声聞
仏教用語
From Wikipedia, the free encyclopedia
声聞(しょうもん、旧字体: 聲聞、梵: श्रावक
- 仏陀の教えを聞く者[3]、仏陀の声を聞いた者[4]の意で、仏の教えを聞いてさとる者や[2]、教えを聞く修行僧[1]、すなわち仏弟子を指す[5]。
- 声聞を、縁覚・菩薩と並べて二乗や三乗の一つに数えるとき、本来のブッダの教えに従って輪廻からの解脱と涅槃を目的とする出家者のことを指し、四諦の教えによって修行し無余涅槃(二度と生まれ変わらないこと)を目的とする人のことを意味する[2]。後発の宗派である大乗仏教の側からは「利他行を行わず、己一人のみが苦から逃れる利己的なもの」だと批判を受けた。
声聞と縁覚はそれぞれ、仏教における十界の一つにも数えられる[6]。声聞の修道階梯は預流・一来・不還・阿羅漢の4つにわかれ、各段階の出発点を「向」、到達点を「果」、全体として四向四果という[5]。
概要
原始仏教(本来の語義)
「声聞」という語は、元は釈迦在世時の弟子を指していた[2]。原始仏教聖典では出家・在家を含めた仏弟子を意味した[1]。例えば舎利弗(サーリプッタ)のような仏弟子もブッダの声聞である[4]。門弟や弟子の意味で用いられるのはジャイナ教聖典でも同様であったが[7]、ジャイナ教聖典では、のちには在俗信者のみを意味するようになった[1]。
サンスクリットにおける声聞
声聞のサンスクリット語 śrāvaka は形容詞として「〜を傾聴する」「遠くから聞き取れる」の意味を持つほか、名詞として「聴聞者」や「門弟」を意味し、声聞、弟子、賢聖などと漢訳される[8]。
声聞と縁覚は、声聞独覚乗(梵: śrāvakapratyekabuddha-yāna)、声聞辟支仏地(梵: śrāvakapratyekabuddha-bhūmi)のように原語では複合語で表現されることがある[8]。
声聞に関する語句
声聞のための教えを声聞乗といい[2]、それを略して声聞とする用法もある[1]。菩薩地持経巻一二では、ブッダの教説のうちで声聞・縁覚のために説かれた四諦・十二因縁などの教えを声聞蔵という[2]。
部派仏教
大乗仏教における扱い
大乗仏教の立場からは、「声聞」は個人の輪廻からの解脱と涅槃(二度と生まれ変わらないこと)を得ることに専念し利他の行を欠いた出家修行者とされた[7]。大乗仏教では、全ての仏教を声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の3種に分け、それぞれ能力の異なった3種類の対象のために異なった教えがあるとしているが(対機説法と解釈する)、このうち声聞は最も能力の劣ったものとされた[6]。大乗仏教では、声聞を独覚(縁覚)と並べて、この2つを二乗・小乗として蔑視している[1]。より具体的には、部派仏教の教義に従って輪廻からの解脱と涅槃、すなわち「二度と生まれ変わらないこと」(無余涅槃)を目指す修行者を声聞と呼び、部派(大乗教派と対立した説一切有部)を小乗(小人数しか救済されない宗派)と呼んで蔑視した。
なお学術的観点からは、釈迦は苦の輪廻からの解脱を目指したが、本来の釈迦の教説では浄土を想定せず「死後に天界を含めて、一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」を目指していたと説明される(大乗非仏説参照)[10][11]。佐々木閑は「釈迦はこの世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」と説明している[12]。大乗経典の内容に関して、『阿含経』などで説かれる部派仏教の教義を「小乗の教え」と蔑視・批判し、大乗の教義こそが真の仏説(釈迦の教説)であるという思想が教義の根底にあるが、『阿含経』側には大乗思想についての言及や批判が全く見られないため、『阿含経』の方が先に成立し、その後それを批判する形で大乗経典が成立したと説明される(詳しくは加上説・大乗非仏説参照)[13]。すなわち大乗経典は釈迦の直説ではなく後世に創作されたものである。このことについて佐々木閑は、大乗非仏説が立証されたからといって大乗仏教の価値が損なわれる訳ではなく、歴史的事実として、大乗仏教は原始仏教・部派仏教における世界観・宗教観を乗り越える形で、教義を変容・発展させていったという経過があるのだから、前提となっている原始仏教・部派仏教経典を知ることは、大乗仏教を深く知る上でも有益であると説明している[14]。