十村制

加賀藩の農政制度 From Wikipedia, the free encyclopedia

十村制(とむらせい)は、江戸時代加賀藩の第3代藩主前田利常が制定した農政制度で、領内の各地で勢威と信望が厚かった郷士(地士・山侍)、年寄、名主、大百姓十村として懐柔し、いわば現場監督として利用することで、農村全体を管理監督し徴税を円滑に進める制度である。地元社会での権威と実務能力を持つ者として藩から任命され、農民の代表者でありながら藩の命令を厳格に執行する二重の責任を負い、藩の財政安定と農村秩序の維持という重大な役割を果たした。改作法施行にあたって、十村はその業務範囲を広げ、加賀藩・富山藩大聖寺藩における農政の実務機関としての役割を十全に果たした。

十村

十村制のために特権を付与された領内の各地で勢威と信望が厚かった郷士(地士・山侍)、年寄、名主、大百姓十村と称する。彼らは、旧来の有力豪農(園田道閑)や帰農した旧武家(時国家、北村家や岡部家)など藩主から信任を得て任命された場合が多く、一向一揆の監視対策も兼ね、所属宗旨としては真言宗や禅宗に属する場合がほとんどである。ただし、礪波郡など浄土真宗門徒が多くかつ勢力が大きい地域では、その限りではない。十村は、郡奉行あるいは改作奉行の下位、肝煎庄屋の上位に位置し、藩の最高指導部(奉行)と末端の村役人(肝煎・庄屋)の間に位置する、支配体制の中核的な存在(中間管理職的存在)であった。十村は慶長9年(1604年)にこの役職が初めて制度化された際、当初おおよそ十カ村ぐらいの組の支配を受持ったことに由来すると言われている。初期に10カ村内外の組分けであったものが、藩政の安定と十村役の整理・統合に伴い、次第に管轄下の村数が増加し、大組化していった。十村は、上位から、組無御扶持人十村(組みを持たない、郡の十村の総監督で首座)、組持御扶持人十村(組みをもつ)、平十村(藩からの扶持は受けないが組を支配する)に区分され、さらに各区分が三分される計九段階の序列があった。十村には役料として支配下の15歳から60歳の男子から年に米二が徴収され充てられた。世襲ではないものの、基本的には村を束ねる豪農が任命されるため、事実上世襲に近い状態であった。一人の十村が管轄する範囲を「組」と呼び当初は十村の名前を冠して呼んでいたが後に地名を冠するようになった。この変遷は、藩の支配体制の強化に伴い、特定の豪農個人に依拠した呼称から、行政区域としての統一的な呼称(地名)へと移行したことを示している。

十村制制定の経緯

背景

加賀藩の藩祖である前田利家は、織田信長の命を受けて加賀一向一揆を鎮圧したが、その際に門徒1000人以上を処刑したといわれる。この一揆に対する弾圧により労働人口が減少したため、加賀藩では江戸時代に入った後も年貢の徴収ははかどらなかった。一方、前田家は100万石を有する強大な外様大名であったため、江戸幕府から度重なる普請や軍役を命ぜられ、あるいは家格を維持するための交際費などにより、その支出はかさんでいった。このため徴税にあたる家臣代官(年貢の徴収にあたる彼らを総称して「給人」と呼ぶ)は、さらに厳しく年貢を取り立てようとしたが、父祖を殺戮された農民たちの怒りを増大させ、捨て身のサボタージュや逃散を招くばかりであった。しかもこれ以上に農民を追いつめて大規模な一揆を起こされた場合、幕府に介入の糸口を与え、藩の運営能力を問われた末に減封改易を受けることは免れ得ない、まさに危機的状況にあった。

