并州
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漢代
魏晋南北朝時代
後漢末の混乱期には異民族の侵入が続き、并州9郡のうち、215年(建安20年)に支配が形骸化した、オルドス地方の朔方・上党・五原・雲中・定襄の各郡が正式に放棄され、新たに新興郡が設置された。また南匈奴を中心とする異民族の大量流入に対処すべく、曹操は并州とその周辺に茲氏・居祁・蒲子・新興・大陵の五部の匈奴居留地を設置し各部に都帥を設置して統治している。
西晋末に発生した八王の乱に際しては、劉淵が并州周辺の匈奴勢力を糾合、304年(永安元年)に離石において自立し大単于と号した。その後劉曜により趙公に封じられた石勒が并州を支配したが、石勒は318年(麟嘉3年)に襄国を拠点として自立し後趙を建国、朔方一帯(オルドス)を分割して朔州を新設した。後趙が滅びた後は華北東部を支配した三燕の領土となったが、同時に前秦・後秦・夏などの華北西部の政権も洛陽周辺に并州を置いていたため、東西に二つの并州がある状態が続いた(苻堅が短期間華北を統一した時期を除く)。
北魏の時代になると446年(太平真君7年)に肆州、448年(太和12年)に汾州が分割新設されるなど行政区画の細分化が進められた。北周は并州を要地として河北道総管府を設置した。