孝
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孝(こう、英: Filial piety)は、特に儒教、中国仏教、道教の倫理において、自分の両親、年長者、先祖に対して愛と尊敬を示す美徳である[2]。戦国時代後期から秦・漢代にかけて書かれたと考えられる儒教の『孝経』は、歴史的に儒教における孝の教義に関する権威ある出典とされてきた。この書物は、孔子と彼の弟子である曾子との対話という形式をとっており、孝の原理を用いていかに良き社会を築くかについて説いている。孝は、儒教の役割倫理における中心的な概念である。
より一般的な用語として、孝は両親に善くあること、両親の世話をすること、両親に対してだけでなく家庭外でも善い行いをし両親や先祖の名を揚げること、愛・尊敬・支援を示すこと、礼儀正しく振る舞うこと、男の世継ぎを確保すること、兄弟間の友愛を保つこと、両親に賢明な助言を与え(道徳的不義を思いとどまらせることも含む)、病気や死に際しては悲しみを示し、死後は埋葬して祭祀を行うことを意味する。
身近な家庭の道徳的秩序の維持を国家社会運営の端緒と位置づける儒教の徳治においては、まず家庭で守られるべき兄弟愛として「悌」とともに長らく重視されてきた。「孝悌」と併用され、「孝悌は仁を為すの本」とも言及される。後述するように他の宗教にも親子関係のあり方を規定する類似の道徳規範は存在するものの、他の社会規範に対する優越性や、崇敬すべき親の対象として祖霊を含み家父長制と一体化している点など、一般的な親子関係の道徳概念とは異なる特徴を持つことに注意を要する。
孝は中国およびその他の東アジア文化において重要な美徳とされており、多くの物語の主要な主題となっている。そのような物語の最も有名なコレクションの一つが『二十四孝』である。これらの物語は、過去に子供たちがどのように孝の実践を行ったかを描いている。中国には常に多様な宗教的信仰が存在してきたが、孝の慣習はそれらほぼすべてに共通している。歴史家のヒュー・D・R・ベイカー(Hugh D.R. Baker)は、家族の尊重をほぼすべての中国人に共通する唯一の要素と呼んでいる[要出典]。
用語
西洋の用語である「filial piety(親孝行)」は、元来、地中海文化に基づく西洋社会の研究に由来するものである[3]。しかし、例えば古代ローマ人における親孝行ピエタス(pietas)は、その論理と実践において中国のものとは大きく異なっていた[4]。孝は漢字の「孝」(ピンイン: xiào)で表される。この文字は、「老」(老いた)という文字の下に「子」(子供)という文字を組み合わせたものであり、年長者が子供に背負われている様子を表している[5]。これは、年上の世代が若い世代によって支えられるべきであることを示唆している[6]。
朝鮮の儒教では、文字孝は(효)と発音される。ベトナム語では、文字孝はベトナム語アルファベットでhiếuと書かれる。日本語では、この用語は一般的に話し言葉や書き言葉で親孝行(おやこうこう)と表現され、「親」と「行い」という文字を加えて言葉をより具体的にしている。
概要
古代の中国では、祖先崇拝の観念の下に、血族が同居連帯し家計をともにする家父長制家族が社会の構成単位を成していた。孔子が、親を敬い、親の心を安んじ、礼に従って奉養祭祀すべきことを説き、社会的犯罪については「父は子の為(ため)に隠し、子は父の為に隠す」[7]と述べた。やがて孝は『孝経』において、道徳の根源、宇宙の原理として形而上化され、無条件服従と父子相隠は法律にも明文化された[8]。又、祖先祭祀にとって孝は重要な原理となる。
孟武伯が孔子に孝を尋ねた際、「親は子の病を憂う(心配する)ものだ」といった[9]。つまり健康でいることが孝行といっている[10]。また門人の子游が尋ねた際は、「現今の世間は養う(目に見える形の奉仕)を孝というが、それなら犬馬だって人を養う(奉仕する)。敬う心がなければ、どうして犬馬と区別できようか」と答えた[11]。
孝を守る振舞いである「親孝行(おやこうこう)」が高く評価され、これを実践する人を「孝子(こうし)」と呼ばれた。孝子として有名な儒教の聖人は舜であり、孔子の弟子では曽子が孝の実践に優れていたとされる。曽子は『孝経』の作者とされる。
君臣間の徳目である「忠」と時に齟齬を来すことになるが、中国や朝鮮では多くの場合、「忠」よりも「孝」が貴いと考えられた。例えば、道に外れたことを行う君主を三度諌めても聞き入れられなかったら、君主の下から去るべきであるとされたのに対し、道に外れた親を三度諌めても聞き入れられなければ、泣き寝入りして従わなければならないとされた。有能な大臣が、自分の親の喪中に出仕したことを不孝であると咎められて失脚するようなことも起こった。
孝は親の死後にも、一定期間、影響を与えるもので、『論語』には「父のやり方を3年間改めないのが孝行である」と記し、これを例に『日本後紀』では、桓武天皇が崩じた際、その年に元号を「大同」と改めたことに対し、子や臣の心情として、一年の内、二君あることを忍びないと思うからこそ、同年に改元しないのに礼に反していると批判する記述がある(『後紀』)。
