国主

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江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代大名の格式を指す言葉。 江戸幕府においては国持(くにもち)という言葉が主に用いられ[1]、国主は武鑑において用いられるなど、公的な場を含む一般でも用いられていた[2]国大名といった表記も見られる[3]

領地が令制国一国以上である大名を指すと見られがちであるが、必ずしも石高や領国が基準ではなく、幕府においてはその資格が明確化されたことは一度もなかった[1]官位としては従四位下侍従以上に叙されていた(四品以上に昇進する大名家一覧[1]。国持は他の一般大名とは異なる扱いと自意識を持っていたと指摘されており、笠谷和比古は「将軍家に臣礼を取るが、客分的性格を持った大名」であるとしている[4]

制度の沿革

草創期

慶長11年(1606年)、徳川家康は、「天下の御格法」とするため、室町幕府の格式を調査するように細川藤孝に命じた[5]。藤孝は翌年『室町家格式』三巻を提出した[5]。室町幕府の家格秩序には三職御相伴衆国持衆准国持衆があり、家康はこれを参考にしたと見られている[5]

慶長16年(1611年)と17年に、家康は「北国・西国」の大大名22人と、東国の大大名11人から誓詞をとった。柴裕之はこれをこの時点の「国持」としている[6]。『徳川実紀』慶長十八年正月三日条(1613年)には国持衆の名代が太刀と馬を献上したという記述があり、これが実紀における「国持」の初見である[6]。『駿府記』にはこの際に太刀を献上した24家26人が記載されている[6]

『駿府記』慶長十八年正月三日条の国持

運用

寛永11年(1634年)、「国持」と万石以上の大名については酒井忠世らが取り扱うこととされた[8]。翌年には土井利勝ら5人の年寄が「国持大名御用并訴訟之事」を取り扱うこととされている[3]

国持は大名等を並べて表記する際には御三家の次に表記されることが多く、特別扱いされていた[3]。広く大名等に命を出す際には「国持たりといえども」という表記も用いられた[3]元禄時代の徳川吉通は「御三家と国持は公方の家来ではない」という認識を持っており、伊達吉村も「国持大名は公方の下臣とも客人ともつかぬ」として、一般の大名のような君臣関係ではないとしている[4]

宝永6年(1709年)には老中らが国持に対して高圧的な態度に出ているとして、将軍徳川家宣が注意を行っている[3]。天明3年(1783年)には幕府が米切手後藤縫殿助家の改印を押すことを義務付けようとした際、「国持の領国内は国持の自由である」と大坂の留守居組合が抗議し、撤回させたという事件も起きている[5]

当時は武家官位における受領名は、原則的には領国名を称することはできなかったが、一部の国持大名16家や特別な由緒を持つ家には認められた[9]

古事類苑』では、幕府が終焉を迎えた慶応年間の段階で、251家の大名家のうち、国持は20家が存在していたとしている[10]

国持の一覧

幕府において個別の家に国持の待遇を認めるといった明示的な運用はされず、大名が自らを「国持」として示すようなことはほとんどなかった。山田洋一は大名側は四品や称松平などの身分的標識によって「国持」的意識を持ったのではないかとしている[5]

天保7年(1836年)に刊行された『武家格礼式』は国持十四家として以下の家をあげている[11]

  • 細川越中守(熊本藩細川家)
  • 松平美濃守(福岡藩黒田家)
  • 松平安芸守(広島藩浅野家)
  • 松平大膳大夫(長州藩毛利家)
  • 松平肥前守(佐賀藩鍋島家)
  • 藤堂和泉守(津藩藤堂家
  • 松平因幡守(鳥取藩池田家)
  • 松平伊予守(岡山藩池田家)
  • 松平阿波守(徳島藩蜂須賀家)
  • 有馬玄蕃頭(久留米藩有馬家
  • 佐竹右京大夫(秋田藩佐竹家)
  • 松平土佐守(土佐藩山内家)
  • 松平出羽守(松江藩松平家
  • 上杉弾正大弼(米沢藩上杉家)

また、これに4家を加えたものを「国家十八家」としている[11]

  • 松平加賀守(加賀藩前田家)
  • 松平薩摩守(薩摩藩島津家)
  • 松平陸奥守(仙台藩伊達家)
  • 松平越前守(福井藩越前松平家

またこれらと別に津山藩松平家と、盛岡藩南部家には、国持と同様に江戸参府の際に老中が派遣されるとしている[12]

平戸藩松浦家壱岐国)、小浜藩酒井備後守家若狭国)、鳥羽藩稲垣家(志摩国)は令制国一国を一円知行しているが、国持や国持並として扱われたことはない[13]

本国持

古事類苑』官位部に収録された『残集柳営秘鑑』による[14]

