徐稚
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生涯
逸話と評価
徐稚は死者があれば食料を背負って歩いていき、鶏酒を供えて弔い、哭し終わると名前を告げずに去った。郭泰の母が亡くなった時は喪に参列し、生芻(まぐさ)一束を送り、詩の「生芻一束、其人玉の如し」(『詩経』小雅・白駒)にたとえた。ある時、郭泰などの名士が数十人集まった時に、徐稚が来たことをあやしみ茅容に後を追わせたところ、「大樹のまさに倒れんとするや、一縄のよく支うるところにあらず。何ぞ恋々として俗事に拘泥せん」と答えて去った。子の徐胤も孝悌をもって知られたが、隠居して官職には就かなかった。
王勃の『滕王閣序』の冒頭部分で「人傑地霊、徐孺下陳蕃之榻」と称えられ、南昌にある青山湖畔に徐孺子祠堂が建てられたが、北宋時代の詩人の黄庭堅が南昌に遊学した時にはその祠は「湖水は年年と旧痕に到る」といった有様だったという。
参考文献
- 『後漢書』巻83