日本
日本では、後に官学となった朱子学伝来以後、「孝」よりも「忠」を重視する思想が中心的になった。明治維新後は「忠孝一致」のスローガンの下で、孝を忠の付属概念とする思想が国家的に唱えられた(この「忠孝一致」の思想自体は江戸期からあるものである。詳細は忠を参照)。
明治維新後は教育勅語渙発等により皇室、国家、親への崇敬が公的に浸透された。また親権の強い明治民法(1908年制定)や、「尊属殺人罪」が制度化され、親への崇敬が社会的常識とされた。1973年には、「尊属殺人罪」を違憲とした最高裁判決が下った。
各国の解釈の差異
日本と、中国と、韓国、ベトナムでは、それぞれ「孝」の内容が微妙にずれることがある。
中国では「3年子無きは、去る(夫の方から離婚する)」といった言葉があるが、これは祖霊に対する孝、すなわち子孫を残すことを孝とする宗教観から来るものであり、子を残す女性が正しい(それが本妻でなくとも)とする考えが倫理的に正しいという考え方があった[12]。これは『孟子』離婁(りろう)上において、「不孝に三あり。後(継ぎ)無きを(最)大なりとなす」と記すことからもわかる。加地伸行は孝とは、その対象が死をも含む広域なものであり[13]、明治以降の日本人の孝は生者に対する「道徳的孝」であって、中国人の死者も対象とした「宗教的孝」とは異なるものであるとする。
中国では辛亥革命によって国民党時代が到来すると、魯迅が孝は「人が人を食う」原理であり、それまで賛えられていた孝子をおぞましいものであると激しく非難するなど、孝に対する批判が噴出した。孝は共産党時代が到来すると全面的に否定され、「忠」が文化大革命でも毛沢東に対する忠誠として肯定的な語とされたこととは対照的な扱いとなった。
伝統的な文献において
定義
孝に関する儒教の教えは、四書五経、すなわち『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』の四書や、作品である『孝経』や『礼記』など、数多くの文献に見られる[14]。『孝経』の中で、孔子(紀元前551年 - 479年)は「孝は徳の根本であり、教えの生ずるところである(孝は徳の本なり、教の由て生ずる所なり)」と述べており[15]、現代の哲学者である馮友蘭は、孝を「伝統的(中国)社会のイデオロギー的基盤」と表現している[16]。
孔子にとって、孝は単に両親に対する外面的な儀礼的敬意であるだけでなく、内面的な態度でもある[17]。孝はいくつかの側面から構成される。孝は、両親が負った負担に報いるという意識である[18]。そのため、孝は両親が与えてくれたケアに報いるために行われる[19]。しかし、それは先祖に対する義務のためにも実践される[20][21]。
一部の現代学者によれば、「孝」は「仁」(慈愛、人間性)の根源であるとされるが[22]、他の学者は、「仁」や「義」(正義)、「礼」(礼節)こそが「孝」の根源と解釈されるべきだと述べている。「仁」は親しい人々に対する好意的な行動を意味する[23]。「義」は両親や上司など尊敬に値すると見なされる人々への敬意を指す。「礼」は社会規範や文化的価値観に従って振る舞うことと定義される[23]。さらに、文献では「順」(敬意を持って従うこと)や「敬」(深い尊敬と畏怖)とも定義されている[17]。孝は、完全な人間になるための自己修養という広範な理想の一部として孔子によって説かれた[24]。
現代の哲学者胡適は、孝が儒教イデオロギーにおいて中心的な役割を得たのは、後世の儒家たちの間でのことだと主張した。彼は、孔子は元々「仁」の質を一般的に説いていたのであり、まだそれほど「孝」を強調していなかったと提案した。曾子のような後世の儒家たちだけが、「孝」を最も重要な唯一の儒教的資質として焦点を当てたのである[16]。
詳細な記述

儒教では、孝を選択の問題ではなく、子供の無条件の義務と見なしている[25]。親子の関係は、孔子がその役割倫理で記述した五倫の中で最も基本的なものである[26]。孝は、兄弟愛(悌)とともにこのシステムの基礎となっている[27]。それは儒教道徳の基本原理であり[28]、孝は君主に対する大臣の忠誠、夫に対する妻の従順とともに、秩序ある社会の基礎と見なされていた[29]。要するに、孝は儒教の役割倫理の中心であり[30]、他のすべての美徳を定義し、制限し、あるいは優先さえする主要な美徳である[31]。
伝統的な文献によれば、孝は身体的な世話、愛、奉仕、尊敬、従順から成る[32]。子供は両親に不名誉をもたらさないように努めるべきである[33]。『礼記』などの儒教文献には、孝をどのように実践すべきかについての詳細が記されている[6]。尊敬は、子供が両親に挨拶する方法、使用する言葉や口調、両親がいる部屋への出入りの方法、さらには座席の配置や贈り物といった詳細な作法が定められている[34]。世話とは、元々あらゆる面で両親が快適であることを確認することから由来する。これには食事、住居、衣服、衛生、そして基本的に(孔子の言葉を借りれば)「楽しいものを見聞きさせること」が含まれ[35]、心配なく暮らせるようにすることである[19]。しかし、孝において最も重要なことは、両親を称えて行われる埋葬および服喪の儀式である[36][22]。
