助光
名古屋市中川区の地名
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地理
歴史
町名の由来

江戸期の海東郡助光村を前身とする。 助光氏の所有田があったことに由来すると言われるが不詳という[3]。『尾張国地名考』においても「地名人の名に出る歟 猶訂すべし」としている[4]。
中世
中世まで海東郡富田荘の一部であった。「助光」という地名は鎌倉時代から見られ、14世紀前半に描かれた『尾張国富田荘絵図』(円覚寺文書)において庄内川の西に「助光」と記載されているのが初見である[5]。絵図中には鳥居も描かれており、土之宮神明社は鎌倉後期には既に存在していたらしい。中世、当地には助光城という城が築かれており、織田信長の家臣である福留左近将監の居城であったと言われているが[5]、詳細は定かでない。現在は土之宮神明社に竹藪から発見された石碑が建てられているのみである。このほか戦国時代に書かれた『信雄分限帳』には、1584年(天正12年)頃に織田信雄の家臣である「生駒満」という人物の知行地があった場所として「すけミツ」と記録が残っている[3]。
近世
江戸期には、海東郡助光村が成立する。当時の助光村は、現在の富田町大字助光の全域と助光、前田西町、一色新町、大当郎、伏屋の各一部に当たる。『尾張徇行記』によれば江戸時代の助光村は農業が中心の村で[5]、当時は土地に対して人口が多かったため周辺地域へ働きに出る者がいたという[5]。また酒屋や小商いを営む者もおり、兼業として筵の生産も行われていた[3]。近くにある佐屋街道の万場宿や岩塚宿に人手を送ることもあったという[3]。388石が高橋図書らの尾張藩士7人の給地であった[3]。『寛文村々覚書』によると、助光村は概高443石、家数45、人口234人、馬12頭[3]。文政年間においては家数は87、人口358人[5]。
明治以降
1889年(明治22年)に、助光村は万須田村大字助光となった[3]。その後富田村大字助光を経て、1955年(昭和30年)に名古屋市に編入され富田町大字助光となった[3]。昭和期までは水田地帯で稲作や野菜の促成栽培などが行われていたが[3]、1950年代以降公営住宅の建設が進められ[3]、宅地化が進行した。1980年代以降、町名整理も進められ富田町大字助光の大部分が助光などの新たに制定された町名に編入されて現在に至る[1]。
行政区画の変遷
富田町大字助光
助光
世帯数と人口
学区
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる[WEB 7]。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[WEB 8]。
| 丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 |
|---|---|---|---|---|
| 助光一丁目 | 全域 | 名古屋市立長須賀小学校 | 名古屋市立助光中学校 | 尾張学区 |
| 助光二丁目 | 全域 | 名古屋市立西前田小学校 | ||
| 助光三丁目 | 全域 |
