父祖の代からの仏教徒であり、幼い頃に已に西晋末の華北の動乱を避け、江南に移り住んでいたが、25歳で出家した。『道行般若経』などの教理研究に専心した。
一方、老荘思想や清談にも精通しており、『荘子』「逍遥遊篇」に注釈を加え、独自の見解を述べている。その後、呉郡呉県の支山寺に入ったが、王羲之の要請によって会稽郡山陰県の霊嘉寺に移った。以後も、各地で仏典の講説を行い、弟子百人あまりを率いていた。哀帝の招きにより、都の建康に出て、東安寺で『道行般若経』を講ずるなどした。王羲之や孫綽・許詢・謝安・劉恢らの東晋一流の文人らと交遊した。
太和元年(366年)閏4月、会稽郡剡県石城山の栖光寺で病死した。