孝とは、両親に善くあること、両親の世話をすること、両親に対してだけでなく家庭外でも善い行いをし両親や先祖の名を揚げること[37]、自分の職務を立派に果たすこと(両親の志を果たすために両親と同じ仕事に就くことが望ましい)[19]、先祖への祭祀を行うこと[38]、反抗的でないこと[21]、礼儀正しく行儀よくあること、愛・尊敬・支援を示すこと、両親に仕えるために家の近くにいること[39]、礼節を示すこと[35]、男の世継ぎを確保すること[19]、兄弟間の友愛を保つこと[要出典]、両親に賢明な助言を与え(道徳的不義を思いとどまらせることも含む)[39]、病気や死に際しては悲しみを示し[40]、死後は埋葬して祭祀を行うことである[41]。さらに、孝行な子供はその家族の世間的な評判を高めるべきであり、両親の愛情を大切にすべきである[19]。
伝統的な文献は基本的に息子と父親の関係という観点で孝を記述しているが、実際にはすべての親子関係、さらには継父母、祖父母、先祖との関係も含まれる[42]。
孝はまた、子供に対する親の役割も含んでいる。父親には、息子を養い、祖先崇拝の伝統を教え、配偶者を見つけ、良い遺産を残す義務がある[43][42]。父親は子供に対して「厳格で威厳がある」べきであり、母親は「優しく慈悲深い」べきであるとされる。親の美徳は、子供の孝行心に関わらず実践されるべきものであり、その逆もまた然りである[42]が、孝は主に「子供」の義務を特定したものであり、この点で、主に父親の権威的な力を定義したローマの家父長権であるパトレス・ファミリアスとは異なる。ローマ文化や後のユダヤ・キリスト教的西洋では、権威ある人々はより高い超越的な力に言及することでその影響力を正当化したが、中国文化では、権威は上位者(父、皇帝、夫)と下位者(息子、臣民、妻)の役割によって定義された。役割と義務が非人格化されるにつれて、西洋のように個人の問題ではなく、優越性は役割と地位の問題となった[44]。
人類学者の許烺光は、儒教の観点からの子供の従順は無条件のものと見なされていたと主張したが、人類学者のデビッド・K・ジョーダン(David K. Jordan)と心理学者のデビッド・ヤウ=ファイ・ホー(David Yau-fai Ho)はこれに同意していない[42][21]。ジョーダンは、古典的な中国思想において「諌め」は孝の一部であり、孝行な子供は親が不道徳な行為を行うのを思いとどまらせる必要があると述べている[42]。ホーはこの点に関して、儒教の古典は「愚孝」を推奨していないと指摘している[21]。しかし、ジョーダンは、親が子供の諌めに耳を貸さない場合でも、子供は依然として親に従わなければならないと付け加え[45]、ホーは「反逆やあからさまな反抗」が儒教倫理で承認されることは決してないと述べている[21]。
孝は、子供の両親に対する振る舞いに及ぶだけでなく、両親から授かった人間の身体に対する感謝も含まれる[28][46]。これは、身体は両親の延長と見なされるからである[39]。身体を傷つけたり損なったりすることへの禁止が含まれ、この教義は仏教の僧侶が頭を剃ることに対する儒教徒の見方に影響を与えた[28]。また、自殺を「不孝」な行為としタブーとする考えも作り出した[47]。
社会全体との関係

孝は社会を秩序づける原理と見なされ、それがなければ混乱が支配するとされた[29]。それは単なる慣習とは対照的に「避けられない自然の事実」として記述され[48]、父子関係から自然に従うものと見なされている[3]。中国の家父長制の伝統において、役割は全体の調和を維持するために支持される[49]。新儒教の哲学者である程顥(1032年 - 1085年)によれば、関係とその対応する役割は「天地の間で逃れることのできない宇宙の永遠の原理に属する」という[50]。
孝の考えが中国で一般的になったのは、それが多くの機能を持ち、多くの役割を担っていたからである。孟子(紀元前4世紀)のような伝統的な儒教学者は、家族を国家の根幹をなす基本単位と見なしていた。孝の美徳は子供による両親への尊敬に関するものであったが、若い世代が拡大家族や社会一般において年長者にどのように振る舞うべきかを規制することを意図していた[51][52]。さらに、両親への献身はしばしば国家への献身と関連付けられ[注 1]、「社会の並行概念」[53]や「二つのモデル」[27]と記述された。
『孝経』では、従順で孝行な息子は成長して忠実な役人になれと述べている。したがって、孝は国家の市民を形成する真理と見なされ[29]、皇帝に対する大臣の忠誠は孝の延長と見なされた[54]。孝は、一般的に義務を果たす人物であることと見なされた[50]。
それにもかかわらず、この二つは同一視されなかった。孟子は、不道徳な暴君が国家を害する場合、大臣はその君主を打倒すべきであると教えている。このように、孟子の時代において、皇帝への忠誠は条件付きと考えられており、両親への孝行ほど無条件なものではなかった[25]。
東アジアの言語と文化において
