実在
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概要
reality(英語)、Realität(ドイツ語)、realité(フランス語)は通常「実在」もしくは「実在性」と訳されることが多いが、日常の用語としては「現実」ないしは「現実性」と訳されることもある。actuality(英語)、Wirklichleit(ドイツ語)、acrualiyé(フランス語)と同様に使用される。 日常的には健康な知覚内容に対応する形で時間的空間的な外界に存在する事物等の対象を意味する[3]。
しかし日本における哲学用語としては両者は異なった使い方をされる。英語における reality は actuality がpossibility(可能性)、inevitability もしくは necessity(必然性)と同様に事物の存在のありさまや様子を意味する存在論的概念であるのに対して、日本の哲学用語としての reality は ideality(観念性)と対を成す用語である。 ideality が意識の内部に観念として存在するのに対して reality は意識とは独立して事物や事象として存在するあり方を意味する認識論的な概念である[4]。
プラトンの『イデア』の世界や、プラトンの死後およそ500年後に生まれたプロティノスによるイデア論における二元論を克服するための『一者』といった思想や、ヘーゲルの『絶対精神』の思想は形而上学的実在と呼ばれている[3]。
古代ギリシアの実在
中世の実在
近代の実在
西田幾多郎の実在
西部邁の実在
実在について西部邁(評論家)はこう述べている。
「探し当てられるべきは実在(真理)なのだが、実在は言葉を住(す)み処(か)とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者(ぼくしゃ)にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。」 — (『虚無の構造』西部邁著 148ページ 9〜17行目より引用[9])