月性
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経歴
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元僴・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。松蔭との付き合いは、松蔭が黒船への乗り込みに失敗し、萩の野山獄にいた頃からという。嘉永元(1848)年、月性が32歳の時に開いた私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)」は、「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称され、多くの門人を輩出している。久坂玄瑞も一時期、ここで学んだ。月性は松陰より13歳年上になる。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星巌・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。
安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。