孝に関する儒教の教えは、東アジアの言語と文化にその痕跡を残している。中国語には「百善孝為先(百の行いの中で、孝が最も重要である)」という言葉がある[52][15]。
現代中国語では、孝は「孝順」という言葉で表現され、「尊敬と従順」を意味する[55]。中国には常に多様な宗教的信仰が存在してきたが、孝はそれらほぼすべてに共通している。歴史家のヒュー・D・R・ベイカーは、家族の尊重がほぼすべての中国人に共通する唯一の要素と呼んでいる[56]。歴史家の瞿同祖は、中国法における家父長制の法典化について、「それはすべて孝の問題であった」と述べている[57]。孝はまた、中国人が知られる老人崇拝の基礎を形成している[21][16]。しかし、中国人の間での孝は、主に近親者の世話に集中し、より遠い人々の広範な問題にはあまり関心を持たない傾向をもたらした[20][58]。これは、現代で言う個人主義と違うものである。
日本では、昔も今も、親族関係への献身ははるかに広く解釈されており、単なる血縁以上のものを含んでいる[20]。
朝鮮文化においても、孝は極めて重要である[59]。しかし、朝鮮王朝後期の孝は、女性にとって結婚に際し、「孝の価値観」と「孝の感情」の間に緊張を生じさせた。結婚した女性は、生家ではなく夫の家族に対して孝を尽くす義務があったからである[60]。これらの緊張と、この新儒教的な父系・家父長制社会の規範的価値観は、『パンソリ』や様々な道徳説話の多く伝統文化で証明されている[60]。孝に関して出版された書籍には、高麗時代後期に初めて出版され1428年に改訂・再版された『孝行録』や、1655年から1788年にかけて孝行により政府から報奨を受けた人々の記録である『孝行等第謄録(1655-1788)』(효행등제등록)などがある。
台湾では、孝は八つの重要な美徳の一つとされ、その中でも最高のものと考えられている。それは「人間行動に関するあらゆる思考の中心」である[15]。台湾は一般的に、親子関係に関して中華人民共和国よりも伝統的な価値観を持っている。この価値観は、高齢者の自立生活に対する反応に反映されている[61]。
孝に対する行動科学的研究
社会科学者たちは、孝および関連する概念を研究してきた[62]。それはアジアの家族に関する研究や世代間研究、そして社会形成の研究において非常に影響力のある要因である[6]。孝は数人の学者によって、子供たちが両親から受けた援助と慈悲を認識し、それに対して子供たちが敬意を返すことと定義されている[63]。心理学者のK.S. Yangは、これを「自分の両親に善くある、あるいは親切にすることに関する認知、感情、意図、行動の特異で複雑な症候群またはセット」と定義した[64]。2006年現在[update]、心理学者たちは孝を一貫性のない方法で測定しており、これが進歩を困難にしている[6]。
孝は、高齢者に対する日々の維持、尊敬、病気のケアなどの行動によって定義される[62]。学術文献では5つの形態の畏敬が記述されているが、多文化研究者のKyu-taik Sungは、儒教文献における年長者への尊敬の伝統的な定義をカバーするために、さらに8つを追加した[65]。
| 介護的尊敬 (Care respect) | あらゆる面で両親が快適であることを確認する |
|---|---|
| 食物的尊敬 (Victual respect) | 親の好みを考慮に入れる(例:好物など) |
| 贈答的尊敬 (Gift respect) | 贈り物や恩恵を与える(例:会議の主宰など) |
| 提示的尊敬 (Presentational respect) | 礼儀正しく適切な作法 |
| 言語的尊敬 (Linguistic respect) | 敬語の使用 |
| 空間的尊敬 (Spatial respect) | 年長者を上座に座らせる、敬意を表す場所に墓を建てる |
| 祝賀的尊敬 (Celebrative respect) | 年長者を称えて誕生日やその他の行事を祝う |
| 公的尊敬 (Public respect) | 年長者への自発的かつ公的な奉仕 |
| 黙従的尊敬 (Acquiescent respect) | 口答えせずに年長者の話を聞く |
| 諮問的尊敬 (Consultative respect) | 個人的および家族の問題について年長者に相談する |
| 挨拶的尊敬 (Salutatory respect) | 年長者にお辞儀や挨拶をする |
| 優先的尊敬 (Precedential respect) | 物品やサービスの分配において年長者に優先権を与える |
| 葬儀的尊敬 (Funeral respect) | 敬意を持って年長者を悼み埋葬する |
| 祖先的尊敬 (Ancestor respect) | 先祖を記念し、彼らのために供物を捧げる |
これらの尊敬の形態は定性的研究に基づいている[66]。これらの形態の一部は行動や作業を伴うが、他の形態はより象徴的である。女性の年長者は介護的尊敬を受ける傾向があり、男性の年長者は象徴的尊敬を受ける傾向がある[67]。
