末吉氏
坂上氏の流れを汲み、豪商や江戸時代の旗本を歴任した日本の氏族
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歴史
出自
末吉氏の源流である平野氏は坂上氏の庶流にあたり、坂上田村麻呂の次男で摂津国平野荘を賜った坂上広野麻呂に始まる氏族である。広野麻呂の曾孫で秋田城介権守の坂上行松が平野行増と名のったといわれる。
摂津国平野は中世の室町時代から戦国時代・安土桃山時代にかけて和泉国堺と並ぶ自由都市として知られ、平野氏をはじめとした坂上氏の庶流「平野七名家」による合議制の統治が行われたが、中でも平野氏は番頭格の家として坂上氏を支えていた。
末吉氏の創始
末吉氏という氏族名自体は、広野麻呂から9代目で平野野堂町を支配した野堂末吉に由来し、その13代後の末吉増利が先祖の名前を苗字にしたのが始まりである。増利の孫・平野行増の代に分家が起こり、長男・末吉増久が東末吉家を、次男・末吉利方が西末吉家を立て、三男は平野姓に戻った。
安土桃山時代、当時の当主・平野利吉の弟であった末吉利方が豊臣秀吉から「末吉」と名のるように言われたことが始まりであるという説もある[4]。末吉氏は七名家筆頭の家柄を誇り、平野七名家が平野の自治権を掌握し、末吉氏は絶大な権勢を振い[要出典]平野郷の発展に寄与した。
豪商として
末吉氏は豪商であり、1601年(慶長6年)に設けられた伏見銀座の年寄を利方と子の末吉吉安が歴任した[7]。また、朱印船貿易で知られ、豊臣秀吉や徳川家康から朱印状を与えられてトンキン・ルソン・シャム方面へ渡航し、巨万の富を得た[7]。
末吉氏は商人として財政面に優れた。利方は徳川家康に伏見銀座の設立を提言して認められ、年寄となった。
代官・旗本として
江戸時代に勃発した大坂の陣において、西末吉家の利方が合戦での功績を大きく評価され、河内国志紀郡・河内郡の代官に任ぜられたほか、5万石の幕府旗本を保証された[7]。末吉吉安の後も、末吉長方が鎖国まで朱印船貿易を続けたほか、朱印船貿易で得たノウハウを活かし、柏原村(現・柏原市)の復興を行うために河川交通の柏原船の運航を行った。
分家
また、西末吉家から大和國吐田郷名柄村(奈良県御所市)の市田家の養子となったが、三代目から再び末吉性を名乗った御所(ごせ)の末吉家が存在する。屋号を平野屋とし、江戸時代から昭和初期にかけて代々庄屋、村長などを歴任した。御所末吉家の子孫も2025年(令和7年)現在、名柄の地に現存している。
著名な人物
- 末吉利方
- 戦国時代から安土桃山時代の豪商。徳川家康から伏見銀座の設立を認められて頭役となった。大坂江戸間での廻船業も営み、東西間の航海権を独占していた。同じく自由都市・堺に関わりのある千利休の知己であり、10通を超える書状をやりとりしていた。号は道勘。
- 末吉吉安
- 利方の孫。豪商・旗本で、利方から銀座の年寄職を受け継いだ。「末吉船」として朱印船貿易で大きく成功した。利方の息子、養子、娘婿ともいわれる。
- 末吉長方
- 吉安の息子。商人で、旗本の地位を受け継いだ。柏原村の復興政策として「柏原船」を創始した。
- 末吉道節
- 松永貞徳、斎藤徳元に学んだ俳人。徒然草六十段を踏まえた「もしあらば雪女もや白うるり」が著名で、「白うるりの道節」とよばれた。道節は俳号で、本名は増則。