前田利常

前田利家の長男利長の才能を恐れた徳川家康は利長を隠居させ、自分の孫娘珠姫を嫁がせた利常に家督を譲らせた。しかし、珠姫の父徳川秀忠が危篤状態になった寛永8年 (1631年) 謀反の疑いありとして利常は江戸の藩屋敷に軟禁される。軟禁は3年間続き、不思議なことには結局許されたが、自分の置かれた危うい立場を肝に銘じた利常は、表面上は愚者を装いながら藩政の安定化を図ることになる。

農政改革

給人制度の欠陥は、2つあった。一つは、徴税にあたるのが藩の役人または家臣であったために農民の反感を招いたこと。もう一つは、各給人がそれぞれの知行地の年貢を徴収していたことであった。知行地は入り組んで配置されていたため、近隣の給人間で競争意識が強く、年貢の徴収は厳しくなった。また、ある農民が逃亡し別の知行地に逃げ込んだ場合の捕捉が困難であった。一方、農村部では一向一揆の際に組織された門徒指導者を中心とする社会秩序が江戸時代に入って以降も厳然と機能していた。これに着目した利常は、農村の監督・徴税を農村の有力者に委ねることとした。一部の給人たちは抵抗を見せたが、多くは農民をおどしたりなだめたりしながら貧しい彼らから搾取することに疲れ果てており、抵抗はそれほど強くなかったという。


要約:「武家による地方知行制の弊害の解消」「真宗教団勢力への配慮」「有力百姓の登用」「改作法という基本農政の確立」を経て完成した。

詳細

1. 制定の背景と初期の試み(天正・慶長年間)

(1) 武家支配の弊害と農民の抵抗への対処

十村制は、加賀藩独自の農政である改作法(かいさくほう)と表裏一体であり、その制定の最大の動機は、不安定な戦国時代末期の支配体制を改めることにあった。

地方知行制の弊害:藩政初期には、家臣(給人)が自分の知行所(土地)から直接農民に年貢を取り立てる地方知行制が残っていた。この制度の下では、給人が貪欲に年貢を苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)したり、法度の解釈適用に難易が生じたりする恐れがあり、農民と給人との間に紛争が絶えなかった。

一向一揆勢力への配慮:特に砺波地方を含む越中や加賀の農村は真宗教団(一向一揆)の勢力が強く、強固な団結力と抵抗力を持っていた。藩主前田氏は、この地域性を考慮し武力による強圧的な支配ではなく、農民を心服させる形で封建政治の確立を図る必要があった。

(2) 有力百姓の登用と十村役の創始

藩は、農民の反発を抑え、藩命を円滑に浸透させるため、現地の有力者を登用する方針を採った。

登用の対象:領内の各地で勢威と信望が厚かった郷士(地士・山侍)、年寄、名主、大百姓を村役人に起用した。

扶持百姓の時代:藩政初期の天正9年(1581年)から慶長9年(1604年)頃まで、郷士・国侍・大百姓らに扶持(給与)扶持百姓とし、次第に十村肝煎(十村頭)十村組を設定した。

十村名の初見慶長9年(1604年)、前田利長が初めて十村役を設置したといわれている。この年、能登奥郡に藩から本保与次右衛門が派遣され、およそ十カ村程度を支配したことから、「十村」と名付けられた。越中では同年、野尻村彦右衛門や下中条村又右衛門らの名が十村として初見されている。

初期の十村の構成:十村は、初めは武士を任命していたが、百姓の支持が得られず治績が上がらなかったため、寛永の中頃から百姓身分の庄屋や名主をもってこれに代えるようになり、農民も心服するようになった。

2. 制度の確立と改作法の完成(寛永・慶安年間)

十村制は、三代藩主前田利常の治世に本格的な農政(改作法)と連動することで確立した。

(1) 改作法の着手と御扶持人十村の設置

改作法の施行:寛永年間末から慶安4年(1651年)にかけて、利常は改作法に着手し、明暦2年(1656年)にほぼ成就した。改作法は、家臣が直接農民から年貢を取り立てることを禁じ、藩が年貢(蔵米)を一括収納し、対免法(定免制)によって家臣に給与する俸禄制を実質的に確立した。