孝を定義しようとする試みとは別に、心理学者たちはその認知的発達を説明しようと試みてきた。心理学者R.M. Leeは、ローレンス・コールバーグの道徳性発達理論に基づき、5段階の発達を区別している。第1段階では、孝は単に物質的なものを与えることとして理解されるが、第2段階では、精神的および感情的なサポートがより重要であるという理解へと発展する。第3段階では、子供は孝が親子関係を確立し維持するために不可欠であることに気づき、第4段階では、これが家族外の関係を含むように拡大される。最終段階では、孝は自分の倫理的理想を実現するための手段と見なされる[68]。

伝統的な孝の信念は、コミュニティや社会にとっての肯定的な結果、年配の家族へのケア、肯定的な家族関係、連帯感と関連付けられている。孝はまた、過去への志向、認知的変化への抵抗、迷信や運命論、独断主義、権威主義、同調主義、自文化優越の信念、および能動的・批判的・創造的な学習態度の欠如とも関連付けられている[69]。
心理学者のデビッド・ヤウ=ファイ・ホーは、香港と台湾の被験者の調査結果に基づき、孝の価値観を中国の社会化パターンにおける権威主義的道徳主義および認知的保守主義と結びつけている。彼は「権威主義的道徳主義」を、家族や組織における階層的権威の順位付け、および人々を評価する基準としての道徳的教訓の広範な使用と定義している。「認知的道徳主義」は社会心理学者アンソニー・グリーンワルドから派生したもので、「既存の知識構造を保存しようとする傾向」および変化への抵抗である。彼は、孝は心理的発達に悪影響を与えるようだが、同時に、中国人が学業成績を達成しようとする高いモチベーションの一部を説明していると結論付けている[70]。
家族カウンセリングの研究において、孝は両親との絆を確立するのに役立つと見なされてきた[71]。ホーは、孝は家族の不名誉を防ぐために子供を道徳的に育てる義務を伴うと主張している[72]。しかし、孝は児童虐待のような機能不全の家族パターンを永続させることも判明しており、肯定的および否定的な心理的影響の両方がある可能性がある[73]。フランシス・シューは、孝によって知らされる家族優先の態度は、家族全体のレベルで見ると、縁故主義や汚職につながり、国家全体の利益と対立する可能性があると主張した[74]。
中国の親子関係において、権威の側面は慈悲の側面と密接に関連している。例えば、多くの中国人の親は子供の教育を全面的に支援し、子供が勉強に集中できるように、在学中に働くことを許可しない。このような関係における慈悲と権威主義の組み合わせにより、子供たちは親の期待に応える義務を感じ、それを内面化する[75]。しかし、ホーは、中国の親子関係において、恐怖も親の孝行への期待を満たすことに寄与していることを発見した。子供たちは親の期待を内面化するのではなく、感情と役割の解離を通じて、超然とした方法で「良い子供」としての役割を演じることがある[76]。韓国の家族関係を研究している学者ドーンヒ・イムは、子供による親の義務の内面化は、罪悪感や親に対する敵対的な思考の抑制につながり、心理的な問題を引き起こす可能性があると主張している[77]。ジョーダンは、孝が本質的に非対称であるにもかかわらず、中国人のインタビュー対象者は孝に互恵性の要素が含まれていると感じていることを発見した。「...今日自分が仕えている親を、明日奉仕される自分自身として見ることは容易である。」さらに、孝の実践は、孝行な子供に成人としての感覚と道徳的英雄主義を提供する[78]。
歴史
儒教以前の歴史
東アジアにおける孝の起源は祖先崇拝にあり[22]、すでに儒教以前の時代に見出すことができる。甲骨文字などの金石学的発見には孝への言及が含まれている。『易経』(紀元前10世紀 - 4世紀)のような文献には、孝行息子と忠実な家臣という並行概念への初期の言及が含まれている可能性がある[79]。
初期の儒教

唐(6世紀 - 10世紀)では、孝を行わないことは違法と宣言され、それ以前の漢(紀元前2世紀 - 紀元3世紀)の間でさえ、これは斬首刑に処された[33]。両親や祖父母を虐待したり捨てたりする、あるいは彼らのために服喪期間を完了することを拒否するといった不孝と見なされる行動は、追放や殴打、あるいはそれ以上の刑罰で処罰された[80]。
漢代以降、服喪儀礼の実践は孝の礎と見なされ、厳格に実践され強制された。この時期は不安の時代であり、国家は権威を再確立するために長期の服喪の実践を奨励した。両親への孝は君主への忠誠につながると期待され、これは漢の諺「皇帝は孝をもって天下を治める」に表現された[53]。政府高官は、両親が亡くなった後、2年間の服喪休暇を取ることが期待された[81]。地方官吏は、自らそのような孝の模範となることによって、両親への孝(ひいては国家への孝)を奨励することが期待された[82]。王自身も「養老の礼」を通じて、模範的な方法で孝を表現した。ほぼすべての漢の皇帝は、その廟号に「孝」の文字を持っていた[36][83]。このように「礼」の概念の一部として孝を促進することは、法律に頼るよりも社会の秩序を作り出すための対立の少ない方法であった[84]。このように、孝は漢の道徳の要石であった[83]。
