富田三保之介
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家系
生涯
日本との通商通交を求め、欧米列強の来航が相次いだ幕末にあって、攘夷を求める朝廷と攘夷を渋り開国へと向かう幕府との対立が深まる中、諸大名も開国を支持する譜代大名らと攘夷を迫る水戸藩はじめ外様雄藩との間で見解が大きく分裂。攘夷の急先鋒であった水戸藩でも藩内で親幕府の姿勢を採る諸生党と、攘夷決行を求める親朝廷方の天狗党との対立が深まっていた。
両派の対立が激化した元治元年(1864年)、三保之介ら天狗党は水戸の支藩で宍戸藩主の松平頼徳を奉じ、水戸城内を牛耳っていた諸生党と那珂湊の戦いで諸生党と合戦に及んだ天狗党の乱が勃発。一連の騒擾は天狗党を幕府に反意を持つ賊徒と看做される結果を招き、幕府の追討を招いた[4]。
同年8月、軍事奉行となるも、10月、幕府方に自首。下総国古河藩に拘禁となり、元治2年(1865年)4月5日、同藩領内で切腹した[5]。享年28。
墓は水戸の常磐共有墓地に建立された。明治に至り、靖国神社に合祀され、大正7年(1918年)に正五位を贈位されている[1][6]。その跡目は水戸藩家老安島帯刀の次男知正が継承した[2][7]。