改作奉行と御扶持人:改作法の推進には中央における責任者が必要となり、慶安元年(1648年)には改作奉行が常置された。さらに、改作法実施に伴い、十村の上に御扶持人が置かれた。これは、農民の代表者に高い権威を与え、農民の納得ずくで改作法が実施されるようにすることが趣旨だった。御扶持人は承応2年(1653年)から万治元年(1658年)までに、加越能三カ国から20人ほど選ばれている。

(2) 土地管理制度の導入

田地割(碁盤割)の創始:寛永19年(1642年)頃から、藩は田地割制度を一部の村で開始した。これは、土地の品質の不均衡を是正し、農民の年貢負担の公平化を図るため、個人の持高を変えずに耕地を割り換えさせる制度であり、改作法の実施に先立って行われた。

村御印の交付:検地によって一村の石高(草高)と免(年貢率)が決定され、明暦2年(1656年)8月晦日に村御印(年貢の割符状)が正式に各村へ渡された。

3. 十村代官制と正式な制度化(万治・寛文年間)

(1) 十村代官制への移行と「十村」の正式名称化

十村代官の創設:万治2年(1659年)に十村代官制が敷かれた。これは、武士の代官が農村視察に疎く、農民と疎隔しがちだった弊害を解消するため、十村に代官の職務の一部を担わせる制度だった。

「十村」への呼称統一:慶長当初は「十村肝煎」や「十村頭」と呼ばれていたが、万治(1658年〜1660年)以降、略称の「十村」が単独で正称として用いられるようになった。

(2) 支配機構の完成と分役の設置

寛文年間(1661年~1673年)には、十村を補佐する専門職が設けられ、支配機構が完成した。

山廻役の設置:寛文3年(1663年)に、山林の保護と、七木(藩が伐採を禁じた樹種)の制の取り締まりを目的として山廻役が創設された。

新田才許(才許)の設置:新田開発の調査・管理を行う新田才許が十村分役として置かれた。

無組御扶持人:寛文元年(1661年)に、一郡全体の十村を監督する無組御扶持人が置かれた。彼らは公正厳正な立場を執るため、直轄の組(村)を持たされなかった。

かくして十村制は、藩の最高行政官僚(改作奉行、郡奉行、算用場奉行)の指導の下、御扶持人十村や組持十村が数十カ村を統轄し、肝煎や組合頭を通じて一般農民を掌握・統制する、藩の農政を効率的かつ安定的に実現するための階層的支配機構として確立されたのだった

十村制のメリット

農民にとってのメリット

  • 父祖を虐殺した仇敵である前田家の侍や役人ではなく、父祖の時代から信頼篤い農民が徴税に当たるため抵抗感が少ないこと。実際、十村制導入以後、逃散する農民は激減した。
  • 税負担の公平化:十村の監督の下、田地割(地割、碁盤割)と呼ばれる制度が実施された。これは、年数が経って生じた土地の地味や収穫高の不均衡を是正するため、個人の持高を変えずに耕地を一定年限ごとに割り換える制度であり、年貢負担の公平化を図ることを目的としていた。
  • 生活と耕作の維持:凶作などで農民が困窮した際、藩は作付けに必要な食糧米(作食米)を貸し付け、秋の収穫時に返納させる助成制度を確立した。これにより、貧しい農民も耕作を続けることができた。
  • 相互扶助体制:十村の下には肝煎(村長)、組合頭、そして五人組(または十人組)が組織され、町人百姓の管理や、組内での心掛けの悪い者の報告、家計が苦しい者への手助け(手伝)など、相互扶助が行われる体制が機能していた。
  • 武士との直接的な衝突の回避:改作法と十村制の導入により、戦国時代の名残で武士が力ずくで年貢を取り立てる状況がなくなり、武士と農民が互いに困窮する事態が避けられた。