儒教の初期において、孝の原理は日本や朝鮮に伝播し、そこで教育システムの中心となった[43]。
元王朝(13世紀 - 14世紀)のモンゴル支配下では、孝の実践は悪化したと認識された[誰によって?]。明王朝(14世紀 - 17世紀)では、皇帝と文人たちが孝の慣習を復活させようと試みた。しかしその過程で、規則や儀式が修正されたため、孝は再解釈された[85]。草の根レベルでも復活が見られ、自警団社会が儒教的価値観を促進し始めた。この自警運動のメンバーが『二十四孝』という本を構成した[86]。
仏教の伝来

孝は初期仏教以来、仏教倫理の重要な側面であり[87]、中国仏教の弁証論や文献において不可欠なものであった[88]。ニカーヤや阿含経などの初期仏教文献では、孝は「両親への感謝に報いること」「善いカルマ」「功徳」という三つの方法で規定され、社会秩序に貢献し維持する方法として実践されている[89]。仏教経典は、感謝と互恵性の資質に基づいて、仏陀と彼の弟子たちが両親に対して孝を実践している様子を描いている[90][91]。
当初、ケネス・チェンのような仏教学者は、孝に関する仏教の教えを中国仏教の特徴的な機能と見なしていた。ジョン・ストロングやグレゴリー・ショペンなどが主導した後の研究では、孝は初期から仏教教義の一部であったと信じられるようになった。ストロングとショペンは、初期の仏教徒の在家信者、僧侶、尼僧がしばしば両親に対して強い献身を示していたことを示す碑文や文献的証拠を提供し、孝はすでに初期仏教徒の信仰生活の重要な部分であったと結論付けた[92][93]。
仏教が中国に伝来したとき、そこには組織化された独身主義は存在しなかった[94]。儒教は両親への孝と皇帝への忠誠を強調しており、仏教の出家生活はその教義に反すると見なされた[95]。3世紀から5世紀にかけて、仏教への批判が高まるにつれて、仏教の僧侶や在家の著者は、孝を支持する仏教の教義や物語について書き、翻訳することで対応した。彼らはそれらを儒教と比較し、それによって仏教とその社会における価値を擁護した[96]。『牟子理惑論』は、仏教批判に対応するために、儒教や道教の古典、および歴史的先例に言及した[97]。『牟子』は、表面上は仏教僧が両親を拒絶し捨てているように見えるが、実際には悟りへの道において両親と自分自身の両方を助けていると述べた[98]。孫綽(300年頃 - 380年)はさらに、僧侶はすべての人々の救済を確実にするために働いており、そうすることで家族に誇りをもたらしていると主張し[98]、劉勰は、仏教徒は亡くなった親族と功徳を分かち合うことによって孝を実践していると述べた[99]。仏教僧はまた、叩頭などの献身によって中国皇帝への敬意を表さないことでも批判された。儒教ではこれらの行為は孝の美徳と関連付けられていたからである。慧遠(334年 - 416年)は、僧侶はそのような敬意を表さないが、心と精神において敬意を払っており、さらに彼らの道徳と美徳の教えは帝国の統治を支えるのに役立っていると答えた[100][101]。
6世紀以降、中国の仏教徒は、仏教が生き残るためには、孝に関する仏教独自の考えを強調した[102]。シャ-マ(Sujāti)やその他の自己犠牲の仏教説話は、孝行な子供は自分の体さえも犠牲にする意志があるべきだという信念を広めた[103][102]。『盂蘭盆経』は『目連救母』の物語を通じて回向の概念を紹介し、盂蘭盆会(お盆)が行われるようになった。これにより仏教徒は、孝が現世だけでなく来世で両親の世話をすることも意味することを示そうとした[104]。さらに、中国では仏教においてすべての生きとし生けるものはかつて自分の親であったことがあり、すべての生きとし生けるものに対して自分の親であるかのように慈悲(カルナー)を実践することが孝の優れた形態であると示された[105]。強調されたもう一つの側面として、母親の出産と育児の際に経験する大きな苦しみであった。中国の仏教徒は、母親の善意に報いることがいかに難しいか、そして母親が子供を育てる際にどれほどのカルマを犯したかを記述した[106]。母親は息子にとって幸福と恩義の主要な源となり、これは父親を強調していた仏教以前の視点とは対照的であった[107]。この時期の仏教批判は大きな影響を与えなかったが、新儒教の復興に至る時期に状況は変わり、武宗(841年 - 845年)は仏教機関を攻撃する理由の一つとして孝の欠如を挙げ、廃仏を開始した[108]。
孝は一部のアジア仏教文化において依然として重要な価値観である。中国では、仏教は帝政後期(13世紀 - 20世紀)まで、国家儀礼や先祖の服喪儀礼において役割を維持し続けた[109]。孝に関する『経典』や物語は依然として広く使用されている[101]。盂蘭盆会は多くのアジア諸国、特に仏教と儒教の両方の影響を受けている国々で依然として人気がある[110]。
帝政後期
17世紀の間、一部の宣教師は中国人が先祖を崇拝するのを阻止しようとした。これは、中国文化に対する攻撃と見なされた[22]。
