本多正之
江戸時代前期の旗本。本多正純の孫。
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生涯
本多正之は、江戸時代初期に徳川家康の側近として活躍したものの、徳川秀忠の代に失脚した本多正純の孫にあたる。
本多正純の改易と一族の配流
元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩15万5000石の藩主であった正純は、出羽国山形藩最上家改易のため出張中に改易を命じられ、同国由利(現在の秋田県由利本荘市周辺)に移された。正純は5万5000石を支給すること(本荘城を中心とする「本荘藩」への減転封[2][3])を示されたが固辞したといい[4][5][6]、一般に「配流」と表現されている[5][4]。元和9年(1623年)に大沢(現在の大仙市大沢郷地区[7])に移され、賄料として1000石を与えられた[4][5]。寛永元年(1624年)、久保田藩主佐竹義宣に預けられた[4][5]。
正純の嫡男であった本多正勝は、父の処分に連座し、出羽への配流をともにしている[5]。正勝には正室(戸田氏鉄の娘)との間に生後間もない長男(本多正好)があったが、正好は父らの配流後、外祖父の戸田氏鉄のもとに引き取られている[5]。
義宣は、横手城代・須田盛秀に正純・正勝父子の身柄を預けた[8]。以後彼らは横手(現在の横手市)に住し[4][5]、1000石が支給された[5]。横手城の三の丸に相当する高台に本多正純(上野介)父子を幽閉する居館が築かれ[8]、のちに父子の墓が設けられたため、この高台一帯は
生い立ち
本多正之は、寛永7年(1630年)[注釈 1]に正勝の二男として横手に生まれた[1]。『寛政譜』によれば母は「某氏」とある[1][注釈 4]。本多正勝は、政之の生まれた寛永7年(1630年)に死去した[5]。
のちに[注釈 5]「所縁」のある尾張藩付家老の成瀬正虎[注釈 6]のもとに引き取られ、正之は成瀬家の所領である尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)に住した[1]。
赦免から大身旗本へ
寛文4年(1664年)7月24日に赦免を受け[1]、同年10月15日に徳川家綱に初めて拝謁[1]、12月27日に蔵米2000俵を給されて寄合に列した[1]。
延宝3年(1675年)1月26日、使番となる[1]。同年12月26日、布衣を許される[1]。
延宝5年(1677年)2月9日、将軍の命により、法皇御所[注釈 7]と女院御所[注釈 8]の造営の奉行を務める[1]。任務を成功させ、法皇・女院から褒美を受けるとともに、江戸帰任後の12月7日には幕府からも時服3領などの褒賞を受けた[1]。12月19日、普請奉行に任じられる[1]。
延宝7年(1679年)12月10日、駿府城の定番に任じられ[1]、この際に遠江国山名郡・駿河国富士郡内で1000石の知行を加増された[1]。元禄元年(1688年)2月28日、駿府において死去、享年59[1]。牛込の浄泉寺に葬られた[1][注釈 2]。
系譜
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、養子も含め三男三女が記される[15]。( ) 内は『寛政譜』の記載順。また、養子についても『寛政譜』の記載に準じ「二男」などと数える。
- 正室:船橋相賢の養女
- 生母不明の子女
- 長男(1):本多弥三郎 - 早世
- 女子(4) - 本多正芳の妻
- 女子(5) - 高城清胤の妻
- 女子(6) - 尼となる
- 養子女
- 二男(2):本多求馬 - 某氏の子。延宝8年(1680年)に徳川綱吉への御目見を果たしているが、その後の事績は記されない。
- 三男(3):本多正芳 - 石川正信(政信[16])の三男。婿養子となり家督を継承。
補足
- 本多正芳のとき、正之の駿河の知行地は下野国塩谷郡内に移され、2000俵の蔵米知行は安房2郡内2000石の知行地に改められており、3000石の領主となっている。
- 『寛政譜』編纂時まで、この家は正之=正芳=
正庸 ―正安=正命 ―正峯―正収 と続いた(―は実子、=は養子関係)。