十村にとってのメリット

  • 既得権を加賀藩から追認された形となり、扶持も与えられること。しかも、その権利は多くの場合世襲に近い形で継承されて行くこと。十村に任命された家々は、広範な行政権限と経済的優遇を得ることで、地域社会における確固たる地位を確立した。

権威と社会的地位の向上

  • 藩士に準ずる待遇:十村、特に御扶持人十村は藩から扶持(給与)を与えられ、藩士に準じた待遇を受けていた。
  • 公的な栄誉:十村と十村分役(新田才許・山廻役など)は、毎年正月には金沢城に召集され、藩主にお目見えする儀式(お目見え)に参加した。彼らは藩主の権勢に感動し、最高の栄誉を担ったと記録されている。
  • 広範な行政権限:十村は、数カ村から数十カ村を統轄する百姓頭として、年貢徴収、警察・司法事務、縁組、土地家屋の売買、宗門改め、碁盤割の実施など、農民の生活全般にわたる広範な権限を藩から委任された。

経済的利益と富の蓄積

  • 役料(鍬米)の徴収:平十村は、組内の15歳から60歳までの男子一人あたり米二升を「鍬米(くわやきまい)」として役料として徴収することが許されていた。
  • 資産の増大:十村は地方の旧家豪族の後裔であり、藩政を通じて土地の兼併(買い集め)を進め、豪農化・富豪化していった。彼らの多くは、新田開発への投資や商業活動(例:五ヶ山判方商人)を通じて資本を蓄積した。
  • 褒賞制度:年貢の収納を完遂した十村には、褒賞制度が設けられており、領国一番皆済の場合は銀子五枚と紬二端、郡一番の場合は銀子三枚と紬二端が与えられた。

藩にとってのメリット

財政基盤の確立と強化

  • 年貢収入の固定化:藩は、土地の生産性に基づいた定免法(豊凶に関係なく一定の税率)を導入し、年貢の徴収を確実に行う体制を確立した。
  • 給人(家臣)支配からの脱却:給人(藩士)が知行所から直接年貢を徴収する地方知行制を禁止し、藩が年貢を収納し、給人には蔵米を俸禄として支給するシステム(実質的な俸禄制)を確立した。これにより、武士の生活の安堵が図られた。
  • 増産政策の推進:十村は、農民に耕作を奨励し、生産高を向上させるという藩の方針(改作法)を実行する末端機関となり、農民の担税力を強化した。
  • 新田開発の促進:十村分役である新田才許が配置され、荒地の開墾や新村立てが藩の計画に基づき進められた。これにより、藩の収益源である新開高が増加した。

統治機構の効率化と安定

  • 強固な支配組織の構築:藩は、地域で勢威と信望のあった郷士、国侍、または大百姓を十村に登用し、藩の意思を末端まで浸透させる郷村支配組織を確立した。
  • 藩命の確実な伝達:十村は藩と農民の中間に位置し、藩の御触れ(法度)や農政上の指示を、肝煎や組合頭を通じて農民に迅速かつ確実に伝達・徹底させた。
  • 農民の逃散防止:十村や肝煎は、農民の逃亡(走り百姓、逃散)を厳重に取り締まり、農村の労働力の確保に努める責任を負った。

十村制が招いたこと

利常は50年にも及ぶその治世の大半をこの改革に費やし、十村のシステムを完成させたのであった。この結果、家臣は農村からの直接収入を奪われ、藩から支給される扶持により生計を立てることになる。これが後の5代藩主綱紀や6代藩主吉徳らの藩主独裁を目指す藩政改革、ひいてはその後の加賀騒動へとつながるのである。

また、十村は初期に浦野事件(1665年 - 1667年)に加わった園田道閑らを例外として、藩体制の末端として、百姓一揆の矢面に立たされる存在となっていった。

19世紀初頭(文化、文政年間)に藩主を務めた前田斉広が疲弊した農村を復興させるために改作法を復古させるため、現場の主導的立場を十村に担わせたこともあった。しかし災害などが頻発して収穫が思うように得られず、十村が責任を負わされて集団で処罰を受ける出来事もあった[1]