しかし清朝において、孝は康熙帝によって再定義された。彼は、官吏が孝行息子であることよりも、自分に忠実であることの方が重要だと感じていた。公務員はしばしば、両親のために服喪儀礼を行うための長期休暇を取ることを許されなかった。その結果、社会の並行概念は中国社会から姿を消した[111]。
家父長制とその法的制定は、帝政後期の中国でより厳格になった。従順な子供の義務は、はるかに正確かつ厳格に規定され、法学者の徐道隣(Hsu Dau-lin)はこの時期について「孔子自身とは全く異質な、高度に権威主義的な精神を生み出した」と論じた。法律と刑罰が徐々に厳しくなるにつれて、帝政後期の中国人は家父長制を社会の組織原理として高く掲げた[112]。
同時期の日本では、藤井懶斎により、孝の実践に関する古典的な作品『本朝孝子伝』が編纂されている[43]。
19世紀 - 20世紀
20世紀初頭の中国における進歩主義と共産主義の台頭に伴い、儒教的価値観と家族中心の生活は、国家と知識人によって推奨されなくなった[26]。1911年の新文化運動の間、中国の知識人と外国人宣教師は孝の原理を攻撃し、後者はそれを進歩の障害と見なした[31]。
日本では、孝は近代化の障害とは見なされなかったが、その理由については学者の意見が分かれている[43]。文化人類学者フランシス・シューは、中国と日本で「孝の関係性が成り立つ人間関係の捉え方」が異なっており、中国のような反孝運動は決して起こらなかったと信じていた[43]。
帝政後期の家父長制強化の傾向により、中国人が親族を超えた強力な世襲集団を築くことは困難になった[113]。孝は中国と日本の両方で大いに実践されていたが、中国の方法は日本よりも近親者に限定されていた。工業化が進むと、中国は西洋からの挑戦に対処する方法を孝が制限していると感じたため、日本よりも中国で孝が批判された[114]。このため、中国は日本だけでなく台湾を含む他の東アジア諸国よりも、孝やその他の儒教の側面に対して批判的な立場を発展させた[115]。
1950年代、毛沢東の社会主義的措置により、家業は解体され、国家への依存度が高まった。特に文化大革命では、張紅兵事件に見られるように、親が子を売ってでも革命を守るという行動が見られた。一方、台湾社会においては国家統制がそこまでは進まなかった[116]。
19世紀および20世紀初頭の民族誌的証拠は、中国人が依然として年長者を非常に大切にしており、年長者はしばしば既婚の息子一人以上と同居していたことを示している[117]。
現代社会における展開
21世紀の中国社会では、孝への期待と実践は減少している。その原因の一つは、両親と同居しない核家族の台頭である。家族計画と住宅不足のために家族は小規模化している。その他の原因としては、個人主義、高齢者の地位喪失、若者の都市への移住、若者と女性の自立が挙げられる[118]。この傾向を増幅させているのが、高齢者人口の急速な増加である[26]。
夫婦関係がより強調されるようになり、拡大家族はそれほど重視されなくなった。夫と妻の家族間の親族関係は、より双系で平等になっている[119]。年長者への尊敬の表現方法も変化している。年長者とのコミュニケーションはより相互的になり、一方通行ではなくなりつつあり、従順や屈従に代わって親切や礼儀が重視されている[120]。
介護

現代の中国社会において、高齢者ケアは変化した。研究によると、親の孝行への期待と子供の行動との間に不一致があることが示されている[62]。子供が示す敬意に関する不一致は、高齢者を特に不幸にしている[62][6]。工業化と都市化は孝の実践に影響を与え、ケアは人的な方法よりも金銭的な方法で行われるようになっている[6]。2009年現在[update]、若者による高齢者の介護は中国において革命的な変化を遂げておらず、家族の義務は依然として強く、「ほぼ自動的」なままであった[121]。年長者への尊敬は、東アジアの人々にとって依然として中心的な価値観である[122]。
社会学者マーティン・ホワイト(Martin Whyte)は、1990年代の台湾と中国のデータを比較し、台湾の高齢者は政府からの支援は少ないが、中国に比べて子供からの援助を多く受けていることが多いと結論付けた[123]。
労働観とビジネス慣習
中国のビジネス文化において、孝の影響力は低下している。2003年現在[update]、中国政府は国の近代化のために西洋式のビジネス慣習と管理スタイルを推進した[124]。しかし日本では、従業員は通常、雇用主を一種の父親と見なし、孝行心のような献身を表明する義務を感じている[125]。
法律との関係
大規模な中国人コミュニティを持つ一部の社会では、孝を確立または維持するための法律が導入されている。2000年代、シンガポールは年老いた両親の扶養拒否を犯罪とする法律を導入し、台湾も同様の懲罰的措置を講じた。一方、香港は義務を果たすためのインセンティブを提供することで住民に影響を与えようとした。例えば、年老いた両親と同居する市民には一定の税控除が与えられる[126]。
一部の学者は、中世中国の孝による統治への依存は、法的手段のみによる社会よりも、犯罪やその他の不正行為を防ぐ能力が高い社会を形成したと主張している[84]。
キリスト教
