士仁
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生涯

陳寿の『三国志』関羽伝によると、劉備配下の将軍として荊州の公安城を守備していたが、上官である関羽からは軽んじられていると感じていた。関羽が樊城の戦いに臨んでも支援に全力を尽くさず、「帰還したら処罰してくれる」と叱責を受け、さらに不安を抱いた。そこで孫権から内通の誘いを受けると、江陵城を守備していた糜芳と共にこれに応じ、その軍を迎え入れた。
一方、呂蒙伝の注に引く『呉書』によると、降伏は孫権配下の呂蒙の軍が迫ってからのことで、それも最初は虞翻からの会見要請も拒んでいたが、最終的には虞翻からの説得の手紙を読み涙を流しながら降ったとされる。その後、呂蒙は士仁を連行して南郡まで迫り、士仁の姿を見て同地の太守である糜芳もまた降伏した。
共に孫権に降伏した糜芳はその後、『三国志』呉主伝などで呉の武官として活動した事績が見えるが、士仁が孫権に降伏した後の動向は不明となっている。
後に劉備が建国した蜀漢の史書である楊戯の季漢輔臣賛は、自国にとっての裏切り者である糜芳・士仁・郝普・潘濬に対し、「司令官に対し怨みを抱き、大徳を顧みず、国を救う功もなく、裏切りを成して逃走し、自ら人に見放され、二国の笑い者になった」と酷評を浴びせた[2]。