要約:十村制が農村にもたらした結果は、農民を厳しい「ふるい」にかけたようなものだった。藩は安定した収穫という「黄金の米」をふるいにかけることで得たが、その網の目をすり抜けたのは、十村や豪商といった「大粒の米」であり、彼らは富と権威を増した。一方で、大多数の「零細な米粒」であった小百姓や頭振たちは、重税と連帯責任、そして土地の奪い合いという「ふるい」の中で、一層困窮し、その多くが農村経済の底辺へと転落する結果となった。

1. 厳格な統制と農民への過重な負担

十村制は、藩の農政(改作法)を実行するための末端組織であり、農民の生活は極めて厳しい規制下に置かれた。

苛烈な徴税と罰則

年貢負担の増加:藩が年貢収入を固定化・増徴する政策を推進した結果、農民の負担する免相(税率)は、藩政初期の三ツ六歩や四ツ一歩から、後年には五ツ、六ツ(五割、六割)へと増大していった。

厳しい検査と罰則:年貢米の納入検査は大変厳重だった。

品質検査(「さし」)の際、中籾(殻付きの米)が一粒でも混じっていれば、罰として俵あたり一升余計に納めさせられた。

籠目検査(俵の重さ)の際、五斗俵に一合でも足りない場合は、一俵につき一斗を納めなければならなかった。

逃散(逃亡)の発生:藩は、農村経済の基本である労働力の確保を第一の目的とし、農民の他国行きや町方での日雇い稼ぎなどを厳禁し、土着を計ろうとした。しかし、生活の困窮から走り百姓(逃散百姓、逃亡者)が続出し、十村や肝煎は、その監視・防止に努める責任を負った。


生活に対する連帯責任と制限

連帯責任の強化:年貢米の納入は、農民が個別に行うのではなく、一村全部の農家の連帯責任とされていた。このため、一戸でも滞納者が出ると他の農家が代納する必要があり、相互に迷惑がかかる状況が生まれた。

村の皆済による生活制限一村全部の農家が年貢米を完納(皆済)するまでは、その村では嫁取・婿取・家普請(家の新築)・商人(の出入り)が禁止された。

2. 農村社会の階層分解と土地の集中

改作法と十村制の統治の下、農村経済は貨幣経済に触れることで分解が進み、貧富の差が拡大した。


十村・豪商への土地の集中(切高の横行)

土地売買の規制緩和:幕府や諸藩は田畑の永代売買を禁じていたが、加賀藩では元禄6年(1693年)に「切高仕法」(切高または取高と呼ばれる事実上の売買)を許す制度を緩めた。

豪農・十村の富の蓄積:この制度の下、生活に余裕のある百姓は次々と高(土地)を買い取り、豊かになっていった。十村などの豪農は藩政を通じて土地の兼併(買い集め)を進め、富を蓄積した。

町人による土地所有:町部に住む商人や高利貸しも、財政難の藩に代わって新田開発を請け負ったり、質物の抵当に田畑を得たりして、数町歩から数十町歩もの土地を所有するようになった。


零細農の貧困と小作化

貧困層の増加:藩政期末になると、10石以下の零細農が農家総数の9割以上に及び、所持地の耕作だけでは生活を維持できない農民が半数以上に達した。

実質的な小作化:土地を失った弱小農民は、町部の富豪や十村のような大地主が所有する土地を耕作する小作人となった。

悲惨な小作生活:大地主が小作人から高率の小作料を取ったため、貧しい小作人たちは年貢と小作料を納めると、収穫高の35%程度しか手元に残らず、貧困な生活を続けることを余儀なくされた。

