敦実親王
平安時代中期の皇族。宇多天皇の八男。一品・式部卿
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経歴
寛平5年(893年)贈皇太后・藤原胤子を母として誕生[6]。寛平7年(895年)親王宣下を受け、延喜7年(907年)宇多院において元服を迎えるが、醍醐天皇より宸筆の位記を賜り、三品に叙せられている。
親王は若くして管弦の才を現し、宮中の文化的な行事において重要な役割を果たした。延喜13年(913年)の亭子院歌合では右頭を務め[7]、延喜16年(916年)には醍醐天皇の行幸による宇多法皇の五十の算賀の宴に陪席した[8]。特に音楽面での貢献は著しく、延喜17年(917年)3月および18年(918年)2月の六条院への行幸における御遊では笛を奉仕し[9]、延長3年(925年)正月の仁和寺朝観行幸や清涼殿での臨時御会では、敦慶親王や公卿らと共に弦歌を奏している[10]。また、北野や大原野への行幸にも度々供奉した。
朱雀天皇の代になっても親王への厚遇は続き、承平2年(932年)10月には牧馬を賜り[11]、承平7年(937年)正月には天皇の元服に伴う饗宴に参列した[12]。天慶2年(939年)3月には仁和寺内の八角堂供養に関わったほか[13]、同年11月には、輦車に乗っての宮中出入りや、諸節会の日に行列に加わらず直接昇殿することを許されるという特権的な待遇を受けた[14]。この許可を得た親王は、同月の豊明節会にて初めて輦車に乗り参内している[15]。
その後も、成明親王の元服や白馬節会、賀茂臨時祭などに参列し、天盃を賜るなど宮廷儀礼の中心にあった[16]。天慶8年(945年)正月には右大臣・藤原実頼の饗宴で「帰徳」・「胡徳」の曲を歌うなどしたが[17]、同年12月には上表して職を辞し、その辞表は関白・藤原忠平のもとへ届けられた[18]。
村上天皇の治世となった天慶9年(946年)12月、先帝の時と同様に輦車の使用と直接の昇殿が許された[19]。その後も朱雀院への行幸における管弦の御遊に参加し、琵琶や和琴を弾じた[20]。天暦4年(950年)2月3日、親王は剃髪して出家し、覚真という法名を名乗って仁和寺に住することとなった。
出家後もその音楽的才能は宮中から求められ、天暦9年(955年)の御仏名では召されて参内し、和琴を演奏した。その琴音は「白雪紛々、恰如落花」と絶賛され、御衣や茶具などを賜った[21]。晩年は仁和寺で法会を修するなど仏道に勤しみ[22]、康保4年(967年)3月2日に75歳で薨去した。村上天皇は訃報に接し、喪料として絁や布を贈った[23]。