思
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上座部仏教
ひとは思によって身口意(=三業, さんごう)が形成される。行為(kamma)の善悪は、身口意として発現される意思によって決定されるのである[3]。
Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi, cetayitvā kammaṃ karoti kāyena vācāya manasā,
比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。
— パーリ仏典, 増支部洞察経, Sri Lanka Tripitaka Project
思って(cetanā)から、身体(kāya)・言語(vāk)・意(manas)によって業をなす。[3]
さらに仏教は、すべてのものに原因が存在するという見解に立つため(因果)、「思が自発的なものであること」の否定を認めていない[3]。その帰結として、悪行からは悪果を生むために(善因楽果・悪因苦果)、仏教は自律を説くのである[3]。