都市への労働力流出:年貢納入に困窮した農民は、藩の厳しい制限をくぐって離村し、町方へ移住したり、その子女の多くを下男・下女として奉公に出したりすることで生計を立てた。

3. 制度的な弊害と支配の動揺

十村制は藩の統治を助けたが、十村の権限が大きくなるにつれて弊害も生じ、藩政末期には大きな動揺を招いた。

十村の腐敗と処罰

行政的腐敗の発生:十村は広範な行政権限を持ち、藩士に準ずる待遇(扶持)を得たことで、中には贅沢を尽くす者が現れた。

十村処罰事件(文政改革):文政2年(1819年)、藩は、衣食住にわたり奢俊(贅沢)に耽ったとして、領内の十村31人を検挙し、うち28人を投獄、18人を能登島へ流罪とする事件を起こした。

真の目的:これは表面上は十村の不正を咎めたものだが、内実は、藩の威厳を示すとともに、改作法実施に対する反対勢力の機先を制し、藩命に忠実な服従をさせるための見せしめであったとされている。


算用聞(蔭聞役)による監視体制

  • 十村の腐敗や農民の不届きを監視するため、砺波郡福光町などには算用聞(さんようきき)という役職が置かれた。
  • 算用聞は、百姓・町人の行為について見聞きしたことを十村に内報する蔭聞役(かげききやく)という密偵的な役割を兼ねていた。


農民騒動の頻発

  • 十村制の根幹である改作法による過酷な徴税と凶作が重なることで、農民は組織的な抵抗へと駆り立てられた。
  • 砺波郡大西村騒動(正徳2年/1712年):凶作の中、大西村などの農民200人余りが十村の善六方へ押し込み、減税のための検分(見立)を強く要求した。この事件では、農民側の代表者六人が斬首され、犠牲となった。

4. 十村制の動揺と崩壊

十村制は長期にわたり運用されたが、藩政末期の社会・経済状況の変化に対応できず、混乱を招いた。

  • 十村制の一時廃止:文政4年(1821年)、藩政改革に際し、十村による農民直支配が廃止され、郡奉行の直支配に変った。十村は「惣年寄」「年寄並」などと名称を改めさせられた。これは、武士代官が農村視察地に疎く、農民と疎隔しがちだった弊害を解消するためだったが、郡奉行の事務が煩雑になり実効が上がらなかったとされている。
  • 復古(天保の御潤色):文政の改革は失敗に終わり、奥村栄実の提言により天保10年(1839年)、藩政の大綱を利常時代の改作法に復元する「改作法復古」が実施され、十村代官の制度も復活した。
  • 最終的な崩壊:しかし、武家支配層の土地買入れ許可や、幕末の動乱により、改作法は全面的に崩壊し、十村役や山廻役も明治3年(1870年)までに廃止され、身分上の制限が解除された。

十村の一覧

加賀国能登国越中国の前田藩領の内、越中国婦負郡全域・新川郡の一部は富山藩領、加賀国江沼郡全域・能美郡の一部は大聖寺藩領、残りが加賀藩領である。

越中国

新川郡

  • 岩城家

(富山藩領)

  • 竹島家

婦負郡

  • 内山家

射水郡

礪波郡

和泉村 石崎家(いずみむら いしざきけ)

主に石黒組(福光地域)を管轄した家系。祖先は武家(石黒左近の家臣)の血筋とも伝えられている。

  • 石崎 市右衛門(いしざき いちうえもん)
寛永12年(1635年)に石黒組十村役に任命された。二代目の市右衛門は承応3年(1654年)に小松城に召し出され、無組御扶持人(一郡の十村を監督する役)に任ぜられた。五ヶ山の両組オ許(監督役)を務めた。
  • 石崎 彦三郎(いしざき ひこさぶろう)
惣年寄持や新田才許(新田開発の役人)も務めた、代々の十村。

田中村 得能家(たなかむら とくのうけ)

