戸手
神奈川県川崎市幸区の町名
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地理
歴史
中世以前
江戸時代
江戸時代の当地ははじめ天領であり、一時久世氏領となったものの天領へ戻ったが、徳川家継(有章院殿)の死とともに、その御霊屋料として増上寺へ寄進された[10]。1694年(元禄7年)以降には川崎宿の定助郷が課されていたが[9]、増上寺領となってからは、幕末の元治期に至るまで[11]免除されていた[9]。村高は、正保期の「武蔵田園簿」[12]から、「元禄郷帳」、「天保郷帳」、幕末の「旧高旧領取調帳」を通じて409石1斗あまりであった[10]。
農地としてはほとんどが水田であったが[13]、梨の栽培も行われ、江戸へ出荷されていた[14]。水利としては二ヶ領用水を用いたが、水争いも起きており、特に1771年(明和8年)には、戸手村・古川村・小向村など5村と下流の3村の間で、分水口の数をめぐり争論となっている[15]。元来は1村1堰であったものが、いつしか崩れていきさらに取水が行われた結果の争いであった[16]。
明治以降
明治以降、当地は行政上御幸村→川崎市と推移していった。御幸村の役場は当初塚越にあったが、当地に移転した[7]。明治時代には梨の生産が最盛期を迎えたが、大正に入ると周囲の宅地化、そして庭木として植えられたビャクシン属の樹木による赤星病などで衰退していった[17]。その他モモ・イチジクの栽培や養蚕も行われていたが、いずれも大正末までには衰退している[18]。
川崎市となって以降、耕地整理などによって、遠藤町・神明町・紺屋町・河原町・戸手本町というように、戸手から多くの町が分立していった。また、戸手町も分立したが、これは住居表示の実施とともに戸手となった[18]。
地名の由来
いくつかの説はあるが、正確なところはわかっていない[13]。
沿革
- 16世紀後半 - 「小田原衆所領役帳」に戸手の記述が残る。
- 江戸時代はじめ - 当地は天領であった。
- 1664年(寛文4年)- 久世氏領となる[13]。
- 1686年(貞享3年)- 天領に戻る[13]。
- 1717年(享保2年)- 有章院殿御霊屋料として増上寺領となる[14]。
- 1868年(明治元年)- 明治維新。当地は神奈川県所属となる。
- 1874年(明治7年)- 大区小区制の施行により、当地は第4大区第6小区となる[14]。
- 1889年(明治22年)- 町村制施行により御幸村が成立。戸手はその大字となる。
- 1924年(大正13年)- 御幸村・川崎町・大師町の合併で川崎市が成立。当地は川崎市戸手となる。
- 1928年(昭和3年)- 遠藤町・神明町一丁目[19]・紺屋町・河原町が分立[14]。
- 1936年(昭和11年)- 戸手町一丁目・二丁目が分立[18]。
- 1938年(昭和13年)- 神明町二丁目が分立[19]。
- 1951年(昭和26年)- 戸手本町が分立。
- 1967年(昭和42年)- 御幸保健所(現在の幸保健所)が設置される[18]。
- 1971年(昭和46年)- 御幸消防署(現在の幸消防署)が設置される[18]。
- 1972年(昭和47年)- 川崎市が政令指定都市に移行。川崎市幸区戸手となる。
- 1976年(昭和51年)- 戸手町と戸手に住居表示が実施され、戸手1丁目~4丁目となる[14]。戸手町と、大字としての戸手は消滅[18]。
- 1999年(平成11年)8月 - 「弱い熱帯低気圧」による大雨により多摩川が増水し浸水被害が出た。[20]
小字
世帯数と人口
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2025年4月時点)[28][29]。
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 戸手1丁目 | 全域 | 川崎市立西御幸小学校 | 川崎市立御幸中学校 |
| 戸手2丁目 | 全域 | 川崎市立御幸小学校 | |
| 戸手3丁目 | 全域 | ||
| 戸手4丁目 | 全域 |
