古代出雲
弥生・古墳時代の出雲の国にあった文化
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概要
ヤマト王権が日本列島における支配的な地位を確立する以前には、筑紫や吉備など列島各地に潜在的にヤマト王権に対抗しうる諸勢力が存在した。出雲もそうした勢力のひとつであり、かつての出雲は盛強を誇ったと考えられている。また、山陰から北陸にかけてみられる四隅突出型墳丘墓と呼ばれる特徴的な墳丘墓の存在などから、古代出雲は列島の日本海沿岸の広範囲に影響力を持っていたとも考えられている。
のちにヤマト王権の後継である朝廷の時代になっても、出雲大社の扱いや、記紀における出雲の記述、唯一完本で現存する『出雲国風土記』の存在などから、かつてのヤマト王権にとっての出雲の重要性が完全に忘れられたわけでないことがわかる。
学術的知見
弥生時代後期から古墳時代の墳墓として、西谷墳墓群、仲仙寺古墳群、造山古墳群[注釈 1]などの遺跡が出雲平野、安来平野、意宇平野およびその周辺に所在する。これらの遺跡では、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる特徴的な墳丘墓や、古墳時代前期の方墳としては全国最大級である大成古墳、造山1号墳が確認されている。
出雲西部の荒神谷遺跡からは大量の銅剣が、同じく加茂岩倉遺跡からは大量の銅鐸が出土した。
鉄器に関する遺跡としては、山間部で時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっている。野だたらの遺跡が特に多いのは県境付近である。出雲西部では鉄器に関する遺跡はしだいに見られなくなっていくが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡、柳遺跡などで大量の鉄器の半製品が出土している。
列島内外の諸地域との関係
弥生時代後期(2世紀前半)の遺跡である田和山遺跡(島根県松江市)から、漢が朝鮮半島に設置した楽浪郡のすずりが出土した[1]。
四隅突出型墳丘墓と呼ばれる特徴的な墳丘墓は、はじめ中国地方の山間部で作られたが、のち山陰や北陸で作られるようになった。弥生時代後期後葉から末葉には、出雲西部の西谷墳墓群、出雲東部の仲仙寺古墳群などに代表的な四隅突出型墳丘墓がみられることから、この時期の出雲には西と東に大規模な政治勢力が形成されたと考えられている[2]。北陸の四隅突出型墳丘墓は弥生時代後期後葉にはじめて現れるようになる。福井県福井市の小羽山30号墓は山陰の影響を直接受けたとみられ、墳丘の形態、副葬品、赤色顔料の付着した石杵など山陰の四隅突出型墳丘墓との共通点が多い。
北陸や関東などに出雲神話の影響がみられる。古事記上巻の記述の3分の1は出雲に関するものであり、全国の多くの神社に出雲系の神が祀られている。