劉隠

南漢の創始者 From Wikipedia, the free encyclopedia

劉 隠(りゅう いん、乾符元年(874年) - 乾化元年3月3日911年4月4日))は、節度使後梁の南海本貫汝南郡上蔡県。遠祖はアラブ系という説もある[1][2]

賢士・名士を好み、唐末や後梁の混乱で中央から逃れてきた多くの人材を登用して[3]十国南漢の基礎を作り上げた。

生涯

乾符元年(874年)、劉知謙の嫡出の長男として生まれる。乾寧元年(894年)に父が死去したため、その後を継いで封州刺史となる[3]

広州で反乱が起こると、その鎮圧に功績を挙げたことで天祐2年(905年)に哀帝から清海軍節度使中国語版に任じられた[3]。そして広東広西に勢力を拡大して半独立勢力を築いた。唐に代わって後梁が成立すると、太祖に臣従して開平3年(909年)4月に南平王に封じられ[4]乾化元年(911年)には南海王に改封された[5]。しかしその直後に病に倒れて死去した。享年38[3]

男子がいなかったため、後を弟の劉巌が継いだ。貞明3年(917年乾亨元年とした)に劉巌が皇帝を称すと、襄皇帝の諡号[3]と烈祖の廟号をもって追尊され、徳陵中国語版に葬られた[4]

宗室

父母

  • 父:劉知謙(南漢の代祖)
  • 母:韋氏中国語版 - 南漢成立後に武皇后と追尊された。

女子

兄弟

  • 弟:劉臺、劉龑(劉巌、南漢の高祖)

出典

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