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本国持
家名領国城地石高伺候席初官経過極官備考
松平加賀守
前田家
加賀・能登・越中金沢102万5,000石大廊下-下正四位権少将家督時-権中将/50歳-宰相従三位松平姓・殿上元服・偏諱武鑑では「松平」を省く例が多い[15][16][17]。加賀守松平独占、嫡子筑前守優先[18]
松平薩摩守(大隅守)
島津家
薩摩・大隅・日向鹿児島72万石大広間従四位侍従家督時-権少将従四位上権中将殿上元服・偏諱・薩摩守独占(元禄以降)
松平大膳大夫
毛利家
長門・周防36万9,000石(関ヶ原後は29万石、江戸初期に高直し)大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平相模守
因幡池田家
因幡・伯耆鳥取32万5,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平阿波守
蜂須賀家
阿波・淡路徳島25万7,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平筑前守
黒田家
筑前福岡47万3,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平安芸守
浅野家
安芸広島42万6,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平備前守
備前池田家
備前岡山31万5,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平土佐守
山内家
土佐高知24万2,000石(関ケ原後は9.8万石、江戸初期に高直し)大広間四品家督時-侍従従四位下権少将
宗対馬守
宗家
対馬府中
(厳原)
10万石格大広間四品家督時-侍従従四位下権少将
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大身国持

『残集柳営秘鑑』『武家格礼式』による[11]。令制国一国を持たない大身の国持はこう呼ばれた。ただし津藩藤堂家は伊賀国一円、松江藩松平家は隠岐国一円を領しているが、本国持とはされない。盛岡藩南部家は慶応4年版『万世武鑑』では国持とされる[19]。加藤隆は石高・官位の点から見て、幕末段階では国持であったと見るのが妥当であるとしている[20]

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大身国持
家名領国城地石高伺候席初官経過極官備考
松平陸奥守
伊達家
陸奥仙台仙台62万石→1869年に28万石に減封大広間従四位下侍従家督時-権少将従四位上権中将殿上元服・偏諱。陸奥守独占[21]
細川越中守
細川家
肥後熊本熊本54万石(支藩含)大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平信濃守
鍋島家
肥前佐賀佐賀35万7,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
藤堂和泉守
藤堂家
伊勢・伊賀32万3,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将
有馬中務大輔
有馬家
筑後久留米久留米21万8,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将
佐竹右京大夫
佐竹家
出羽秋田秋田20万5,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将
上杉民部大輔
上杉家
出羽米沢米沢30万石(1664年に15万石に減封、1866年に18万7千石に加増、1869年に14万7千石に減封)大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平甲斐守
柳沢家
大和郡山郡山15万1,200石帝鑑間五位家督後-四品従四位下侍従初代柳沢吉保の代の元禄14年(1701年)以降は大広間詰であったが、元文3年(1738年)に帝鑑間詰となっており、加藤隆はこれをもって国持の列から除かれたとしている[12]
松平兵部大輔
福井松平家
越前福井福井50万石(1686年に25万石、1721年に30万石、1818年に32万石に加増)大廊下-下四品家督時-侍従従四位下権中将殿上元服・偏諱、御家門
松平出羽守
雲州松平家
出雲松江18万6,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
御家門
松平越後守
津山松平家
美作津山津山10万石大廊下-下四品家督時-侍従従四位下権中将殿上元服・偏諱・三河守、越後守独占、御家門。『残集柳営秘鑑』では、かつては大身国持であったが、津山移封後については格式はわからないとしている[11]。1817年に将軍徳川家斉の子松平斉民を養子に迎えたため10万石に加増、以降は四品となり国持扱いとなっている。加藤隆は国持扱いを受けたのは津山移封前の段階であり、それ以降は該当しないとしている[20]
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国持並

国持格、准国主ともいう。長門国長府藩の系統は毛利綱元の代までは国持並とされたが、嫡子が早逝したため除かれたという[11]。また久留米藩有馬家もかつては国持並であったが、国持扱いとなっている[11]

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国持並
家名領国城地石高伺候席初官経過極官備考
伊達遠江守
宇和島伊達家
伊予宇和島宇和島10万石大広間四品家督後30歳代-侍従従四位下権少将
立花左近将監
立花家
筑後柳河柳河10万9,000石柳間→大広間五位家督後-四品従四位下侍従家督相続時は諸大夫扱いであり、四品に昇進した後大広間詰となり国持並の扱いを受ける[11]
丹羽左京大夫
児玉丹羽家
陸奥二本松二本松10万3,000石柳間→大広間五位家督後-四品従四位下侍従家督相続時は諸大夫扱いであり、四品に昇進した後大広間詰となり国持並の扱いを受ける[11]
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脚注

  1. 『駿府記』原文ママ、誤記と見られる[7]

出典

参考文献

関連項目

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