弘元

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弘元(こうげん、宝暦6年(1756年) - 天保13年(1842年))は、江戸時代中期の真言宗僧。但馬満福寺の第50世・第52世(重任)住職。字は義超。俗姓は結城氏。学徳兼備で江戸期における但馬の弘法大師と呼ばれた[1]池田草庵の老師。

来歴

満福寺住職として

但馬国城崎郡湯島の素封家・山本旅館の出身[2][3]。幼くして但馬国名刹満福寺に入山。僧名は「弘元」。天明元年(1781年)、24歳の時、高野山塔頭にて勉学修行を行い寛政7年3月26日1795年5月14日)、中流院の伝授を受ける。満福寺の第50世を継ぐも求道のため、弘仁上人に代を譲る[4]。石和庄亀岡山松尾寺を道場として、阿闍梨律師・等空ら受者21人に中流院を伝授する。弘仁上人が文化2年(1805年)に早逝したため、満福寺第52世として再び住職になる[1]。『史記評林』25冊を購入し子弟に講義を行った。

高野山の西塔再建に尽力

これより先、寛永7年(1630年高野山の大塔が落雷により出火。金堂、御影堂、西塔等がみな灰燼と化す事故があり大塔、金堂はほどなく再建されたが、西塔は「塔基焦土に埋り仮堂も又朽損す」という有様であった[5]。そのため、寛政6年(1794年)、高野山 正智院の第37世・英寂が西塔再建の本願主となり、自己資金1000両を基金として提供したが果たせず志を継いだ、正智院 第38世・覚道が西塔再建を幕府に願い出て公許を得ることが出来た[6]。弘元上人は、この再建に取り組み東奔西走し尽力[1]。正智院覚道より以後、満福寺は本山へ結衆の推薦を経ず「上人」号を名乗ることの出来る「永代上人」号を賜った[7]。しかし、覚道の代には再建することが出来ず老齢のため退任。第39世・乗如がこの再建事業を引継ぎ、苦心惨憺20余年、天保5年(1834年)に完成を見た。

晩年

弘元上人は、代を経て高野山 学侶筆頭 正智院乗如の再建事業にも尽力を続け、文政3年9月21日1820年10月27日)、65歳の時、満福寺は真言道場として高野山と同格であるとして、本山より「御遺告」の伝授を賜った[7]。晩年は別名として「弘憲」とも名乗っている[8]。天保13年(1842年)遷化。年87歳。墓は満福寺歴代住職塋域にあり。

養父神社別当寺住職

江戸時代神仏習合であったため、養父神社の別当寺である普賢寺[9]の第12世住職にも就任している[10]

主な弟子

学徳兼備で江戸期の但馬の弘法大師と言われ直弟子は21人いた[7]

  • 弘誓(長楽寺住職)- 但馬国七美郡但馬大仏のある寺院[11]
  • 弘潤(常楽院住職)
  • 弘天(遠林寺住職)- 播州赤穂(赤穂浪士ゆかりの寺院[12]
  • 弘心(自性院住職)
  • 弘乗(西方寺住職)
  • 弘洞(福生寺住職)- 大和国宇智郡[13]
  • 弘智(光明寺住職)- 但馬国七美郡(但馬六十六地蔵尊霊場札所の一つ[14]
  • 弘遍(延命寺住職)
  • 弘門(福王寺住職)
  • 弘澄(高照寺住職)
  • 弘門(大岡寺住職)
  • 弘尊(大仙寺住職)
  • 弘融上人(第57世・満福寺住職)- 但馬国大藪領主小出家中・高岡藤左衛門義熈の四男[15]
  • 池田草庵(孫弟子にあたる[16]

前後に就任した住職

  • 弘全上人(第48世・満福寺住職)
  • 弘仁上人(第51世・満福寺住職)- 但馬国養父郡上藪崎・山本重良兵衛家の出身
  • 弘実上人(第53世・満福寺住職)- 但馬の慈雲尊者と呼ばれた[17]池田草庵の師
  • 弘鳳上人(第55世・満福寺住職)- 但馬国養父郡浅野村・橋本新右衛門家の出身
  • 弘詮上人(第56世・満福寺住職)- 弘鳳の実弟

生家

生家の結城家は、古くから海内第一泉と称された城崎温泉の外湯「一の湯」の隣にあり、江戸時代初期の温泉案内書にも紹介されている老舗旅館・山本屋[18]

補註

参考文献

関連項目

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