建安年間の初め、諸葛亮・石韜・徐庶らと共に荊州へ遊学した。諸葛亮以外の3人は学問を精密に追求したのに対し、諸葛亮だけは大略を理解することに努めた。
ある時、孟建は故郷を偲び、北方へ帰ることを望んだが、諸葛亮からは「中国(中原の意)には士大夫が沢山いる。遊び歩く場所は何も故郷に限らんだろう」と引き止められた。諸葛亮はまた孟建ら3人を「君たちは出仕すれば刺史か太守には至るだろう」と評していた。3人は、諸葛亮自身はどうかと尋ね返すと、彼はただ笑うだけで答えなかった。
孟建は魏に仕え、涼州刺史となると[1]、その優れた統治により名声を得た。官位はさらに征東将軍にまで昇った[2]。
諸葛亮は敵国である蜀漢の丞相となったが、魏の使者として杜襲を迎えた時には「公威(孟建)に宜しく」と伝えている[3]。