キリスト教やユダヤ教においても孝(孝愛)は貴ばれ、その教えは旧約聖書の十戒の中にも見ることができる[127]。
あなたの父母を敬え。そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。 第四戒 出エジプト記 20・12
第一戒よりは下にされ、神に反する場合には従ってはならない、とされながらも、基本的に親への孝行は大切な美徳かつ掟とされ、「ルツ記」など聖書中の多くの箇所で、親に孝行であった者は神の祝福を得て、対して不孝であった者が不遇な人生をおくった様が描かれる[128]。
カトリック教会では、この掟を忠実に守れば、霊的実りと共に、現世の実りである平和や繁栄も得られ[129][130]、反対に、親に不孝な人間は、あの世だけでなく、この世でも罰を被ると教えている[129][131]。
また、親の存命中だけでなく、死後も親を含む、先祖を敬い、その為に祈ることは子孫の義務であり[132]、孝の対象は、広義には親のみならず、近親者、国家、民族など自分と関わりのある人達を含むとしている[133][134]。
その理由として、父母は神に次ぐ恩人で神の代理者だからであり、親に悪口を言ったり、非礼を働くことは、親への尊敬に悖るとされ、親の命令を軽んじたり、それに反したりすることは、親への従順に背くとされる[135]。また、親を殴るような行為は大罪とされ、適切な方法で悔い改めなければ、永遠の地獄に墜ちるに値する行為とされる[136]。
一方で、親は、子は神から預かったものであるので、その取扱いの善し悪しによって、神からの賞罰を招く、と教会は教えている[137]。健康に注意して、自らの子を育て、身分に応じてその将来の幸福を図り、しかしただ愛に溺れるのではなく、霊魂上のことを考え、悪を戒めて、進んで良い模範とならないといけないと教える[138]。
儒教と比較した場合、キリスト教は、孝は説くが、その対象は親から始まるが隣人や社会、国家など自分と関わりのある全ての人に及ぶとされ[133][134]、またその重要度は神への愛の下に置かれ、その意義は神との関係性の中で説明された(神との関係があって、はじめて価値を持った)[139]。結果、孝行は崇高で大切とはされたものの、その意義が儒教ほどに肥大することはなく、他の社会的美徳との矛盾・相殺効果は免れたのである。
聖書中の逸話
聖書には、親に孝行であった人が幸福を得て、不孝であった人が災難を被る様が何度か描かれるが、中でも「ルツ記」は有名である。それによると、士師の時代、ベツレヘムに飢饉があって、エリメレクとナオミの夫婦はモアブの土地に逃れた。夫婦の二人の息子は、それぞれモアブ人の女、オルパとルツを妻にした。しかし、ナオミの夫はやがて死に、二人の息子も十年のうちに死んでしまう。
ナオミは老けていくうえ、異郷にあっては頼る者もいないので、ベツレヘムの飢饉の終息を耳にしたこともあって、意を決して故郷に戻ることにした。二人の嫁もついてきた。ナオミは、二人の境遇を哀れに思い、言葉を尽くして、実家に帰るように勧めたが、二人は泣いて同行を求めてやまない。
しかし、一緒にベツレヘムに行っても、将来の見込みがあるわけではない。二人の若い身の上が哀れに思ったナオミは強いて帰郷させようとする。オルパは、やっとその言葉に従い、泣く泣く暇乞いして実家へと帰っていった。でも、ルツだけはどうしても離れない。
あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、その他のことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。 ルツ 1・16-17
貧しい、老いた姑に、ついてゆき、どこまでも行こう、どんな難儀でも厭おうとしない。ナオミも、彼女の美しい心に感動し、そのまま連れだって、ベツレヘムへと帰路についた。
二人がベツレヘムに着いたのは、ちょうど大麦の刈り入れの時期であった。当時のユダヤの慣習では、異邦人、寡婦、貧しい人は、刈る人の後から落ち穂を拾ってもいいことになっていた。
よって、ルツは、ナオミの許可を得て、落ち穂拾いへと出かけたが、幸いなことに、その畑主は、エリメレクの親戚にあたるボアズという豪農だった。ボアズは、畑を見回りにいって、ルツの熱心な働きぶりにしみじみと感心した。昼には呼んで他の小作と共に食べさせたり、敢えて麦穂を落として、心おきなく拾わせるたり、いろいろと親切にいたわった。
一方のルツは日暮れまで働いて、一斗あまりの麦を拾い、それと昼飯の余りを持ち帰って義母を喜ばせた。その後も、毎日ボアズの畑へ行って、真面目に働き、一日もナオミに孝養を怠らない。ボアズはルツの心がけの美しさに、心から感服し、ついには、ルツをめとって妻にし、オベデという男子を生んだ。このオベドの子がエッサイであり、その子は有名なダヴィデ王となり、その子孫からイエスが生まれた。
このように「ルツ記」には、自ら逆境を覚悟して不幸な親に仕えた者が、一転して、身に余る幸福を得たストーリーが描かれ、孝行な人は、この世でもあの世でも大きな恵みを受ける、とは決して言いすぎではないと教える。[128][140]