標識から約1時間で次郎笈へ、頂上ヒュッテから約40分で一ノ森へ行ける。
- リフト利用なし
見ノ越の駐車場(約200台収容で無料)から石段を上がった劔神社の社殿脇に登山口があり、リフトと交差したり並行して約1時間でリフトの西島駅に到達する。
- 見ノ越までの交通
三好市の祖谷渓から、祖谷川沿いを遡る国道439号と穴吹町から穴吹川沿いを遡る国道439号の2ルートもあるが、最短コースは徳島自動車道の美馬インターチェンジより「道の駅貞光ゆうゆう館」から貞光を経由し貞光川沿いを遡る国道438号で南下すること44km約1時間40分で見ノ越に達するコースがある。
- 山小屋
- 山頂
山頂付近は平家の馬場と呼ばれる平原である[14]。山頂の平家の馬場や尾根付近はミヤマクマザサを中心とする草原となっている[8]。
ギャラリー
測候所
行場
周辺
国有林の剣山自然休養林があり、登山リフトのほか剣山野営場が整備されている[16]。
- 劔神社:見ノ越にある神社で徒歩登山口となる。宿泊所あり。
- 円福寺:見ノ越にある寺院・宿坊で、上記神社に並んで建つ。劔山大權現を祀る。
- 劔山本宮劔神社:木屋平川上カケにある神社。一の森経由での登山口である。
- 藤之池本坊:木屋平川上カケにある寺院で劔山大権現を祀る。一の森経由での登山拠点である。
- 剣山スキー場:見ノ越からつるぎ町一宇に約5キロメートル下った位置にがあり、自然雪のある休日に限ってゲレンデが開放されている。
- 剣山スーパー林道:日本最長の未舗装道が南側山麓にある。
- 奥祖谷二重かずら橋:かずら橋が2本並んで架かっている。
- 劔神社
- 円福寺
- 劔山本宮劔神社
- 藤ノ池本坊
ソロモンの秘宝剣山埋蔵説
元小学校教師で聖書研究家の高根正教(1885-)が『ヨハネの黙示録』と『古事記』の一節から[要出典]編み出した自説をもとに、ソロモンの秘宝は剣山に埋まっているとして、昭和11年から剣山の山頂付近で発掘を始め、150m掘り下げた辺りで玉石などを発見したとするが、戦争で中断した[17]。戦後、元海軍大将の山本英輔、仲木貞一、中村資一郎(下関市の宇宙道教教祖)らが発掘隊を結成して1か月間作業したほか、、竜宮教教祖の伊藤妙照(築地の高級料亭「錦水」女将の妹で、のちに乙姫の名で占い師となった[18])も入山したり、発掘中に岩の下敷きになって死亡した者まで出たが目ぼしい成果はなかった[17][19]。なお、山本隊が発掘中にミイラ100体を発掘したという話が噂されたが[20]、そのような事実はないとされている[17]。
昭和32年(1957)からは北海道で農業をしていた宮中要春(1901-1981)が発掘を始め、76歳までの20年間作業を続けた[17]。宮中は頂上ヒュッテや神社に寝泊まりし、昼は発掘、夜はランプの灯りでヨハネの黙示録を読む生活を送っていたが[21]、剣山が国立公園や自然休養林に指定されたことから県から発掘中止の要請があり、自身の病もあり、宝を見つけることなく死去した[22]。


