方臘の乱
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概要
花石綱事件を直接の原因とし、徽宗が行った種々の苛政を背景にして、漆園の経営者で「喫菜事魔(マニ教)の徒」である方臘の主導によって発生した。反徒は役所や寺・道観・学校を襲撃して官吏を殺害し、一時期は江南の6州52県(あるいは13州53県とも)が反乱軍の手に落ちた。方臘は自らを聖公と名乗り、永楽という年号を定めた。
折りしも北宋では、海上の盟に則り、遼攻撃に備えて禁軍遠征部隊を編成していた。そこから15万を割き、童貫を総司令官として南征軍を編成し、方臘討伐を開始した。童貫が長江を渡渉すると、方臘は銭塘江流域の睦州清渓県に移動して童貫軍の攻撃に備えた。童貫軍は信徒数十万人を殺し尽すという過酷な戦の末に、翌宣和3年(1121年)4月には方臘や方肥らを捕え、開封にてこれを処刑した。
北宋は、この戦線に禁軍を割いたことにより、金との遼共同攻撃に出遅れた。また、禁軍がこの戦線で疲弊したことも、耶律大石戦での敗因の一因となった。
方臘の反乱と、童貫軍の激しい略奪もあいまって、江南の疲弊は大きなものとなった。これは宋の南遷と、その後の対金戦線での苦戦の遠因となっている。