主に福光地域から東側の太美組などを管轄した。

  • 田中村 三右衛門(たなかむら さんえもん)
寛永8年(1631年)より十村役に任命された、福光関係の十村としては初期の人物の一人。 二代三右衛門と三代覚兵衛は、藩主利常の信頼を受け、小松城にしばしば召し出され、改作方御用を勤めた。
  • 田中村 覚兵衛(たなかむら かくべえ)
明暦2年(1656年)の組替時点では、覚兵衛組が四十六カ村を支配する大組となってた。後に無組御扶持人(一郡の十村の総監督)に任命されている。

大西村 伊東家(おおにしむら いとうけ)

主に山田組(城端・南山田方面)や大西組を管轄した。

  • 大西村 次郎左衛門(おおにしむら じろうざえもん)
寛文4年(1664年)に十村を勤めた。寛文のころには、井波町加兵衛らとともに城端・福野・宗守・鴨島の諸蔵の御蔵オ許人(年貢の蔵納めを監査する役人)に任命されている。
  • 大西村 加兵衛(伊東 加伝次)
藩政末期、天保10年(1839年)以降の山田組に属し、経塚村や古向村など、城端方面の村々の支配にあたっていた。六代目加兵衛は天明5年(1785年)に無組御扶持人に任ぜられ、三州十村棟取(加賀・越中・能登三国の十村の総責任者)という最高の栄誉ある役職を命ぜられた。その子弟が、新川郡泊町へ引越十村(他郡へ移住して十村を務める)を命ぜられ、伊東家を興した例もある。

五ヶ山(利賀谷・赤尾谷)の十村

山間部の五ヶ山地域は、特殊な金納経済のため、平野部とは異なる組(利賀谷組、赤尾谷組)によって支配された。

  • 下梨村 市助(しもなしむら いちすけ)
五ヶ山十村の創始者とされ、天正13年(1585年)から慶長10年(1605年)までの十村(惣代)として記録されている。慶安4年(1651年)、四代目の市助が細嶋村源太朗とともに五ヶ山両組十村役を仰せ付けられ、赤尾谷組などを担当した。
  • 細嶋村 源太朗(ほそじまむら げんたろう)
慶安4年(1651年)から寛文2年(1662年)まで、利賀谷組の十村を務めた。
  • 岩渕村 伊右衛門(いわぶちむら いえもん)
享保年間(1716〜1736年頃)に利賀谷組の十村を務めた。彼は塩硝上煮屋の中心的な役割も果たしている。
  • 大牧村 六郎右衛門(おおまきむら ろくろうえもん)
安永3年(1774年)から数年間、組外(砺波平野)の出身でありながら五ヶ山両組十村役を勤めた。

その他の十村および有力な肝煎

  • 福光村 宗左衛門(ふくみつむら そうざえもん)
明暦3年(1657年)から寛文2年(1662年)まで十村役を勤めた。
  • 井波町 加兵衛(いなみまち かへえ)
万治元年(1658年)から寛文年間にかけて十村を務めた記録がある。井波は郡奉行の支配下にあったが、加兵衛は蔵奉行のオ許人も務めた。
  • 北野村 太兵衛(きたのむら たへえ)
寛永11年(1634年)には、北野村は北野太兵衛組に編入され、大鋸屋、是安、梅原など38ヵ村を管理していた。北野村小左衛門も十村を勤めていた。

能登国

珠洲郡

  • 若山家
  • 延武家
  • 真頼家
  • 黒丸家
  • 宗玄家

鳳至郡

鹿島郡

  • 岡野家

羽咋郡

  • 岡部家
  • 喜多家
  • 加藤家

加賀国

加賀郡

石川郡

  • 多川家

能美郡

  • 石黒家

(大聖寺藩領)

江沼郡

十村屋敷

十村を務めた豪農の屋敷のいくつかは現在も保存されており、以下は見学が可能である。

十村の子孫

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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